第36話「狂う女」


「さっさと準備しろよ」

「分かってる」



 クイッ、と顎で指示されて眉根を寄せつつも、井上は重い腰を上げる。

 歩み寄って、満月みつきに手を伸ばした、その時だった。



「――かえして」



 どこか柔らかく、か細い。彼女らしからぬ声で、ポツリと脈絡のないことを言い出したのは。



「ああ?」


 

 満月は俯いており、表情が伺えない。それでも、頬を伝うあたたかい雫はベッドのシーツへと落ち、ジワリと滲ませた。

 一度零れたものは留まることを知らず、ポタポタと流れ落ちる。


 放たれた言葉より目で見るものの情報が多く感じるものなのだろう。いや、何か言ってる、くらいの認識だったのかもしれない。

 佐藤は気分を害されているからか、荒々しい態度だ。



「かえして」

「はっはっ! ヤることやったら帰してやるよ」



 もう一度、はっきりと告げられたそれに彼は豆鉄砲を食らった。けれど、すぐさま、声を上げて笑う。

 自分が思い描いていたものとは違えども、似たり寄ったりの姿に気を良くしたように吐き捨てた。

 その様は外道の輩のそれだ。



「違、う……あなたが、奪ったもの」

「はあ?」



 ゆるり、と顔を上げられる。頬を涙で濡らしながら、静かに否定した。そっと出される手のひらは、まるで、そこに乗せろと言わんばかりだ。

 けれど、それに佐藤は眉根を寄せて、唸る。



「私の首を絞めるのに邪魔だって引きちぎったペンダント、よ……覚えてない、の?」

「な、に言ってんだ……?」

「……」



 光のない目で、目の前にいる男たちを恐れるでもなく、怯えるでもなく、無表情なまま見つめていた。しかし、彼女の首元にはネックレスなるものは、元からなく、引きちぎってすらいない。


 佐藤が満月にしたことがあるといえば、首を絞めたこと。それだけだ。


 壊れたアンドロイドのように手を差し出す彼女に違和感を覚えて、顔色を悪くさせる。

 得体の知れない何かを感じて、身を引くと隣にいた井上もまた顔を強張らせていた。



「天、どうさ……?」



 乱暴に扱われ、放置された菅原ですら、彼女の違和感に気が付いている。震える唇で紡ぐが、声が出しづらいのもあってか、かすれていた。

 もし、余計なことをして彼らに今以上に酷いことをされるかもしれない、と思うと動けないのだろう。


 たった一日、されど一日。

 身体に染み込まれた身体は無意識に硬直させている。



「あの時、も苦しかった……あなたの笑う声がっ、嫌いだった……! かえして、ってお願い、したのに……っ、私をバカにして……殴って首を絞めて…………楽しんでるだけだった!!」



 焦点の合わない目で天井を見上げて、ポツリポツリと語るが、だんだんと声に力が、感情が込められていく。

 まるで、今言ったことを実体験したかのように。


 頭を抱えて、髪をくしゃくしゃにかき乱して、身を丸くして叫んだ。

 苦しくて苦しくて仕方ないのか、身体が痙攣している。



「お、おい……この女、なんなんだよっ!」

「し、知らねえよ」



 佐藤はジリジリと後退って、満月から距離を取り、井上へと顔を向けた。けれど、井上も目の前のことを理解しがたいらしい。血の気を引き、首を横に振った。



「ねえ、……まだあなたが持ってるんでしょう?」

「なんのこ――っ!」

「かえして……私を殺した、人」



 ベッドからゆらり、と下り立ち、涙を流して首を傾げる様は、操られているからくり人形のようだ。


 不気味な彼女からの問いに、何かに取り憑かれたような姿に、佐藤の心臓はドッドッドッ、と警告の鐘が鳴る。

 混乱した頭を回転させて、聞き返そうとしたが、スッとゆっくり、力なく差し出された手のひらに息を飲んだ。


 満月は顔を見せないように俯いていた顔を上げて、覇気のない笑みを浮かべる。



「っ、」

「……!」



 小さく、静かに。笑みにそぐわない言葉の投下に、佐藤と井上は目を見開き、息を飲んだ。毛穴という毛穴から汗が噴き出す。



「……え?」



 菅原を辱めていた男たちは人を殺したことがあるんじゃないか、と薄々感じていた恐怖を抱いていたのかもしれない。

 他人から聞かされる不穏なそれに、どきり、と心臓を跳ねさせる。けれど、同時に彼女の言葉に違和感を覚えた。


 今、菅原の前にいる彼女は生ている。それなのに「私を殺した人」というのはおかしい。まるで、もうすでに殺されているかのような言い方に、カタカタを身体が震えた。



「――ねえ、かえして」

「あ、頭おかしんじゃねえのか!?」

「あなた……まだ持ってるでしょう?」



 一歩、また一歩、とふらふら歩み寄る彼女に、井上は声をひっくり返す。怯えたように声を荒げるが、それは通用しない。



「ははっ、ちょっと……冗談――」

「私には分かる。私を殺したこと……怖くて、怖くて怯えて、捨てるに捨てられなくて……ずっと、持っているんでしょう?」



 この状況に鼓動が早くなる。けれど、井上は笑い飛ばして宥めようとするが、それもまた遮られた。

 目を細めて、妖艶に口角を上げながら、告げる。それは彼らの胸の内を見透かすようで、確信的だ。



「ひっ……! 井上! こ、この女……マジであの時の女なのか!?」



 身に覚えのある罪に佐藤はガタガタと身体を震わせて、尻もち付く。井上のズボンにしがみつき、真っ青な顔をして満月を指差した。



「落ち着け! あの女は処理しただろ!」

「……」

「ああ!? 何だよ……お前も俺に逆らうのか!?」



 どんどん彼女のペースに飲み込まれている彼の尻を叩くように、井上は声をかける。けれど、それは満月の言葉は事実だと認めているようなものだ。


 それに菅原はただ、その現場を呆然と眺めていると井上は逆上する。上から目線でいわれるのが、生理的に受け付けられないのだろう。しがみついていたズボンから手を離して、額に血管を浮き上がらせている。


 怒鳴り声が部屋中に響き渡り、シンと静かになった瞬間、遠くからピンポーンという無機質な音が鳴った。



「ヒッ……!」



 過去の罪を露見されて、怯えてる彼等からしたら、その音も心臓に悪い。

 二人は心臓を飛び跳ねさせて、この部屋とどこかが繋がっている扉の方へと視線を向けた。



「ねえ、かえして……?」



 それでも、彼女は背を向ける彼らに変わらず、求める。

 ただ静かに、微笑んでいた。

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