第30話「意識は落ちる」
(…………あれ、私……なん、で?)
遠くから金具がぶつかり合う音に近い声が聞こえてくる。徐々に意識が浮上してくるが、瞼は重くて上げられない。
現状、彼女の五感が感じうるものは硬い床――ではなく、柔らかい場所の上ということだ。
どうしてここにいるのか、回らない頭で考えるが、上手く思考がまとまらない。ゆっくり目を開けて、ぼやけた歯科医に映る白シーツを見つめた。
「……やっ、……ヤダ……も、う……やめ、て……やめてくださ……い」
「っ!!」
女性の絶望を孕んだ悲痛な叫び。異常を期したそれに目を大きくさせて、ガバッと起き上がった。
女性をよく見れば、殴られた痕や首を絞められた跡だらけだ。
(思い、出した……井上と内乱してそのまま、気絶させられたんだ)
どんなに寝ぼけていても、この状況を見れば、誰だって覚醒せざるを得ない。満月は気絶する前のことを思い出し、この悲惨な状況に冷や汗をかいた。
ドクドクと早まる鼓動に、唇をキュッと占める。胸に手を当ててみるも、落ち着くことはない。
夢の中で疑似体験をし、またその現場を傍観もしていたのだ。
それを彷彿させる現実を見れば、誰だってそうなるだろう。
「おっ、起きたんだ?」
「……」
「君、起きてるとさらに美人だね」
「っ、……」
満月の気配に気が付いたのか、見知らぬ薄茶色の髪を持つ男は女性を抑え込む手を緩めた。彼女の方へと顔を向けて、問いかけるが、それに対しての返事はない。
恐怖からなのか、緊張からなのか、喉を震わせるのが、難しい。
彼はベッドから降りて満月に近寄ると顔を近づける。その至近距離に驚き、彼女は息を飲んで距離を取ろうと顔を引いた。
「て、んどう……さ…………」
「
隣のベッドにいたウェーブ髪の女性は連れてこられたもう一人が自分の知っている人物だと、認識していなかったのか、驚いた顔をしている。ポロポロと涙を流して、名前を口にした。
満月は男の問いに答えることなく、か細い声に応えた。
『助けて……たすけ、て』
菅原は酷く衰弱しており、顔色もよくない。ベッドの下に座り込んでいる彼女の心は、恐怖で身体をカタカタと震わせていた。
合コンから上手い具合に連れ込まれて監禁され、どれだけの恐怖を身体にしみこまされたことだろう。彼らに抵抗する心は既に壊されているようにさえ、視えた。
「あっれぇ、知り合い?」
「……井上さん、どういうことですか?」
女性を玩具のようにしか扱っていない男は、驚いたように問いかける。
これはもう運命だ、とばかりに勝手にテンションを上げている姿に、満月はある感情が湧き上がる。けれど、感情のまま動いたところで、自分と菅原の身を守る術など持ち合わせていないことも分かっているようだ。
グッ、と気持ちを堪えて、椅子に座って優雅にタバコをふかしている井上を睨みつける。
「すみませんねぇ……こいつがどーしてもあなたに会いたいって言うもんですから」
ぷはぁ……、と優雅に副流煙を吐き出す井上は、髪を掻き上げた。目を三日月にして、笑みを浮かべるそれは、小馬鹿にしているようにも見える。
「誘拐に軟禁、暴漢……ですか?」
不動産会社で見た人の良さそうな爽やかさはどこにもない。
本性をおもむろに出していることに、警戒しながら、冷静に辺りをキョロキョロと見渡した。見てわかる限りの犯罪を並べて、首を傾げる。
「へぇ、顔に似合わず強気だねぇ」
「犯罪ですよ。分かってます?」
満月の外見で大人しく従うか、怯えて泣き出すような女、だと思い込んでいたらしい。井上は意外そうに目を真ん丸にさせる。
感心するように口角を上げれば、彼女は怒気を孕んだ声で問いかけた。
「金はいくらでもやるよ。アンタらが黙ってれば犯罪にならない……だろ?」
「黙るわけないじゃない……帰して――っ!」
「あっ……!」
井上より近くにいるはずなのにも関わらず、無視し続けられたことに腹が立ったらしい。苛立ちを隠すことなく、前面に出して、卑しく見下ろした。
何も言うな、と言わんばかりの圧力だ。しかし、その脅迫に怖気づくことも、引くこともない。
眉を吊り上げて、汚物を見るような眼を向ければ、彼女の首へと手が伸びる。それに菅原は顔を青くさせ、自信の頬を両手で包み込んだ。
「調子に乗りやがって……!」
「おい、佐藤。手加減しろよ」
「っ、あ……ぐっ、……あ、っ」
反抗的な態度が嫌いなのか、佐藤は額に血管を浮き出させている。首を絞める力の強さは、腕の骨が浮き出していることから、相当な力で締めているのが伺えた。
彼が人を殺しかねない力を加えていることが目に見えて分かったのかもしれない。井上は呆れたように忠告するが、佐藤は首を絞める力を弱めることはない。
満月は酸素が吸えない状況に必死にもがいて、自分の首を絞める手を掴んで抵抗し続けた。
「……っ、興ざめだ」
「ゲホゲホ……ッ、うっ……ガハガハッ……っ!!」
酸素が脳に回らず、クラッとする感覚に満月は力を振り絞る。佐藤の手から逃れようとガリッと引っ掻いた。
手の甲の皮膚には赤い筋が三本ほど作られ、ジワリと血が滲んでいる。引っ掻かれたとしても、血が出るほどの力で引っ掻かれれば、痛みは伴うものだ。
その痛みに舌打ちすると佐藤は手を離した。解放された満月は息を吸いこもうとするが、いきなる広がる軌道に身体と脳が追い付けないのか、苦しそうにせき込む。
「この女……全然俺の好きな顔をしねぇ……さっさとヤって捨てるぞ」
「はあ……、お前がうるさく言うから客だってのに手を出したんだから、勘弁してくれよ」
好きな顔とはいったい何のことなのか、泣き叫びながら許しを請う顔か、それともこの状況に絶望している顔か。それが分かるのは彼と井上だけだ。
不機嫌そうに指示を出す佐藤だが、彼の機嫌が悪くなるのは面倒なのだろう。井上はため息とともにたばこの煙を吐き捨てて、灰皿に押し付けて火を消す。
「……」
満月は上半身を起こして、喉にそっと触れる。首に触れれば頸動脈が生きろ、とばかりに強く脈打ち、ドクンッ、と心臓の音がやけに耳元でなっているように聞こえた。
(あの時と同じ――あの時と……どれだけ辛かったんだろう。どれほど、苦しかったんだろう……どれほど……無力を、嘆いたんだろう)
夢の疑似体験と幽霊になっても泣き続ける女性が頭をよぎって、ジワリと涙を浮かべる。
現在、彼女も十分酷いことをされているが、幽霊の女性が受けた痛みに比べてしまうと遥かに軽い、と思っているのかもしれない。
込み上げてくる感情を抑え込むように俯いて、胸元をギュッと掴んだ。
(やばい……引き、ずられる……戻って、お願い………戻らない、と――)
自分が自分じゃなくなる感覚に冷や汗を垂らす。焦りが生じて、心臓の鐘が早くなっていく。けれど、制止する思考とはうらはらに、気持ちはどんどん重く、冷たくて暗い方へと向っていった。
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