第32話「危険に飛び込む」

「……はあ」



 身体を巡る重い空気を吐き出すが、すっきりはしない。

 眉間のシワが深くなってるのを感じつつ、NOULAノーラから離れるようにスタスタと歩き出した。


 バックからスマートフォンを取り出して、登録したばかりの電話番号をタップする。応答を待つ間に出るのは、ため息だ。



「――接触できたか?」



 五コール目にプツッ、という音と共に鼓膜を揺らす男性の声は、なんともせっかちだ。



(そうよね。みかどくんだもんね……少しくらい心配してくれたっていいのに)



 挨拶の常套句もなしに結果論を求める彼はらしい、と言えば、彼らしい。けれど、危険人物の元へ行くのだから、安否の確認くらいしてくれてもいいんじゃないか、と思うのもまた人の心だ。

 少し寂しさと悲しさに肩の力が抜ける。



「おい、どうした?」

「お休みだっ――」

「おや、あなたは……」



 帝は返事をしない満月みつきに不思議そうに問いかけるだけ。通常運転もいいところだ。

 それがモヤモヤとした感情が心に沸き上がるのか、眉を吊り上がる。


 刺々しく返そうとした瞬間、視界に映る人影に目を向け、言葉を失った。目の前にいる人物もまた彼女がここにいることに驚いたのか、目を真ん丸にさせている。



「い、のうえさん……」



 休暇を取っていると聞いて、会うことはないと思っていた人間が目の前にいたら、緊張が走る。


 予想外のことに戸惑い、呟いた名前はスマートフォン越しでも聞こえたようだ。帝はその名前に、ピクリと眉根を寄せて、耳を澄ましている。



「どうかされましたか? あ、もしかして……物件探しにもう、店の方に来ていただいてましたか?」



 キョトンとした顔をしてはいたが、それも一瞬だ。にこやかな笑みを浮かべて、彼女に近寄りながら、首を傾げる。



「電話つないだまま、鞄にしまっとけ」

「――はい。井上さんにお願いしようと伺ったんですが、お休みとのことで日を改めようと思ってたところだったんです」

「休暇取っていたんですが、皇様から連絡があったので、出勤しようとしてたところなんです」



 少し強張った声で指示する帝にごくり、と固唾を飲み込んだ。覚悟はしていたとはいえ、実際に対面すると嫌な汗が背中を撫でる。彼の言う通りに大人しくスマートフォンをバッグに仕舞った。


 バレないように、と慎重に。それでいて大胆に柔らかい笑みを浮かべて申し訳なさそうに肩をすくめる。その姿はさながら、女優だ。



 満月が会社の近くにいた理由が分かると、何かを閃いたらしい。パチン、と手のひらを合わせるように叩く。



「……帝くんから、ですか?」

「ええ。物件を閲覧しにあなたが訪れるから案内して欲しい、と」



 井上と連絡を取っていた、と聞かされていない。だからこそ、動揺が隠せないのか、彼女は目を大きく見開いた。


 控えめな疑問に、彼はこくりと大きく縦に振り、人の良さそうな笑みが答える。



(嘘、だ)



 もし、視えることが出来なかったとしても、帝からそんな重要なことを聞かされないはずはない。彼女に関わらせようとしている人間は犯罪者なのだから。


 ふ、と井上の隣にいる心に目を向ける。

 相も変わらず、制服をだらしなく着ている高校生姿の彼の心は、ただニヤニヤ笑っていた。

 嘘をついているのが一目瞭然で嫌悪が沸き上がる。けれど、固唾と一緒に胃へと流し込んで、背筋を伸ばした。



「そうだったんですね。帝くんったら……アポ取ってるならちゃんと言ってくれればいいのに」

「あはは、タイミングがずれちゃったんですかね? 今からでもお時間大丈夫でしたら、ご案内しますが……どうしますか?」



 この場にいない人間に文句を言うが、照れるように笑っている。まるで、惚気ているかのようだ。

 彼女につられて声を張って笑うが、目の奥は冷たい。上手く善人の皮を被る彼は、眉を八の字にさせて小首をひねらせた。


 全ては満月に委ねられているが、その提案に乗る、と自信があるように見える。



「お休みだったところ申し訳ないですが……お願いします」



 不安はあれど、迷いはないのだろう。首を縦に振って、微笑んだ。



(……探るなら、今しかない)



 一歩、井上の方へと踏み出して、隣に並んでは目的地へと歩き出す。


 これは一隅のチャンスだ。何か掴める可能性がある。それを胸に彼女はバッグの肩ひもをギュッと握り、もう一度、心を奮起させた。


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