第31話「いざ、店へ」


 茜色に染まりつつある空にカアカア、という鳴き声が響く。自分の巣へ帰ろうとしているのだろう。カラスは西へと飛んでいく。

 そんな空の下、NOULAノーラと書かれた看板の前で満月みつきは呆然と立っていた。



(犬扱いされて夢のこと話すのすっかり忘れてた……あとで伝えればいっかぁ)



 数十分前のやり取りを思い出し、ガラスに張り出されている賃貸情報をジッと見つめる。その表情はどことなく、しかめっ面だ。



「帝くんがもらう報酬を私にも分けてもらわないと割に合わない気がする」



 頼まれてここに来ることを了承したとはいえ、リスクが高いことに変わりはない。

 報酬の分け前を――なんて考えが頭を過ると首をブンブンと振った。


 自ら首を突っ込んでいてそれはない、と思うもう一人の自分がいるのだろう。



「……でも、やっぱり割に合わない」



 胸にあるモヤモヤが昇華することはなく、気が重いままだ。じーっと、興味もない物件に視線を向けて、恨めしそうに零す。



「はあ、……無事に帰れますように」



 どれだけ見ていても時が無駄に流れるだけで、何もメリットはない。とても重く、深いため息を吐き出し、小さく呟くそれは願いだ。

 空気に溶けると、気合いを入れ直れるようにパチン、っと両頬を軽く叩いて、店の中へと入って行った。



「いらっしゃいませ」

「こんにちは」



 出迎えてくれたのは、まだ真新しいスーツに身を包む女性。張りのある声と眩しい笑顔に満月もつられるように笑みを返す。



(あれ、あの人がいない)



 店を見渡しても店員は一人だけで、井上の姿は見当たらない。

 まさか今日に限っていない、なんてことが起きるとは思わず、微かに動揺していた。



「あのぉ、どうかされましたか……?」



 近寄ることもなく、話しかける訳でもなく、キョロキョロしている彼女は傍から見れば、挙動不審に見える。店員はおそるおそる声をかけて、首をひねった。



「あ、え……っと、以前、井上さんに相談させてもらってて、今日伺ってみたんです」

「ああ、そうだったんですね。大変申し訳ありませんが、本日はお休みを頂いております」



 ハッと我に返り、両手を横に振りながら、事情を話す。それで疑いが晴れたが、店員は申し訳なさそうに眉を八の字にして頭を下げた。



『営業のエースなんだから急に休まないで欲しいのよね。井上さん目当てのお客さんだっているのに……突然休むこと多いし……家の用事ってそんな起こる? 普通……』



 女性の後ろにいる心は、少し幼い。

 中学生くらいの女の子が、迷惑をかける同僚に対して、苛立ちで文句を零している。


 心は自由だ。誰にも見える訳でもないからこそ、自分の中で本音を吐き出して、スッキリさせられる。

 そうじゃない時もあるが、どんな悪口だろうと何を思おうと、個人の勝手だ。心の中で言う文には誰も傷つかない。


 もちろん、満月の前ではその本音も丸見えなのだが。



(――ということは、井上と佐藤はお楽しみ中ってことかしら)



 心の声が聴こえ、状況が読めてくる。

 突然の休暇、深読みをすれば、おそらく昨夜連れ去った菅原を監禁して楽しんでいる可能性が、ぐんと高くなった。



「そうだったんですね」



 何度も夢を見ているせいか、フラッシュバックして気分が悪くなる。だが、それを表に出しては誤解を生む。


 彼女は表情を崩さないようにしながら、奥歯をギリッと噛みしめた。



「本当に申し訳ございません」

「いいえ! 私がアポなしで伺ったものですから、お気になさらないでください」



 気まずい空気を感じたのか、店員はもう一度、深く頭を下げる。まさかそこまで重く受け止められるとは思っていなかったからこそ、満月は慌てて両手を横に振った。



『え、アポなし? 嘘でしょ』



 彼女の心を軽くするために告げたのだが、店員の心は素直だ。

 先にアポイントを取っていると思っていたのだろう。意外だったのか、はたまた迷惑だったのか、それは分からないが、本音に違いない。



(そうよね、迷惑よね。借りる気もないから余計に……ごめんなさい)



 満月の目に映るのは後者、だったらしい。店員の心にチラッ、と視線を向ければ、苦虫を噛み潰したような顔をしている。

 申し訳なさから、胃がツキり、と痛むのを覚えつつ、心の中でひっそり謝った。



「……代わりに私が伺いましょうか?」

「以前、ここに来た際に井上さんとお約束していたので……また改めさせて頂きます」

「かしこまりました」



 念のため、と首を傾げる店員は真摯だ。もし、賃貸を探すためにここに訪れたのであれば、彼女に頼みたいところだろう。

 しかし、井上と接触して心を視るのが、本来の目的であり、追行すべきこと。


 親身になってくれる彼女に良心を痛めながらも、丁重に断れば、すんなりと受け止められた。



「……あ、ひとつ聞いてもいいですか?」

「なんでしょうか?」



 井上がいないからこそ、出来ることがある、と気が付いたらしい。

 ふと、思い出したかのように問いかければ、店員の目が真ん丸としていた。



「あなたから見た井上さんってどんな方ですか?」



 警戒心なく、見つめ返される目にホッと、胸を撫で下して、尋ねる。



「えっと……そう、ですね……お客様には優しいと思いますよ」

「――ふふ、そうなんですね」

「だから、きっと、あなたの理想の物件を探してくれると思います」



 まさかの質問に戸惑った表情を見せるが、答えは実に意味ありげだ。

 嘘が付けない性格、ということが手に取るようにわかる。それに笑みを零して、口元に手を添えれば、店員は慌ててごまかすように笑い返した。



「それは安心ですね。ありがとうございます。また伺います」

「はい、ありがとうございました! またのお越しを!」



 井上と反して心根の良い店員がこの店にいる。それは満月の心を軽くさせてくれる。

 少し明るい表情を見せて、もう一度、ペコっとお辞儀をした。頭を上げて背を向け、店と外を繋ぐ扉を押す。


 その後ろ姿に店員は扉が閉まる音が収まるまで、頭を下げ続けたのだった。



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