第13話「件の幽霊」


 窓から見える景色は、闇夜。

 破魔はまの家に来て、もう10時間が経とうとしていた。

 夜中の12時はとっくに過ぎ、今は丑の刻だ。周りにあるマンションを見ても、明かりがついている家はほとんどない。



「…………」

「……」



 カチッカチッ、と規則正しく動く秒針の音が、しん、とした部屋に響く。

 煌々こうこうと明かりのつけたリビングにいる二人は、ただ隣に並んでソファに座っていた。



「…………」

「……」



 重い瞼を開けようと、必死に戦うその目は、ウトウトしている。次第にコクリ、コクリ、と頭が揺れた。


 眠たそうな雰囲気を醸し出している満月みつきに、彼は横目で盗み見ようとした瞬間、こてん、と彼女の頭が肩にもたれかかる。



「……おい、寝るなよ」

「起……きて、る……」



 無理言って残ったのに寝るのか、と思えば、腹から沸いてくる何とも言えない苛立ち。

 迷惑そうに注意をするが、返ってくるのは力ない声。



(どー見ても寝てるし、いくらなんでも無防備すぎだろ……おい)



 肩にかかる重さは変わらない。いや、更に少し重くなっているかもしれない。

 それに加えて聞こえてくるのは、スースー、という気持ちよさそうな寝息だ。


 信じられないほどに危機管理のなってない彼女に、深い深いため息が出る。



(出てこないってことは……こりゃ、下手したら、3時コースだ――……!)



 壁に飾られている時計はもう、深夜2時をどんどん過ぎていこうとしている。

 依頼の話ではそろそろだというのに、いまだ現れていない。


 まだ起きていなければならない、という倦怠感に身体を巡っていた酸素を二酸化炭素に変えた瞬間、ピリッ、と空気が変わった。


 気だるそうな目が、大きく見開かれる。身にかかる重さを気にすることなく、立ち上がれば、帝にもたれかかっていた彼女は、自然とソファに身を全て預けていた。



「……んぅ……帝、くん?」

「…………」



 不安定で固い肩から柔らかいソファに変わった感覚に違和感を覚えたのだろう。

 微かに開かれる眠いまなこをこすり、首を傾げる。けれど、彼は返事をすることはない。



「……っ、」



 今までどこか余裕がありそうな表情をしていたのに、見上げる顔は、目を鋭く細めていて、真剣だ。

 何かがあった、なんて一目見れば分かる。寝ている場合じゃない、と理解すると、緊張感から瞳を揺らした。


 帝は何も言うことなく、寝室へと足を向ければ、満月もまたその後を追う。



「……」



 ガチャッ、とドアノブを下げて、静かに扉を開ける。

 夕方、見た時と何ら変わらない部屋だ。けれど、一歩中へと踏み出せば、分かる。


 ここに幽霊、というものがいるのだと。


 深夜だから、という理由を込みで考えたとしても、明らかに肌寒い……いや、ゾクリと悪寒がする寒さだ。



「……シ、テ…………」



 窓際の本棚の方へゆるりと、視線を動かす。夕方見た時にはなかった女性の姿が、あった。


 しゃがみこんで俯いているから、どんな顔をしているかは分からない。

 ただ分かるのは、肩くらいの髪の長さと清楚なワンピースを着ている、ということと、小さな声で何かを呟いている、ということだけだ。



(あれか)



 依頼の案件を見つけると帝は目を細めて、じっと凝視する。ただそれだけで、すぐに動こうとはしない。

 それはまるで、何かを見定めているかのようだ。



(っ、あれが……ゆう、れい……)



 初めて幽霊を視たのは、学校裏の公園。

 彼らは穏やかに楽しそうに笑みを浮かべていた。けれど、今、目の前にしている二度目の幽霊はどうだ。

 泣きながら、悲痛な声ではいつくばっている。


 あの時の幽霊と雰囲気も空気も全く違う。

 その違いに満月は固唾を飲み込んで、胸部あたりの服をぎゅっと掴んだ。



「ド……シテ…………ェ……?」



 目から頬を伝って、ポタポタと零れる涙に目もくれず、苦しそうな声で、何かを言っている。



「っ、」

「カエ……シ…………テ………………カエシテェ……」



 その声に、ズキッ、と痛む。

 胸を締め付けられる感覚に、満月は唇をキュッ、と固く結んだ。



「カエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテェェェ……!!」



 幽霊は両手で顔を覆い、髪をくしゃくしゃに掻き上げる。狂ったように誰かに懇願するように、続けた。


 「かえして」とは、一体、どういう意味なのだろう。 

 何かを「返して」欲しいのか、何処かに閉じ込められていて「帰して」欲しいのか。


 どんな意味にも聞こえてくるが、今はただ逼迫ひっぱくしている、ということだけしか伝わってこない。



「…………おい、アンタ」



 違和感のあるそれに、ピクッと片眉を動かす。

 ためらいもなく、スッ、と近寄るとぶっきらぼうな声を彼女に降り注いだ。



「イヤア! コナイデエェェ…! タスケテェ! イヤアアアア……!!」



 帝は何もしていない。ただ、声をかけただけ。

 それなのにもかかわらず、彼女はガタガタと震え上がり、必死に自分の身を守ろうと両腕を摩った。



「…………」

「……え、あ……えっと、」



 ビリビリと耳を刺す甲高い声に眉根を寄せる。

 パニックを起こしている彼女に無理をさせないよう、距離を取ろうと後ろに一歩下がった。


 女性は目の淵に映らなくなった彼の存在に、安堵していいのか不安になったのかもしれない。

 俯いていた顔をゆらり、と上げれば、彼の奥にいる満月と目がバチッ、と合う。


 まるで、憑き物が落ちたように震えていた身体がピタリと止まり、呆然と暗闇の中でも分かる翡翠色を見つめていた。


 長いようで、短い。時が止まっているかのようにも感じられる。

 だが、次の瞬間、幽霊は忽然と姿を消した。



「っ、しま――!」



 バッと身をひるがえして、満月を避難させようとするが、もう遅い。

 伸ばした手より先にいるのは幽霊である女性だ。女性の手は、満月の前に迫っている。



「えっ……!!」



 間近で見る女性の顔は、目の下にくっきりとしたクマがあり、頬は痩せこけている。

 瞳からは悲しみと恐怖、憎しみの色が宿っていた。


 遠くにいたはずの彼女が目の前にいる。

 ビクッと身体が揺れるが、急には動けずにいた。



「…………」



 逃げなくちゃ、と冷静な頭はいうけれど、簡単ではない。


 透き通るほど青白く、細い両手は満月の頬を包み込む。

 触れているわけでもないのに、伝わるひんやりとした感覚に、背筋がぞくりとし、心臓がばくばくと危険信号を鳴らした。



「――――……」



 激しく動揺する中、見えたのはツーッ、と伝う涙と、パクパクと動かす唇。

 何かを言い終わり、幽霊が姿を消すと同時に、満月は膝を折るようにして意識を失った。



「っ、おい! おい!!」

「…………」



 顔面から倒れそうになる彼女を抱きかかえ、肩を揺らして呼びかけるが、返答はない。


 破魔の話を聞く限りではただ泣いているだけ、だった。

 だからこそ、人に害をなす幽霊だと踏んでいたのだろう。しかし、帝を見た幽霊は明らかに恐れ、混乱から暴走して、満月に襲い掛かった。



(なんであの女はコイツに向かってった……なんで俺を怖がったんだ?)



 今まで経験したことのない事案に、戸惑いを隠せないらしい。

 眉間にシワを寄せて、何かに耐えるように呻き声を上げる彼女に、下唇を噛みしめ、考えを巡らせた。

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