第4話「皇帝じゃない」
「や、……っと、止まってくれた……というか、足、速いね」
「――ぶな」
乱れた息を正そうと、肩で息をする。呼吸が整うにはもう少し時間が欲しいところだが、それよりも、引き止めたい一心で紡がれた言葉はなんとも呑気だ。
今、そんな誉め言葉はどうでもいいのだろう。彼は眉を吊り上げたまま、ボソッ、と呟く。
「え?」
「二度とその名を呼ぶな」
何かを言っていることは分かっても、何を言っているのか、までは聞き取れなかったらしい。彼女は覗き込むようにして、首を傾げる。
たいていの男なら、その仕草にたじろぐが、男子大生には関係ない。怪訝そうな顔をしたまま、顔面を指差して強めの口調で言い放った。
「わ、分かった……けど、それなら名前、教えてよ。知らないんだから」
「アンタ、知ってて言ってるだろ」
しつこい、と言われるのは、想像していたのかもしれない。けれど、思っていたのと違う反応に、満月は目をぱちくりさせる。呆気にとられつつも、素直に頷くが、すぐに不服そうだ。
ベンチで聞いた時に答えてくれなかったのに、上から目線――いや、命令口調で言われてしまえば、そうなるのも無理はない。
眉を下げて反論すると彼は冷たい視線を向けたまま、切り出した。
「本当に知らないの! すれ違ってる人たちがあなたのことをそう呼んでたから、とっさにそう呼んじゃ――」
高圧的な眼光にあたふたしながらも、はっきりと言いきった。けれど、どうして、そう呼んだのかの理由は口にするべきではなかった。
ハッ、と、口元に手のひらを重ねてみるも、時すでに遅し。
「……」
「…………」
微妙な沈黙が辛い。そろり、と視線を上げた。赤みがかった暗い黒茶色の瞳と交わる。ずっと、合わせたかったはずなのに、タイミングが悪い。
突き刺さる視線に耐えきれず、彼女はサッ、と顔を背けた。重くはないが、決して軽くもない。それでいて、どことなく冷ややかに感じる空気に、タラタラと嫌な汗が出る。
「――……
「え」
長いようで、短い沈黙を破ったのは彼の方だった。大げさすぎるほど、深い、深いため息をついて、ぽつり、と零す。それに満月は顔を上げた。
「俺の名前。……もういいだろ、ほっといてくれ」
「すめ、らぎ……みかど…………くん、……だから、
右手を首に回して、素っ気ない態度をとった。ぶっきらぼうで、吐き捨てるようなそれに、彼女はゆっくりと、自分の中へ落とし込む。
「こうてい」と「すめらぎ みかど」。
どちらも漢字で書くと「皇帝」になる。陰で
モヤモヤしたものが解決したからか、気持ちが高まってしまったのだろう。忠告されたのに、別名をまた口にしてしまった。
「……あのな――」
「皇くん? 帝くん?」
「は?」
意図せずに逆撫でてくる姿に、ピクッ、とまた眉が動く。息を吸いこんで、文句を言おうとする帝を無視するように、満月はあえて、苗字と名前を区切って、問いかけた。
その意味が分からなかったのだろう。彼はキョトンとした顔をしていた。
「どっちで呼ばれたい?」
「勝手にしてくれ……」
「じゃ、帝くんって呼ぶね」
間抜けな表情が、近寄りがたい雰囲気を緩和させる。彼女は笑みを浮かべて、こてん、と首を横に倒した。
帝からしてみると、その能天気さと図太さに気が抜けたらしい。肩を脱力させて、顔面を片手で覆った。勝負なんてしていないのに、負けた気分をすごく味わっている。
そんな彼の心境など、露とも知らない満月は両手をパンッ、と合わせて嬉しそうに微笑んだ。
「………………」
「あ、待ってよ。帝くん」
「……まだなんかあんの?」
自分のペースをかき乱されて、複雑な心境なのかもしれない。
かもしれない、ではなく、そうなのだ。これ以上、関わりたくない。その一心で、止めていた足を一歩前へと踏み出す。また離れていこうとする気配に、慌てて、彼女は服を引っ張った。
クイッ、と後ろに感じる重みに、またか、と、眉間のシワが深く刻まれる。どことなく、疲れた声で、彼は訴えた。
「帝くんに質問です」
「なんだよ、藪から棒に」
「この間、雨が降った日に大学裏の公園にいたよね」
今がチャンス、と、直感が言う。コホンッ、と咳払いして口調を改めた。馴れ馴れしいと思ったら、今度は適切な距離を取ろうとする満月に疑心を抱く。
別に聞く必要もないのに、彼女の口から紡がれるだろう言葉が、どうしても、気になってしまったのだろう。警戒しつつも、静かに待った。
艶やかな唇から紡がれるそれは疑問、ではなく、確定されているような聞き方だ。
「……それに答える必要あるのか?」
「あ、質問はまだ続いてるから最後まで聞いてから答えてね」
「…………」
聞いてくる意図は分からないが、答える義務はない。それが帝の結論だった。拒絶するように聞き返すが、満月は首を横に振って、気が早い、まだ本題に入っていない、とばかりに
彼はその事実に加え、答えるか否かの判断は自分に残されていない物言いに気が重くなり、ため息を漏らした。
「私、その時に
「……それが俺と何の関係があるんだよ」
「二人は突然、姿を消したの。まるで成仏したみたいに……そして、不思議なことに女の人が立ってた場所に帝くんがいた」
困ったように笑いながら、続けるが、彼女の知りたい事柄は近いようでまだ遠い。もったいぶる姿に苛立ちを覚えたのか、はたまた違う理由があるのか。それは分からないが、明らかに今までと違う反応を彼は見せてしまった。
片眉をピクッ、と動かして吐き捨ててはいるが、真剣に話を聞く気になっている。態度を見れば、一目瞭然だ。安堵を覚えた満月は少し口角を上げると、両手をグッと握ってから、パッと開いてみせた。
「……」
明るく意味深長に言うそれに、帝はおもむろに視線をそらす。
「その時の帝くんの瞳は深みのある紅色だった……ねぇ、どうして今は黒茶色の瞳をしているの?」
「……白昼夢でも見てたんじゃないか」
待ちに待った本題はここからだ、と、彼女は続ける。その余裕さが、彼の切れ長の目を更に細めさせ、眉間にシワを寄せさせた。右手を自身の腰に添え、左の手のひらを見せるようにして、ハッキリという。
まるで、小馬鹿にでもしているかのような、声音で見間違いだ、と。
さっさと一蹴して、話を終えようとしているのかもしれない。こういえば、誰でも、去るとでも思っているのだろう。
「あんな雨の中で?」
「…………」
「それに残念だけど……私の両目は2.0。見間違えるはずないの」
たった一つの疑問によって、帝の脚本は棄却された。その事実に、嫌そうな顔をして睨む。でも、満月は怯む素振りはない。
眉を八の字にして、微笑みながら、追及することを辞めようとはしなかった。
「…………」
「教えてくれる?」
逃げ道を塞がれてしまった彼はただ黙って、見つめた。真実を求める瞳を。キラキラと輝き、透き通るような翡翠を。
彼女はその沈黙に怖気付くことなく、小首をひねる。
「……まさかとは思うが、言うまで付きまとうつもりだな」
「んー……そうかもしれない?」
諦めの悪い満月に少し、いや、そこそこの怒気を孕んだ声音で、ボソッ、と零した。
遠回しにしつこいと言っているようにも聞こえるが、彼女もまた否定することもない。むしろ、同意するように考え込む始末だ。
「そうかもしれないって……アンタな…………」
「あ、はは……」
自分がやりそうな行動に確信を持てない姿に、帝は何度目か分からないため息を吐く。
もしかしたら、初対面なのに踏み込みすぎてしまったかもしれない。
今更ながら、一抹の不満が過ったらしい。満月は笑って誤魔化そうとするが、空気的に誤魔化せるはずもなかった。
「……後悔しても知らないぞ」
「! ……ありがとう!」
「……」
覚悟を決めたのか、否か。それともなるようになれ、と匙を投げたのか。それは彼のみぞ知ることだが、気だるそうに歩き始める。顔だけ、後ろを振り返り、ぞんざいに判断を任せた。
もう、相手にされないと思っていたのだろう。誰が見ても、しゅんと、落ち込んでいた彼女は、ぱあっ、と花が咲くように明るい表情を浮かべた。
気分良さそうに隣を歩く姿に、チラッ、と視線を送る。能天気に鼻歌まで歌っていることに、帝は悶々とした感情を抱いていた。納得いかない、と。
(誰だよ……この女をおしとやかで大人しい美人、とか言ったのは)
噂で聞く彼女と、隣にいる彼女がまるで違う。誰が言い出したのか知らないそれに、帝は心の中で悪態をつきながら、吐露したのだった。
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