第3話「追いかけた先」


(ど、こに…………)



 大きく一歩、また一歩。かわるがわる動かしていた足は、だんだんスピードを落ちていく。乱れた息を整えようと深く息を吐き出し、新鮮な空気を肺に満たした。


 彼がどこへ行ったのかも分からないのに、広いキャンパスを探す、と決めたのは、無謀だったのかもしれない。

 少しの後悔と諦められない期待を胸に、満月みつきがいる場所は食堂のある二号館から離れた五号館だ。キョロキョロとあたりを見渡すと、ふと、二人がけのベンチに目が留まった。



(……あ、いた)



 やわらかくなびく風は、遊ぶように黒髪を撫でる。彼は髪が乱れることなど、気にすることなく、本に目を落としている。



「……――」



 声をかけようと口が開きかけたその時、満月の耳に届いた。



「げ、二年の皇帝こうていじゃん」

「マジかよ……呪われる前に行こうぜ」

「…………」



 男子大生たちの声に驚いて、ビクッと肩を揺れる。馴染みのない言葉に、バッ、と振り返れば、二人とも苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


 関わりがあったとしても、なかったとしても。彼らは人として、実に失礼なことを言っている上に、ひどい態度だ。



「そーだな。つーかさぁ、皇帝こうていっていうより、魔王の方が合ってね?」

「おまっ、本当のこと言うなよ」



 目を合わせるのもイヤなのだろう。彼女に気づくこともなく、そそくさと足早に去っていった。

 どんどん遠くなっていくのに、まだ聞こえるのは悲しいくらいの悪口だ。二人の冗談のつもりなのか、笑っている。



「…………」



 この場所は意外と静かで、何より渡り廊下の造りはコンクリートだから、響く。恐らく、読書中の彼にも聞こえているだろう。

 それを快く思えるはずもなく、満月は眉間にシワを寄せた。



(……なんで、皇帝こうてい? ……というか、魔王……?)



 微動だにしない噂の彼にチラリ、目を移す。何故、そんな仰々しい呼び名を付けられているのか、訳も分からず、首を傾げた。


 魔王と呼ばれるということは、なにかしら、原因はあるはずだ。

 非常に性格が悪いということなのか、普通の人に見える彼が実は権力を持っていて、不条理に行使しているのか、何度も警察にお世話になっているのか。


 どれだけ考えを巡らせても、一向に答えが出てくることはない。諦めたように目を閉じて、ふぅ、と息を吐いた。



(……よしっ!)



 皇帝やら魔王やら、と、言われいるのを耳すれば、誰だって不安になり、二の足を踏む。

 けれど、彼女は揺らぐことはないらしい。前へ、と足を踏み出す。



「……あの、」

「…………」



 1秒前の意気込みはどこへやら。今更になって、少しのためらいが出る。怖気づいた、というよりも、読書の邪魔をしてしまうことに、だ。

 勇気をためるように息を吸いこみ、硬くなった声帯を意識的に動かして、空気を響かせてみるものの、何も反応はない。



「あの! すみませんでした!」

「…………」



 先ほどよりも大きく、聞き取りやすい声を、と、意識して勢いよく頭を下げた。

 急にきた風圧に、彼は片眉をピクリ、と動かすが、やはり、応答することはない。



「……あの~、聞こえてます?」

「………………」



 まるで、透明人間に謝っているのか、と思えるくらいの手ごたえのなさに、ゆるりと頭を上げて微笑むが、どこかぎこちない。グイッ、と顔を覗き込んで問いかけても、彼の表情も目線も変わらない。

 ただ、本に書かれた文字を追っていた。



「あの、ちゃんと……、謝ろうと思って……探したんです、けど」



 相手にしてもらえないことに、心細さを覚える。それでも、関わることをやめる、という選択肢はないようだ。静かに相手からのアクションを待った。

 この場の空気は張りつめている。空気が読める人間であれば、一目散に逃げるだろうこの場に留まり、待つことが出来る満月の心臓には少し、毛が生えているのだろう。



「……はあ、気が済んだならさっさと消えろ」

「…………」



 本から離すことなかった視線をジロリ、と向けられ、聞こえてくるのはぶっきらぼうな声。

 話しかけられ続けても、知らんぷりで通していた。そんな彼の開口一番は、いかがなものか、と言える。実に失礼極まりない。

 だが、紡がれたものよりも、初めて聞く心地の良い声音が意外だったのかもしれない。大きく目を見開くと、彼女の口角は弧を描いていた。



「……はあ…………なんなんだ」



 自分が随分と厳しい言葉を投げつけている、という自覚はあるらしい。

 怒って立ち去ることを願っていたのだろうが、目の前の女性は静かに笑うだけだから、戸惑いを隠せない。

 腹にある鉛を捨てるように、ため息を付いた。



「ふふっ」

「……」



 眉間にシワを寄せる彼の表情が変わるのを見て、嬉しそうに笑みを零すと、当たり前のようにベンチの空席に座った。

 なかなか思った通りにならない現実に、魔王と呼ばれた男は更に顔を曇らせるが、口にはしない。

 なんでいまだここにいるんだ、と嫌な空気だけ、醸し出している。



「あなたの名前を聞いてもいい?」

「………………………………断る」



 嬉々として尋ねる満月が無視しようと思ったのか、艶やかな唇が一文字になっている。期待を込められたキラキラとした視線が刺さるのが、非常に鬱陶しく感じたようだ。

 長い沈黙の末、読んでいた本をパタンッ、と閉じてベンチから立ち上がると、歩き出す。

 面倒ごとには関わりたくない、と。



「ねえ、待って!」

「…………」



 興味なさげに立ち去る姿に、慌てて追いかけて声を張ってみるが、当の本人はただ黙って歩いて去っていく。



「待ってってば!」

「………………」



 呼び止めようと大きな声を出してみても、彼は相手をする気配を一切、見せなかった。

 眉根を寄せて、イライラした感情を我慢しているように見える。迷惑だと思っているのは確かだ。



(ど、どうしよう、止まってくれない……!)



 止めることもできないどころか、歩くスピードが速い、ときた。

 何か方法はないか、考えを巡らせると、数分前にすれ違った男子大生たちが言っていた呼び名を思い出す。



「待って、待って! えっと……こ、皇帝こうていさん!」

「……っ、」



 名前なのかも分からないのに、叫んだ。いや、少し考えれば、そうではないことも愛称でないことも分かるだろう。けれど、今の満月にそんな余裕はなかったらしい。


 彼もまた、その呼び名で呼ばれるなんて思ってもみなかったのか、息を飲んで、ピタリ、と足を止めた。

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