春喰み

花森ちと

青春

 鬱鬱としたアオいアオい春の森を歩いていると、着慣れた制服のスカートから覗くひどく痩せた脚に黒く頑丈な木の根が絡まっていた。錆びついた火炎銃で炙っても刃こぼれのひどい刀剣で引っ掻いても離れることのないそれが、春の森へ私を捕らえるための足枷であることに気がついたとき、ただ溺れるように、喘ぎながら、「この『青春』とやらに愛されるべきだったのだ」と、ひどく哀しい後悔の念が私を喰べていくのであった。


 私は旅人だった。この春の森を抜けたら、次は夏の湖へ漕ぎ出すつもりでいた。湖の次は埜、埜の次は海、その先は誰も知らない。誰も知らないその先を、私はこの目で確かめたかった。しかしこの脚の木の根がそれを赦さず、この春の森で私は朽ちていくことが定められたのである。

 これから私はどう生きていくのだろうか。過ぎ去っていく旅人たちを木陰で傍観しながら自問する。

 彼らのように私も行きたい。彼らが憎い、妬ましい。しかしどれだけ彼らを仰ぎ観たって、私のこの現状は変わることは無いのだった。


 旅人たちは無色透明の瞳で『可哀想なヒト』として見定め、忘れてゆく。そんな時、私はひどい寂寥感に襲われて、気がつくと卑しいなき声を発していた。「どうか私を置いていかないで! どうか私を哀れんで!」と。旅人たちは後ろ姿で言葉のない『ことの葉』を使い、問いかける。『おまえはわたしたちに敵うような努力をしてきたのか? おまえはわたしたちと共に歩ける技量があるのか?』と。

 ああ、そんなもの、私はひとつも持ち合わせてはいない! 苦しい、辛い。消えてしまいたい。私はこれからもこの猛毒に塗れた『ことの葉』に殺されながら、永い永い時間を過ごさなければならないの?


 太陽の生死を何度も感じ、月の満ち欠けを数え飽きた頃、気味の悪いこの木の根から甘い甘い樹液が出ていることがわかった。

 ほんの最初は口をつけることが何よりも悍ましいことであると信じ込んでいた。だが何かを口に入れなければ、私は生きることができない。本来、もともと私は早く死んでしまいたかった。しかし蛋白石の霧ように朧げな意識の先で佇む賤しい本能が、惰性的に私を生かそうとしていたのだ。

 黒黒とした木の根にたらたらと滴る黄金色の蜜を恐る恐る舌先で舐め取る。嫌に甘いこの液体は喉を簡単に通ってはいかなかった。頬を歪めて、嗚咽を抑えながら、覚悟を決めて、ゆっくりと、蜜を、貴重な栄養を、飲み込んだ。久しく摂っていなかった養分に腹がぐるる、と悦んだ。

 甘さに酔いしれた私はそれからもう我を忘れて液体を舐めていく。蜜を、栄養を、生きていく糧を、無我夢中で欲していた。もう外面なんてものを気にしている余裕はなかった。ただ獣のように目の前の生に執着していた。

 私は卑しい木の根に殺され、卑しい木の根に生かされていたのだった。


 樹液を啜ることだけが私の生きがいとなった時、私はもう人でないモノとなっていた。とうにニンゲンの言葉を失くし、脚は木の根を境にして使いものにならなくなっていた。仮に木の根が外れたとしても、もう旅へ出ることができない体となっていた。

 私はいったい何の為にここへ来ていたのだろうか。

「こんなことになるまえにいた、あのあたたかいおうちでぬくぬくしているほうが、ずっとずっとよかったのだわ」

 出発する頃には嫌に思っていた――きっと場所さえも忘れている――あの故郷がひどく甘美に思えた。


 いつものように樹液を舐めて眠くなってきた頃、朧気な闇の中で流星がぴかり、光った。すると、大きな地響きと共に脚に絡まる木の根が動き始めた。

 「ああ、よく寝た」声のした頭上を見上げると、そこには大木があって、その幹には老人のような顔がついていた。今まで冷え切っていたと思い込んでいた怒りが、ふつふつと湧き上がり、絶頂へ達した。


「ねえ、このきのねはあなたのものなの?」

「ああ、そうだよ。それはボクのものだ」

「どうして、あなたはわたしをつかまえてしまったの?」

「キミは心のどこかで行く末を不安に思っていたろ? だからボクはそんな旅人たちをこの青い十代のままでいられるようにここへ閉じ籠めているんだよ。この先、苦しい思いなんてしたくないだろう?」

 老人は私をまじまじと見つめると、「少し待っていなさい」と言って、それからこの森に響き渡るような咆哮をあげた。ざわざわざわ、それを聞いた森の木々が動き始めると、この暗い暗い森に木漏れ日が差した。

 辺りがよく見えるようになって、この森を見回してみると、今まで通ってきた獣道に沿うように、私のような旅人が、私のように堕落しながら、私のように嘆きながら、この森に、この『青春』という名前のつけられた忌々しい十代という醜い年代に囚われていたのである!


『私は小説家になりたくてこの旅に出た。あの頃、私の脳内で蠢いていた物語を文章として産み出すことが何よりの享楽だった。はじめて私の文章が好きだと言われたとき、私は私であるのだという事実に恍惚としていた』

「しかしいま、なにもできなくなったわたしは、もうなにものでもなくて、かこのえいこうもわすれていくのでしょう」

『旅の道中で同期の書いた話を読んでいると、自分が今まで拙劣な文章で満足していたことに気が付いた。そんなものしか書けない私がどうも嫌になってしまった』

「なにもかもをうしなったわたしは、それからもりのやみをあいするようになった」

『私はどうして小説を書きたいなんてそんな大層なこと思ってしまったのだろう』

「このもりのやみをことばであらわせたらいいのに」

『この森に囚われてよかったのかもしれない』

「このもりにとらわれてよかったのかもしれない」


 深い安堵と脱力の末にわたしはみるみる生温かいゆりかごへ堕ちていくような気がした。

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春喰み 花森ちと @kukka_woods

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