第20話
千波先輩の退院はそう遠いものでもなかった。
といっても、すぐにというわけにはいかず経過観察の為にその後も暫くは入院生活が続いた。自分の足では歩けないようになってしまったので、先輩の移動は車椅子で行うことになった。
当然といえば当然だけど、その現実に先輩は渋い顔をしていたらしい。
あの日からも、僕は毎日病院に顔を出している。まるでいつかの日々が逆になったようだ。
今では普通に顔を合わせてくれるようになった。でも近くに座ることは阻止される。何でなんだろうと思うけど、その光景をおばさんが微笑ましく眺めていた。
千波先輩は明るくなった。いや、もしかしたら明るく振る舞おうとしているだけなのかもしれないけれど、それでも前向きになってくれたことが嬉しかった。
時折、お見舞いに行くと車椅子に乗って病院の中庭を散歩した。
病室にいると気が滅入るらしく、たまに外の空気が吸いたくなるらしい。いつもはおばさんが付き添っているものを僕がするというのは中々緊張した。
それでも何度も回数を重ねたことで、車椅子を押すことには慣れてきた。最初は僕に押されることに抵抗を示していた先輩も、ようやく受け入れてくれた。自分で散歩に行こうと言いながらそれを嫌がるんだから、どうしていいのか分からなかった。
夏休みに入り、授業がなくなったので僕は顔を出す時間が増えた。
すると、家の用事を済ませれると言っておばさんは喜んで帰るのだ。
もしかしたら気を利かせてくれたのかな? 僕が千波先輩のことが好きだということは恐らく知られているだろう。僕は分かりやすいらしいから。
だとしたら、先輩はどうなんだろう。
もしかして、僕の気持ちに気づいていたりするのかな? だとすると、早急に告白しないと何だか格好悪い気がする。
ともあれ。
そんな感じで毎日が過ぎていく。
今まで通りとはいかないけど、それでも楽しい日々であることに変わりはなく、先輩も僕と同じようにそう思ってくれていたらと思うのみだ。
この毎日の中で、大切なことに気づいてくれればいいんだけど。
「明日、退院なんですって?」
おばさんから聞いた話を病室で先輩にする。
千波先輩の病院服姿もずいぶんと見慣れたものだ。いつの間にかボサボサだった髪も丁寧に手入れされるようになっていたりする。
「うん、そうなの」
先輩はにこりと笑う。
その笑顔が作り物でないことは分かる。何となくだけど、以前に比べて感情表現が豊かになった気がする、というと多分怒られるから言わないけど、そう思うことがある。
期待されるって大変だから、もしかしたらそういう重圧がなくなって気持ちが楽になったのかも。
「明日は一日家にいるから、明後日なら空いてるよ」
「あ、そうなんですか?」
僕が間の抜けた返事をすると、先輩は恨めしそうに僕に半眼を向けてきた。
「忘れたとは言わせないよ?」
あはは、と僕は笑って誤魔化してから、改めて真面目な顔を作る。
「それじゃあ明後日、迎えに行きますね」
その日が勝負の日だ。
僕と先輩の二度目のデートの日。
その一日で僕はあの日誓ったことを果たさなければならない。
そして、僕の気持ちも伝えるんだ。
「うん、待ってるよ」
そんなことを話した翌日。
今頃先輩は退院して家に帰っているだろうなあ、とか考えながら僕は家でじたばたと転がっていた。
「不安だ!」
明日のことを考えると不安で仕方がない。
ある程度のプランは考えてあるけれど、それでいいのかなとか考えてしまう。
デートのプランニングをする人ってどういう精神状態なの? めちゃくちゃ強メンタルの持ち主なんじゃないのかな。
前回は先輩に任せっきりだったから、ここまでのプレッシャーはなかったけど、明日は僕が先輩を楽しませなければならない。その重圧に僕は押し潰されそうになっていた。
そんな感じでああだこうだと悩んでいたらいつの間にか眠ってしまっていたようで、僕は帰宅した父さんに起こされることになる。ああ、貴重な時間を失ってしまった。結局その日はお風呂に入ってすぐに寝た。起きていても、不安になるだけだと思ったから。
翌朝、勝負の日。
僕の目覚めは早朝だった。緊張して目が覚めたのか、それとも昨夜寝るのが早かったからシンプルに目覚めただけか、理由はともあれデジャヴな朝だった。
「おう、透真。今日はえらく早いな」
これにも既視感を覚える。
ああ、そうだ。初デートの日もこんな朝だったんだ。
あの日と同じように朝食を摂り、時間までゆっくりと過ごした。不思議とここまで来ると緊張とか不安とかはなかった。僕の中にあったのは、先輩と会うのが楽しみだという気持ちだけだ。
時間に余裕を持って家を出る。
バスに乗って先輩の家まで迎えに行く。先輩の家には行ったことがないので事前に場所の説明だけを受けていた。バスで一五分ほど進んだところのバス停で降りる。駅からはそう遠くないらしいけど、家を見つけるのは中々に困難だった。時間に余裕を持っていてよかったと改めて思う。
ようやく見つけた。場所さえ分かれば、バス停からさほど遠くないという説明にも納得がいく。どうしてここを見つけられなかったのだろうと思ってしまうほどだ。
自分の間抜けさに溜め息をつきながら、僕は時間を確認する。ぎりぎり約束の時間にはなっていなかった。五分前に到着は中々優秀じゃないだろうか。早くもなく、遅くもない絶妙な時間配分。
そういう意味ではさっきまでの家の捜索も軽い散歩だと思える。いや、そのおかげで朝から汗びっしょりだよ。これから大事な勝負だと言うのに、さっそく帰りたい。
「緊張するなあ」
初めて訪れる家のインターホンを押す瞬間は何度経験しても緊張する。
インターホンを押すと、おばさんが出た。僕が名乗ると、すぐに会話は切れる。
少し待つと玄関が開いた。
「お待たせ」
中から車椅子に乗った千波先輩が出てきた。その後ろからはおばさんと、おじさんも一緒だった。
おばさんとは病院で何度も顔を合わしたけれど、結局おじさんとは一度も会うことがなかったんだよなあ。まさか、ここで初対面になるとは。こんな汗かいた状態で……。
「はじめまして、鳴海透真です」
僕はぺこりと挨拶をする。
おじさんはギロリとこちらを睨みつけてくる。めちゃくちゃ怖い。やばいもう帰りたい。
「妻から話は聞いているよ。君には感謝している」
しかし、睨んでいたのも最初だけで、フッと笑ったおじさんはそんなことを言った。
「今日は千波をよろしく頼むよ」
「よろしくね、鳴海君」
おじさんとおばさんに見送られて、僕らは出発した。
町の方まで行くのでバスに乗らなければならない。なのでバス停へと戻った。家に辿り着くまでは数十分かかったのに、家からバス停は一〇分かからなかった。何だこの差は。
「ちょっと透真」
「はい?」
車椅子を押していると名前を呼ばれたので見下げると、千波先輩は何だか不機嫌そうな視線で僕を見上げていた。え、早速僕なんかやっちゃいました?
「女の子がデートのためにせっかくおしゃれしてきたのに、ノーコメントなのは失礼じゃないかな?」
言われて僕は先輩の服装を見る。
僕の中で先輩はやはりボーイッシュなイメージが強いので今日の白いワンピースもイメージとは異なる。よくよく考えたら別にボーイッシュな服を着ているところを見たことはないんだけど。
けれど似合わないというわけではない。
以前出掛けたときの服もそうだったけど、すごく似合っている。
「すごく可愛いと思います」
「か、かわっ! そう、それは良かった」
自分から催促しておいて照れないでほしい。
言ったこっちも恥ずかしくなるじゃないか。僕はどういう顔をしていいのか分からずに、空を見上げた。悩んでいる顔を見られたくなかったのだ。
改めて空を見ると、雲ひとつない快晴だ。絶好のお出かけ日和と言っていい。
「いい天気ですね」
「そうね。暑くなるらしいから、熱中症には気をつけてね」
「それはこっちのセリフです」
そんな話をしながらバス停まで向かう。少しするとバスがやって来た。夏休みだから本数が多いのかな? いや、関係ないか。先輩と車椅子を乗せて、最後に僕もバスに乗り込む。
少し人もいたので僕は座らずに先輩の後ろに立っていた。うるさくしても何だと思い、町の方まで僕らは静かにバスに揺られていた。
町についてからはデパートに行った。
「何か飲みませんか?」
とりあえず涼みたかったというのが本音だけど、さっそく喉が渇いたので飲み物を欲しているのも確かだった。飲み物を飲んで生き返ったあとは軽くお店を周りながらお喋りをした。
道中、ふと周りを気にしているのを感じた。
車椅子に座っているというだけで、周りからは不思議な目で見られることがある。家の方ならともかく、こっちの方だと知らない人の方が多いから当然だ。その視線が、どうやら居心地悪いらしい。
「次のところに行きましょうか」
「う、うん」
僕らが次に向かったのは海の方だ。この前先輩と行った海鮮のお店が美味しかったのでまた行きたいと思った。
「またあのお店に行きたいんですけど、大丈夫ですか?」
僕は一応聞いておく。
ここで気分じゃないと言われたらすぐさま先輩の気分を確認して店を変更するつもりだ。この辺の店のレパートリーは陽介に聞いているのでどんな要望にも対応できる自信がある。
「それは、いいんだけど……」
そう言う割には歯切れが悪い。
何かを懸念しているようだけれど。
「何かあるなら言って下さい」
僕が言うと、先輩は申し訳無さそうな顔でこちらを見上げた。
「歩くには結構な距離だし、それを車椅子を押してだとしんどいんじゃないかなって」
どうやら、僕のことを心配してくれているようだ。
確かに以前歩いたときも距離を感じた。でも、先輩と喋りながら歩いたらあっという間に感じたし、今回も特に心配はしていない。
さっきのデパートでもそうだけど、自分が車椅子であることに負い目を感じているのかな? 周りの視線には慣れてもらうしかないけど、僕への配慮はしないでほしいな。
まあ、そう言ってもすぐには無理なんだろうけど。
「大丈夫ですよ。千波先輩と二人ならきっとあっという間に到着します」
そうは言ったが、炎天下ということを忘れていた。
僕は夏の暑さを完全に舐めていたようだ。この暑さの中の移動というだけでも体力を奪われる中でさらに長距離移動。これは僕には非常に厳しい状況だ。
でもそれは、今までの僕ならばの話だ。
「本当に大丈夫?」
「ええ。ご飯の前のいい運動になりますよ」
ははは、と僕は空元気を見せる。
夏休みに入ってから、僕は毎朝ランニングをするようになった。
こんなこともあろうかと、というやつだ。車椅子は車輪がついているとはいえ、人一人を運ぶのだから体力は奪われる。それも、ずっと押していればなおさらだ。
もし、このタイミングで僕がしんどいとでも言えば、あるいはそういう態度を取ってしまえばきっと先輩は気を遣う。僕の前で遠慮してしまう。そんなことはしてほしくないんだ。
だから僕は体を鍛えた。
「……」
それでもやっぱり、先輩は一瞬表情を曇らせる。
昼食を食べてからは涼しい場所で座ってゆっくり過ごしたりしながら時間を過ごす。僕が待っていたのは日が沈む夕方の訪れだ。その時間に、僕は最後にやるべきことがある。
そして。
日が沈み始める時間になったとき、僕は最後の提案をする。
「最後に一つ、行きたい場所があるんです」
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