第19話
それからも僕は毎日病院に通い続けた。
千波先輩の足の話を聞いてからは、一枚程度の手紙を書くようになった。そこには何でもない他愛ないことを書き綴った。
最近いっそう暑くなってきたとか、テストが大惨事だったとか、陽介が馬鹿やった話とか、日奈子先輩とお昼を食べたとか、そんな日常の中にあふれる普通のことを僕は先輩に伝えたかった。
分かっている。
そうすることが、もしかしたら先輩を苦しめることになるかもしれないということは。
僕らが普通に過ごす日常を、千波先輩はもう過ごせない。だから、そんな話をすれば彼女に対して嫌味のような意味になるのではないか、とも思った。
でも、僕が伝えたいのはそういうことじゃないんだ。
僕は、どんなことになっても変わらないものはある。僕たちはずっと待っているということを言いたいのだ。
そしてきっと、先輩はそれを分かってくれる。
そう信じて、毎日手紙を書き綴った。
それをおばさんに渡して、まっすぐ家に帰る。そんな毎日の繰り返しだった。相変わらず千波先輩から返事が来ることはなかったけれど、僕はめげずに続けていた。
どうやら本当に忍耐力はあるらしい。
そして、手紙を書き始めて一週間が経った。
先輩と初めて話したあの日から、これほど長い間先輩の顔を見なかったことはなかった。今まで知りもしなかった人なのに、今では少し会えないだけで辛くて仕方がない。
僕にとって、水瀬千波はかけがえのない人になった。
「こんにちは」
いつものように、学校が終わると僕は病院へ足を運んだ。
病室をノックするとおばさんが出てきてくれる。手紙を渡して、一、二分話をして帰るのがいつもの流れなのだけれど。
「ありがとうね、鳴海君」
今日は、手紙を渡すとお礼を言われた。
心当たりがないので僕は困惑する。
「えっと、何かありました?」
そういえば。
いつもは廊下に出てきたらすぐに扉を閉めるのに、今日はそこが開いたままだった。いつもと違う雰囲気に僕は何度目かも分からない不安を覚えた。
最近は少しいつもと違うことが起こるだけで恐ろしく感じてしまう。
「千波が、鳴海君と話したいんだって」
「え……」
最初、おばさんの言っている言葉の意味が分からなかった。
それくらい、僕の思考は混乱した。嬉しいことのはずなのに、もしかしたら一生来ることのない瞬間だと思っていたから驚いたのだ。
「本当にありがとう。千波を、諦めないでくれて」
そう言って、おばさんは僕の背中を押してくれた。
ちらと後ろを見ると、優しい微笑みで僕を見送ってくれていた。何だろうか、何かを託されたような気分になった。
僕が恐る恐る病室の中に入ると、扉が閉まった。おばさんが外から閉めたんだ。二人きりにしてくれるらしい。
いつか見慣れた景色だ。
白い天井、何もない部屋、独特のにおい、同じ病院だしどの病室も対して変わらないのだろう。
千波先輩が寝ているベッドはカーテンで覆われていた。
僕はカーテンを開けようと手を掛ける。
「カーテンはそのままにして」
すると、中から声がした。
少し元気がないけれど、間違いなく千波先輩の声だった。
「分かりました」
先輩がそれを望むなら、僕はそれに従うだけだ。そんなことはどうだっていいから。こうして話してくれたことが嬉しくてたまらないのだ。
「えっと」
そうはいっても、じゃあ突然話して下さいと云われると何を話せばいいのか分からないものだ。僕はどう会話をしようかと言葉を詰まらせた。
彼女にかけるべき最初の一言は何なのだろう。
そう考えると、言葉が出なかった。
「ごめんね」
すると、千波先輩の方が沈黙を破った。
「毎日来てくれてたんだよね。お母さんから聞いてたんだけど」
「そんな。僕が勝手にしていたことなんで、気にしないでください」
「手紙もありがとう」
「いえ、僕にできることなんてそれくらいしかなかったので」
無意味かもしれない。
続けているうちに、そう思うことがしばしばあった。それでも、その考えを振り払って毎日続けていた。
今なら思える。
あの毎日があったから、今こうして先輩と話せているのだと。
「最近はどう? 学校は楽しい?」
そう言った先輩の声は明るかった。
無理に明るく振る舞おうという気持ちが痛いほど伝わってきたけれど、僕はそれを指摘しなかった。指摘することが、できなかった。
「もうすぐ夏休みということで、テストがありました。勉強はしたんですけど努力も虚しく赤点だらけで」
あはは、と僕は笑う。
「でも僕よりも陽介の方がひどくって、あいついつも自分は勉強ができるって言ってるくせに、結局テストでダメダメだったんですよ」
手紙に書いたこと、書いていないこと、何でもいいから話した。
明るくて、楽しくて、笑えるような話を。
「あ、そうだ、日奈子先輩が美術部で作品を完成させたって言ってましたよ。実はまだ僕もまだ見てないんです」
一緒に見に行きましょう、その一言が口から出なかった。
喉を通って口から出る瞬間に音にならなかった。僕は口をぱくぱくと動かして、俯いた。カーテンが閉まっていてよかったとこのとき少しだけ思った。
「そっか。みんな元気そうで良かったー」
先輩は今、どんな顔をしているのだろう。
何を思って、そんなことを言っているのだろう。
こんなに近くにいるのに、ずっと遠くにいる気がしてならない。
「みんな先輩のこと待ってますよ……だから」
だから、そこまで言って、やっぱり続きは出なかった。
僕は意気地なしだ。
結局大事なところで大事なことが言えないままだ。
今までそれで何度も後悔してきたのに、変わりたいと思っていたのに、少しは変われたと思っていたのに、何も変わっていなかった。
「透真。私のこと、お母さんから聞いたんだよね?」
「……はい」
先輩が足のことを言っていることはすぐに分かった。だから僕は短く、そう答えた。
「もう動かないんだって。頑張って動かそうとしても全く動かなくてね、本当なんだって実感するの。歩くことも走ることも、泳ぐこともも、もうできないの。先生はこの先頑張ればもしかしたらって言ってたけど、それが気休めってことも分かってる」
先輩の声は、段々と小さくなっていく。
弱々しく、震えて、今にもかき消えそうだった。
「私は、もう今まで通りには生活ができないんだ」
「はい」
気の利いた言葉も出てこない自分の思考回路を恨みたくなる。
「私にはもう、何も残ってない。もう、どうしたらいいのか分からないの」
涙混じりに先輩は気持ちを吐露している。
頭の中がぐちゃぐちゃになっていて、自分でもどうしていいのか分からなくなっている。
僕が何かを言わないと、先輩はずっとこのままだ。
暗い暗い絶望の中に突き落とされて、前も後ろも右も左も上も下も、何もかも分からないまま考えることさえも諦めてしまう。
それだけはダメだ。
「足が動かなくなって、いろんなものを失った先輩の気持ちは分かる、とか無責任なことは言えません。きっと僕が思っているよりもずっとずっと辛いと思うから」
考えろ。
僕が先輩にかけるべき言葉は、伝えるべき思いは何だ?
「今まで当たり前にできていたことができなくなって、生活が不自由になってしまう。毎日を過ごすことが大変になる。これまでの日常にはもう戻れないのかもしれない」
無責任かもしれない。
でも、僕が言えることはたった一つだけなんだ。
「どれだけ後悔しても、それはもう戻ってきません。毎日祈って奇跡が起こるなら僕はいつまでだって祈ります。でも、そうはいかないんです」
厳しい言葉をかけていると思う。
恐怖で押し潰れそうな先輩に、僕は追い打ちをかけてしまっているかもしれない。
これだけは言わないといけない。
「過去を変えることはできません、僕にできるのは、未来を語ることだけ。これからを作ることしかできない。でも、それはできるんです!」
過去はどうあっても変えられない。
もしそんなことができるのならば、僕は母さんを助けようとしているに違いない。
でもそれができないことを誰もが知っていて、だからみんながその瞬間を大切にしているんだ。それは、時間が戻らないことを無意識にでも理解しているから。
「もし先輩が前を向いてくれるなら、きっと楽しい未来が待っています。今までのようなことはできないけど、今までとは違う楽しさがきっとあります。僕も一緒に探します。だから……」
弱いままの自分だった。
変われたつもりだった。
それは勘違いで、何も変わっていなかった。
だったら。
今変わればいい。
「だから……一緒に、前に進みましょう」
先輩は何も言わなかった。
僕が話している間もずっと黙ったままで、僕が話し終えた後も言葉はなかった。
今の先輩にかけるべき言葉じゃなかったのかもしれない。辛い現実を前に絶望している先輩にかけるべき言葉はもっと別にあったのかもしれない。
けれど、今伝えないと一生言えないままかもしれない。
伝えたくても伝えられない、その辛さを僕は知っているから。
だから僕は、今ここで先輩に言いたかった。
「私、今までずっと水泳しかしてこなった」
暫しの沈黙を破ったのは先輩の弱々しい声だった。
涙混じりの震えた声で、それでも先輩は思いを言葉にしてくれている。
「最初は泳ぐのが楽しくて、勝つとお父さんもお母さんも喜んでくれる。それが嬉しかった。だから泳ぐことを止めなかった。そしたら、みんなに注目されて、期待されるようになった」
いつか聞いたことのある話だった。
先輩が水泳と出会って、向き合ってきた話だ。
「昔のような楽しさはなくなっていて、でもみんなの期待に応えようと必死に頑張った。その努力が、全部無駄になったんだ。そして、水泳しかしてこなかった私から水泳がなくなったら、何も残らない」
「そんなことない!」
気づいたら、僕は叫んでいた。
自分でも、その声の大きさに驚いたくらいだ。
他の病室にも聞こえていたら迷惑だろうな。怒られないかな?
そんなことを考えるけど、今だけはそんなことどうでもいい。
「全部無駄になんてなりません! 泳ぐことを通して先輩はいろんなことを知ったはずです! 勝つ楽しさ、喜んでもらえる嬉しさ、努力する大変さ、負ける悔しさ、それだけじゃないもっといろんなこと、それが全部なくなるわけじゃないんだ! 全部全部、先輩の中にあるんです! 無駄になるなんて、思っちゃダメなんだ!」
僕は精一杯叫んだ。
すぐ近くにいるはずなのに、すごく遠くにいる気がする先輩に届くように。そう感じるのは先輩の心がどこか遠くにあるからだ。だから、そこに響くように伝えないといけないんだ。
「……でも、でも」
声にならない声が漏れ出て、押し殺していた感情が溢れる。
何を言えば響くんだ、どう言えば伝わるんだ、僕には何ができるんだ。
「先輩!」
そうだよ。
こんな壁があるのがダメなんだ。
目の前にいるはずなのに、遠く感じるのは僕と先輩の間を遮る壁があるからだ。
僕はカーテンに手をかけて、そして思いっきりそれを開く。
シャアア、と勢いよくカーテンが開くと、そこに先輩がいた。ずっと見たかった先輩の顔があった。
「だ、ダメだって言ったじゃない! 私、髪とかぼさぼさだし、そのにおいとか……」
「そんなのどうだっていいよ!」
先輩が慌てふためいておろおろしていたが、僕はそれを一蹴した。
僕の大声に驚いてか、先輩の動きがぴたりと止まる。
「足が動かなくても、今までのような生活が出来なくても、いろんな障害があっても、それでも生きることが楽しいことなんだって証明してみせます! だから――」
大口を叩くのは嫌いだった。
それができなかったときに恥ずかしい思いをするから。
人に期待されるのが嫌だった。
応えられなかったときに落胆されるから。
だから、僕が恐れることを平気でできる先輩に憧れた。
そんな先輩みたいになりたいと、僕は心の底から思っていた。
「――僕と、デートをしてください!」
僕の言葉が中々に予想外だったのだろう。
僕は頭を下げて手を差し出した。
その手を掴んでくれると信じて。
もし彼女が僕を信じてくれたなら、その絶望の底にいる彼女を引っ張り出してみせる。
「……なによ、それ」
バカみたい、とでも言うように先輩は短く笑う。
けれど。
「約束、だよ?」
僕の手を取ってくれた。
掴まれた手は震えていた。それはもしかしたら僕の震えなのかもしれない。でも、そんなことはどうでもよかった。
千波先輩が僕を信じてくれたんだ。
だったら僕は、その期待に応えなければならないんだ。
暗い暗い絶望の中にいる彼女を、救い出してみせる。
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