第16話


 病院についた僕らは千波先輩の病室に向かった。


 前に進むにつれて僕らの中の不安は膨らむ一方だ。はやくこの気持ちを拭いたい。今すぐにでも消し去りたいという一心で僕らは廊下を歩いていた。この先で、この不安な気持ちが確信に変わるという想像は、できる限りしないことにして。


 手術などの処置は終わったのか、千波先輩は普通の病室に移動していたようで、僕らはその病室へと向かう。


 病室の外に一人、女性が座っていた。


「おばさん!」


 日奈子先輩がそう呼んだことで、その人が千波先輩のお母さんであることはすぐに察した。なので、そんな僕の中に浮かんだ疑問は別のものに切り替わる。


 なんで、病室の外にいるのだろうか、というものだ。


「日奈子ちゃん」


 日奈子先輩の後ろについて行くと、千波先輩のお母さんは僕の方に視線を移す。あちらからすれば見知らぬ男が来たのだから当然だろう。


「はじめまして。鳴海透真です。千波さんの後輩です」


 そう言って僕が頭を下げると、おばさんは「ああ」とやけに納得したように声を漏らした。その反応が意外で、僕は顔を上げる。


「あなたが鳴海君ね。いつも、千波から話は聞いてたわ」


 どうやら千波先輩が家で僕の話をしていたようだ。母親の記憶に残るくらいに話していたことは喜ばしいことだけど、果たしてどんな話をされていたのだろうか。気になるところだ。


 しかし。

 今気にすべきことはそんなことではない。


「あの、それで千波は?」


 話題を戻そうと日奈子先輩が聞くと、おばさんの表情は再び陰る。

 その時点で、いい方向に話が進んでいないことは何となく察した。僕らの考えうる最悪の展開になっていないことだけを祈るだけだが。


「一命は取り留めた」


 おばさんはぽつりと呟く。

 しかし、その表情はやはり喜んでいるようには見えない。


「でも、まだ意識が戻らないの」


 僕と日奈子先輩は言葉なく衝撃を受ける。

 今も千波先輩は眠っていて、目を覚ましていない。


 だからおばさんは中に入っていなかったのか。入室が禁止されているのかもしれない。

 僕は扉さえも開いていない病室を見る。


 この中に先輩はいるのか。

 中に入って、声をかけて無理やりにでも起こしてやりたい。その後どれだけ怒られてもいいから、この胸のざわつきをとにかく何とかしたいという衝動に駆られた。


「でも心配しないで。待っていれば、近いうちに目を覚ますって言ってたから」


 そう言って、おばさんは精一杯の作り笑顔を浮かべた。

 僕らの不安を少しでも取り除こうと気丈に振る舞っているのは伝わる。それでも、その気持ちは嬉しくて、僕は少しだけ安心した。


「……少し、お話に付き合ってもらえる?」


 目を覚ますとは言っても、不安なことに変わりはない。おばさんの気持ちを考えると断ることはできず、そもそも断る理由もない僕等は顔を合わせてからこくりと頷く。


 病室の前を離れて、カフェスペースに移動することになった。


「いいんですか? あそこを離れても」


 僕はそんなことを聞いてしまう。


「ええ、少しくらいは。それに、こうしている間に目を覚ましてお医者さんが呼びに来てくれることを望んでいるのかも」


 待っているとどうしても起きてこない気がする、と言いたいのかな? 何となく、その気持ちは分かる。少し違うけど、僕も似たようなことを考えたことがあるから。


「何を飲む?」


 おばさんは僕らにジュースを買ってくれた。そして、席についてから一度大きく息を吐いた。


「今朝、千波はいつものように家を出ていったわ」


 そして、おばさんはゆっくりと話し始める。

 僕らはそれを、ただ静かに聞くことにした。


「そして、少しした時に家に連絡が入って。千波が交通事故に遭ったという知らせを受けたの。どうしていいのか、分からなかったわ。とりあえず旦那に連絡をして、私は病院に駆けつけた」


「おじさんは?」


「ちょうど、今出張でこっちにいないの。変に心配をかけるべきじゃなかったのかもしれないけれど。一人では抱えきれなくて。旦那は早急に帰ってくると言っていたけれど、そんなすぐに帰ってこれる場所でもないから。だから、二人が来てくれて助かったわ」


 そう言ったおばさんの顔は本当に安心したようなものだった。

 一人だと不安で、その感情を共有することもできないしぶつけることもできない。こういう状況において一人でいるということがどれだけ怖いか、それは想像できない。


「手術も終わって、後は目を覚ますのを待つだけなんだけど、やっぱり不安でね」


 僕らよりもずっと長い間、一人で不安を抱えて、恐怖と戦っていたのだろう。


 それから、いろんな話を聞いた。

 気づけば何時間も経っていて、学校の授業も終わるくらいになっていた。

 それでもまだ、千波先輩は目を覚まさなかった。本当に目は覚めるのか? もしかしたらこのまま眠った状態が続くんじゃ、と時折不安になった。


 そんな不安を振り払って、僕らはただ千波先輩が目を覚ますことを祈った。

 それくらいしかできることがないから。


 自分はなんて無力なんだろう、と思ってしまう。

 こんな状況でできることなんて何もない。そんなことは分かっているけれど、それでもそんなことを考えてしまうほどに、精神は参っていた。


 気づけば夜になっていた。

 やっぱり、先輩は眠ったままだ。


「……二人とも、今日は帰った方がいいわ」


 おばさんに言われて時間を確認すると、確かにそろそろ帰らないとマズイ時間だ。父さんが家に帰ってきて心配される。


「もし千波が起きたら、すぐに連絡をするわ」


 おばさんがそう言ってくれる。僕は一度日奈子先輩の様子を伺った。彼女も僕の方をちらと見てきて、そして小さく笑った。


「それじゃあ、帰るね。きっと、もうすぐおじさんも帰ってこれるだろうし」


「ええ」


 結局、不安を完全に取り除くことはできなかった。

 でも、最悪の結末へと向かっていないことだけは発覚したので、そこは安心することができた。


 僕らは病院を出て、バスに乗って家へと帰る。

 バスの中ではあまり会話はなかった。千波先輩の無事は確認できたし、お母さんと話せたことで不安とかはある程度晴れたけれど、疲れていて気づけば眠っていた。


 先に降車するのは僕だったので、また明日学校でと声をかけてバスを降りた。

 勢いで授業をサボってしまったけれど、陽介は上手く言い訳してくれただろうか。明日学校に行くのが少し怖いな、とそんなことを考えるくらいには不安はなくなっていた。


「ただいま」


 家のカギが開いていたので、父さんの方が先に帰ったのだろう。晩ご飯の準備とか何もしていないから怒られるかもしれない。


 リビングに入ると、僕は目を丸くした。


「よお、透真」


 キッチンでカチャカチャ音がしているので、父さんは晩ご飯の準備をしているのだろう。なら、リビングいる僕の名前を呼ぶこの男は誰かって?


「なんで、陽介が?」


 陽介がリビングにいた。

 いろいろありすぎた一日の終わりに、この見慣れない光景は頭がパンクする。


「自分の胸に聞いてみろよ」


「……」


 聞いてみた。

 でも、分からなかった。


「思い浮かばねえ顔すんなよなあ」


 やれやれ、と陽介は大きな溜め息をついた。


「あんな感じで急に帰られたら気になるだろ。ラインは一向に返ってこねえし。荷物届けるついでにちょっと待ってたら全然帰ってこないし」


 はあ、と再び溜め息を漏らした陽介は僕を睨みつける。


「意地になって待ってたら、先におじさんが帰ってきたんだよ。バイトも休むハメになったし……ちゃんと話してくれんだよな?」


 そうか。

 陽介には迷惑も心配もかけてしまっていたんだ。そんなところに気を回せていなかった。だとするならば、ちゃんと話すべきだ。


「えっと……」


 僕は今日あったことをかいつまんで陽介に話した。

 いつもはお調子者で一〇秒に一度は冗談を挟んで話の腰を折ってくるような奴だけれど、今日に限ってはそんなことをせずに黙って頷いていた。


 それを見るだけでも、彼が空気の読めない男ではなく空気を読まない男であることが分かる。もちろん、いい意味で、だ。


「そっか。まあ、無事ってんなら良かったじゃねえか」


「うん、そうだね」


 僕らがそんな話をしているとキッチンから父さんがやって来た。


「何だ何だ、透真の恋バナか? おじさんも混ぜてくれよ」


 いつもの調子で僕らの前にどかっと座った。持ってきたものが何かと思えば大量の大盛り焼きそばだった。確かに短時間で作れて味も保証されている男料理の鉄板だけれども。


 にしても作りすぎだろ。


「焼きそばの肴にゃ丁度いいだろ」


「よくないだろ!」


「いただきます!」


 僕の隣で呑気な陽介は手を合わせる。

 そして、焼きそばを頬張ったかと思えば、僕の赤裸々なスクールライフについてを語り始めた。僕が止めようとすると父さんががっちりとホールドしてきて。結局僕と千波先輩の全てを知られてしまった。


 父親に恋愛事情知られるとか地獄だよ。


「……」


 しかし。

 こうして、普通に笑い合っていると日常に戻ってきたというような気分になる。さっきまでは何というか、夢の中にいるような非現実的な感覚だったから、少しだけ安心した。


 陽介には話したし、多分キッチンにいた父さんにも聞こえていただろう。だから、こうして明るく接してくれている。僕の中の不安とかが再び大きくならないように気を遣ってくれているのだ。


 そう思うと、笑いと一緒に涙が零れそうになった。

 それが見つかるとまたからかわれるから、必死に抑えたけれど。


「俺はそろそろ帰るわ。おじさん、晩飯ごちそうさまでした」


「おう、あんなのでよければいつでも食いに来てくれ」


 変に意気投合した二人はガッハッハと笑い合う。それによって僕に被害が起こらなければいいんだけれど。


「それじゃ透真、明日また学校でな」


「うん」


 そう言って、陽介は帰っていった。

 また明日、か。


 そう言えば、日奈子先輩ともそう言って別れたんだっけ。僕は何で日奈子先輩にああ言ったんだろうか。陽介は何で、僕にああ言ってくれたんだろうか。


「いい友達が出来たな、透真」


「うん。最高の友達だよ」


 自慢の友達だ。

 都会では人が溢れているが故に、一人ひとりとの関係が薄っぺらかった気がする。それは僕自身がそれを重要視していなかったからなのかもしれないけれど、誰にも執着していなかった。


 でもここはこの町は人との繋がりに溢れていて、みんなが温かくて、僕はそれを幸せだと思っている。


「なあ、透真よ」


 部屋に戻るとすると、父さんが僕の名前を呼ぶ。

 振り返ると、父さんは空を見上げていた。習って僕も見てみたが、別に星が綺麗だとかそういうこともない。いつでも見れる、普通の夜空だった。


「俺が愛した母さんはもうこの世にはいねえ。母さんが生きようと戦っていたとき、俺は何もできなかったんだ」


 母さんは僕が小学生の時に、病気で亡くなった。まだ小さかった僕は、その現実を受け入れるのに苦労したことを今でも覚えている。


「うん……」


 語り始めた父さんの雰囲気が、しっかり聞くように言っているように思えたので僕は黙って父さんの話を聞く。


「でもな、母さんはそんな俺の言葉に首を振った。そばにいるだけで、笑顔でいてくれるだけで十分だってな。そうは言ってくれても、俺は自分の無力さを嘆いたさ。日に日に弱っていく母さんを見守ることしかできなかったから」


 僕はたまに母さんの病院に行っていたけれど、父さんは毎日顔を出していた。僕としても母さんと会いたかったけれど、母さんがそれを望まなかったそうだ。


 自分が苦しむ姿を見せたくないと、辛いときには父さんに僕を連れてこないようにお願いしていたらしい。


 だから、僕の前で母さんはいつも笑顔だった。


「なあ、透真よ。お前はどう思う? 母さんが苦しむ横で、ただ見守ることしかできなかった俺は、何もできなかったと思うか?」


 そんなことはない、と思う。


 苦しくて、辛くて、泣きたくて、叫びたくて、そんな時に隣に誰かがいてくれるだけできっと救われていた。その人が、自分を一途に思う大切な人だとすれば、なおさらだ。


「そんなことないんじゃないかな」


 僕が答えると、父さんはフフッと笑う。


「結局、俺にはその答えは分からないままだ。でも、母さんがああ言ってくれたから、俺は自分のできる精一杯のことをしたって思うようにした。その言葉に俺は救われた、だからその言葉を信じることにした」


 空を見上げていた父さんは僕の方を向き直る。

 その瞳は、今まで見たことのないくらいにまっすぐで真剣なものだった。


 いや、たった一度だけこの目を僕は見た。

 母さんが死んだ時だ。


 その現実を僕に告げるとき、父さんは今と同じ目をしていた。


「透真。お前が大切だと思う人が辛い現実を前にしているとき、もしかしたらお前はどうしようもないかもしれない。でもな、そこで立ち止まったら終わりなんだ。きっとお前にもできることはある。お前にしかできないこともな」


 そう言って、父さんは僕の肩をぽんと叩いた。


「彼女のために自分にできることを考えるんだ。きっと、そこに大きな意味がある」


「……うん」


 父さんは部屋の中に入っていった。

 僕はさっきまで父さんが見上げていた夜空を見上げる。


 何も変わらない、いつでも見れるただの空だ。それは全然変わらない。だというのに、どこか懐かしく感じるような、この感覚はなんだろうか。


 母さんがそこで見てくれている気がした。


「僕にできること、か」


 一体何があるんだろう。

 目を覚まさない千波先輩に、僕ができることは何だ?

 考えたけれど、答えは出なかった。それでも考えるしかない。僕は彼女に生きてほしくて、隣で笑っていてほしい。


 まだ伝えれていないことだってある。


「明日、もう一度行ってみようかな」


 僕にできることが何なのか、それはまだ分からなかった。


 だから、今できる精一杯のことをやろう、と。


 父さんの話を聞いた僕はそんなことを思った。

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