第15話


『千波が交通事故に遭ったって』


 その言葉を聞いた瞬間に、僕の視界が真っ暗になった。


 脳が言葉の意味を理解することを拒み、機能を停止させたのか日奈子先輩の言っていることが最初は分からなかった。


 でも、徐々にその言葉の意味が、重大さが体中に染み渡り、言葉を失う。体に力が入らなくなって、僕はその場でよろけてしまう。


「大丈夫、透真くん?」


 そんな僕を日奈子先輩が支えてくれた。

 日奈子先輩と千波先輩は幼馴染で、これまでずっと一緒にいた。そんな大事な人を失って、きっと僕よりもずっと辛いはずなのに、それでも僕を気にかけてくれる。優しくて、強い日奈子先輩を見ていると、こんなことで崩れる自分が恥ずかしくなる。


「すいません、ありがとうございます。もう大丈夫です」


「そう?」


 僕は日奈子先輩から離れて、一度大きく深呼吸をした。

 まずは落ち着こう。動揺して、思考能力を鈍らせていては大事なことを考えられない。


 何回か深呼吸を繰り返すと、ようやく心が落ち着いてきた。そうなると、目の前の現実が見えてきてズキリと心が傷んだ。


 千波先輩が交通事故にあった。

 さっき体育の授業で姿が見えなかったのは、見学していたからじゃなくてそもそも学校に来ていなかったからなんだ。


「それで、千波先輩は?」


 僕は恐る恐るその言葉を口にする。

 日奈子先輩の回答が怖かった。もしも、取り返しのつかないような現実を突きつけられたならば、僕は耐えることができないだろうから。


 僕の質問に、日奈子先輩はかぶりを振る。その顔はどこか悲しげで、それだけで嫌な予感が一気に膨れ上がってしまう。


「私が知っているのは、この情報だけなの。さっき授業が終わって携帯を見たら、千波のママからメールが来てて……」


 実の娘が交通事故に遭ったとなれば、僕や日奈子先輩よりももっと辛いのは両親だろう。そんな中で日奈子先輩にせめて状況だけでもとメールを送ってくれたのだろう。


「だから、千波が今どういう状況なのかとかは全然分からなくて」


 日奈子先輩は心配そうに、弱々しくそう言った。彼女のこんな姿は今まで見たことがない。いつも明るく、おどけて元気に振る舞う姿からは想像できなかったが、日奈子先輩だってまだ高校二年生の女の子だ。


 こうなって当然なのだ。


「……ありがとうございます」


 そうと決まれば、こんなところにいる場合じゃない。

 僕は日奈子先輩に頭を下げて歩き始める。


「ちょっと、透真くんどこに」


「千波先輩のところに行ってきます!」


 後ろから聞こえた日奈子先輩の言葉に僕は即答した。

 何も分からないまま、ここでゆっくり待っているなんてできない。今すぐにでも彼女の状況を知りたい。そう思うと、居ても立っても居られない。


「あ、透真」


 教室から顔を出した陽介が、遠慮がちに僕の名前を呼んだ。


「ごめん陽介。僕、早退するから先生に上手く言っておいて!」


「え、早退って」


 僕のイメージはたぶん、真面目な子って感じなんだと思う。

 だからサボりとか仮病とか、そういうことはしないと思われているんだろうな。いや、こんなことが起こらなければそのイメージ通りに僕は真面目に授業を受け続ける毎日を過ごしていただろうけれど。


 状況が状況なんだ。


 許してくれるだろう。


「ちょっと待って、透真くん!」


 階段を降りようとしたところで、日奈子先輩が僕の肩を掴んだ。

 ぐいっと力を込められて、僕は一瞬後ろによろけてしまう。


「なんですか?」


「なんですか、じゃないよ。千波がどこにいるかとか、知らないでしょ?」


 あ、言われてみれば。

 肝心なことは聞いていなかった。冷静になれているつもりでも、そこまで考えが回らないくらいにはまだ動揺しているのかも。


「まあ、この辺で大きい病院なんて一つだけなんだけど」


 言って、日奈子先輩はくすりと笑う。

 少しだけいつもの調子を取り戻したように見えるけど、多分まだ無理をしている。

 それでも、彼女がそう振る舞ってくれるなら、僕も少しだけ気持ちが楽になる。


「確かに、そうですね」


 骨折したときに僕が入院した病院だ。場所はちゃんと覚えている。


「それと」


 くるり、と先輩は僕の体を回す。そうして、お互いに向き合った状態になると、日奈子先輩がぐいっと僕に顔を近づけた。急に女の子の顔が接近して驚いた僕は、顔を逸らす。


「私も行くから、五分だけ待ってて」


「へ?」


「さすがに、体操服は恥ずかしいから制服に着替えさせて」


「あ、はい」


 圧力に負けてつい返事をしてしまう。

 一分一秒でも早く行きたいところだったけれど、ここまで言われると断れない。

 ということで日奈子先輩が着替える間、昇降口で待っていた。本当に五分程度でやって来たので驚いた。女の子の着替えってもっと時間かかるものだと想像していたから。


 二人して靴を履き替え、誰にも見られないように学校を出た。

 学校近くのバス停に着き、少しするとタイミングよくバスが来たことに驚いた。


「タイミングよかったですね」


 バスに乗り込みながら言うと、日奈子先輩がやれやれと首を振る。


「そこまで計算していたんだよ。この時間のバスは本数が少ないからね、一本逃すだけで大変なことになる」


「あ、はは」


 つまり、あのまま飛び出していても、着替えた日奈子先輩に追いつかれていたということか。いや、冷静じゃなかったから走り出していたかもしれないな。


 着替える時間も何もかも計算していたんだ。


 動揺していたのに、その辺はしっかり考えていたとは、さすがだ。やっぱり日奈子先輩は頼りになる先輩だな。


「僕、女子の着替えってもっと時間かかるものだと思ってました」


 黙ってしまうと、変に悪い方向に考えて不安になってしまう。

 その考えは日奈子先輩も同じなんだと思う。だからこそ、出来る限り普段どおりに振る舞おうとしているのだ。


 だから僕も、他愛ない話を振る。

 そうすることで、少しでも嫌な想像を振り払おうと。


「いやいや、今日はめちゃくちゃ急いだからね。本来ならもっといろいろケアとか大変なんだよ? もっと時間もかかっちゃうよ。今回はバスの時間もあったからね」


 ああ、そういうことか。

 やっぱり普段は時間かかるんだ。かつて千波先輩も着替えるのめちゃくちゃ早かったから、てっきりそういうものなんだと勘違いしたままになるところだった。


 そうだよね、女の子は男子に比べてもいろいろ大変だよね。


「その割に千波は早かったな」


 隣の日奈子先輩が懐かしむような目をしてそんなことを言った。


「そうなん、ですか?」


「うん、そういうのに疎かったっていうのもあるんだけど、何と言ってもあの子は水泳一筋だったから、それ以外のことを考えてなかったのかも。最初は楽しくやってただけだけど、いつからか期待されるようになって、その重圧を背負いながら水泳をするようになって」


 そんなことを気にする余裕すらなかった、ということだろうか。

 いろんなことを捨てて、それでも自分の中にある才能というものを伸ばしていけるのならばそれは幸せなことなのかもしれない。


 そのために失うこともあるけれど、それでも自分の行いが、自分の人生が幸せだったと思えるならばそれはいいことに違いない。


「だから、この前は驚いたんだよ。突然うちに来て、服買いたいからついてきてって言うんだもん。千波からそんなこと言われたの初めてだったから、嬉しかったな」


 それは以前、町のショッピングモールで遭遇したときのことだろうか。

 千波先輩と出掛ける前日に、陽介に服を見てもらうという理由で僕も町の方にいた。その時にばったり会ったのだけれど、すぐに逃げられてしまった。


「あんな顔の千波を見るのは初めてだった。それもこれも、全部透真くんのおかげだ」


「いや、そんなことは」


 突然言われて、僕は上手く返すことができなかった。

 少なからずでも、僕が千波先輩に影響を与えていれたのならばそれは嬉しいことだ。僕自身、そうであると願っている。


「透真くんは、千波のこと好きだよね?」


 そんなことを言われ、僕は思わず日奈子先輩を見る。

 いつものからかう声色ではなく、しっかりと僕の意志を確認しようとしていることが伝わってくる真剣な声色。その上で、日奈子先輩の顔を見るとその瞳はまっすぐと僕に向いていた。


 嘘とか誤魔化しとか、そういうことをしてはいけない瞬間だ。


「……はい」


 だから僕も、まっすぐに答えた。

 それが僕の正直な気持ちだから。


 嘘偽りない、本当の気持ちだ。ようやく気づいて、受け入れることができた。大会が終わったら、先輩に思いを伝えようと思っていた。


 なのに。


「千波はこれから、いろんなことを経験していくはずだった」


 きっと、僕と同じことを考えているんだと思う。

 全てが上手くいっていた。

 何もかも順調だった。


 その全部が一瞬にして壊れてしまった。

 誰の意志も関係なく、今までの努力も思いも苦労も葛藤も、あらゆるものをあざ笑うように全てを奪い去った。


 悔しい以外の言葉はない。


「なんで、こんなことになっちゃったんだろうね……」


 ちらと隣を見ると、日奈子先輩の頬には一筋の涙が伝っていた。

 それを見てしまったのが何だか申し訳なくなって、僕は慌てて俯いた。

 こういう空気になることを恐れて雑談をしていたのだけれど、結局僕らはその後会話もできずにバスに揺られていた。

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