第12話
足は完治して、もうどこにだって遊びに行けるけれど、染み付いた習慣というのはそう簡単に変わらないようで、気づけば僕の足はプールへと向かっていた。
水泳部の人達とも話すようになり、以前のようにプールに足を踏み入れることに対する躊躇いはなくなった。僕はいつものように中に入り、プールサイドに腰を下ろす。
特に誰かに声をかけるわけでもなく、ただ練習風景をぼーっと見ていた。端から見たらこれは変質者と言われても言い返せないだろう。
大会も近づき、練習も厳しくなっていく。そんな中、皆が必死にそれと向き合っている姿は美しく、輝いている。僕にはないものを持っている彼女らに、僕は憧れのような眼差しを向けていたのかもしれない。
ああやって、何かに真剣に取り組める人が僕は羨ましかった。
こうして眺めていることで、一緒に同じ場所に向かっているような錯覚に陥ることができた。これは本当に錯覚でしかないのだけれど。
練習が厳しくなる分、休憩もきちんと取る。水瀬先輩がオンとオフをしっかり分けることで部員のみんなもそれに従う。休む時はきちんと休み、練習する時は真剣に取り組む。
理想的な練習の形と言えた。
「千波先輩はすごいんだよ、本当に」
休憩するといっても、みんなが一斉にするわけではなく、交互に取っていくスタイルらしく人によっては僕の隣に座って話し相手になってくれる。そんなことを言うと、別に話し相手になっているわけじゃないよと言ってくれるのも嬉しい。
「それは、まあ分かるけど、具体的にどうすごいの?」
大亀がぽたぽたと水滴を垂らしながら僕の隣に座ってそう話し始めた。
「あれだけ結果を残せば当然期待される。次はもっと上をって思われる。普通そんな期待はプレッシャーになって自分のプレイを狂わせるのに、先輩はそんな素振り全く見せないの。『期待? そんなものくらい背負ってあげるわ』みたいな余裕さえ見えるんだよ」
最後の方は芝居がかった口調で大亀は言う。
確かに、先輩の普段の生活や振る舞いからは緊張とか不安とか、そういうものはあまり感じられない。もしかしたら感じてはいるのかもしれないが、それを悟られまいと振る舞えていることがすごいことだ。
僕でもそう思うのだから、同じ部員からしたらそれはもうすごいことなのだろう。
「大亀はどうなの? 大会には出るんでしょ?」
「あたしはまだまだだよ。千波先輩に比べたら月とスッポン、いや月とスッポンの糞だね」
「女の子なんだから糞とか言わない方がいいよ」
「うっさい! それくらい、あたしはまだまだで、先輩はすごいってこと!」
言いたいことは分かるけど。
だからと言って、そこまで自分を卑下しなくても。練習を見ている限り、大亀も十分すごいと思う。確かに、今の段階では千波先輩には及ばないけど、これから頑張って練習していけばきっとすごい選手になるだろう、と僕は思う。
「だから、大会も近いことだし鳴海がちゃんと支えてあげなきゃダメだよ?」
大亀が突然そんなことを言うので、僕は唖然とした顔をしてしまう。
そんな僕の顔を見て、彼女もきょとんとした顔をする。
「なんでそこで僕が出てくるの?」
「鳴海は千波先輩のカレシでしょ?」
「ち、違うよ!」
大亀の勘違いに僕は慌てて否定を入れる。
何がどうなれば、僕が千波先輩の彼氏ということになるんだよ?
「え、そうなの? 水泳部員の意見はそっちの方向で合致したのに!」
僕らのいないところで何の話をしてるんだよ! とはツッコめなかった。
「なんでそうなるの?」
僕が聞くと、大亀は少しだけ難しい顔をした。
「だって、まず千波呼びでしょ?」
「それは大亀も同じじゃん」
「同じじゃないよ。女の子と男の子とではわけが違うよ。男の子で千波先輩のこと名前で呼んでるの鳴海くらいだよ?」
そ、そうなんだ。
僕は内心少しだけ喜んでしまった。それが本当だとしたらちょっと特別感あるから。
「それに、いつも練習見に来てるじゃん」
「それは僕が勝手に来てるだけだよ」
それに関しては本当にそうなのだ。
「でも、千波先輩それを受け入れてるでしょ。普通、練習風景なんか人に見られたいものじゃないよ。ましてや男子になんて」
「大亀達の気持ちはよく分かったよ……」
やっぱりいい気持ちはしてなかったんだね。今度皆さんに詫び菓子でも持ってこよう。
「いや、あたし達的には千波先輩が許してるし、それならまあいっか程度だよ。あたし達がそんなアスリート気取りなことを言うなんて一〇〇〇年早いからね」
「そんなことはないと思うけど」
「あと、練習終わったら一緒に帰ってるじゃん」
「それは何となく流れで」
一番最初に一緒に帰ってから、何となく一緒に帰る流れが出来上がっただけだ。
僕としては嬉しい限りだけど、先輩がそれをどう思っているのかは正直のところ分からない。よく思ってくれていればいいんだけど。
「嫌いな人とは一緒に帰んないよ。まして、千波先輩は人付き合いを結構考えてする人なんだから」
さっきから思うけど、大亀のやつすごい千波先輩のこと見てるな。めちゃくちゃリスペクトしてるじゃん。僕は感心してしまった。
「それだけの理由があるんだし、普通は付き合ってるって思うでしょ」
「そう、かなあ」
今まで恋愛というものをしてきたことがなかったのでその辺はよく分からない。でも、男よりもよっぽどそういうことに敏感な女子が言っているのだし、もしかしたらそうなのかもしれない。
僕と先輩って、周りからはそういう風に見えているのか?
「それに加えて、鳴海と話しているときの千波先輩は何だか雰囲気が柔らかいんだよね」
「そうなの?」
それは僕では気づけない。
もしそうなのだとしたら確かに嬉しいことだ。
「少なくとも、あたしはそう感じるよ」
「そっか」
大亀の話で、千波先輩が少なからず僕に好意を抱いてくれていることは分かった。それが恋愛感情でないとしても、嫌われていないことが分かったのは嬉しい。先輩の中で僕は少しばかり特別なんだと、そんなことを考えて喜んでしまう。
「男見せろよ、鳴海!」
「な、なにさ」
パン、と背中を思いっきり叩かれる。
「女の子はみんなお姫様に憧れてるんだよ。王子様に手を引っ張ってもらうのを夢見てるんだから、鳴海が頑張んなきゃダメだぞ?」
「……は、はい」
そんなことを言われても、僕は困ったように笑うしかなかった。
今は千波先輩にとって大事な時期だし、応援することに徹しよう。見守って、少し落ち着いた時には、この気持ちを伝えてもいいかもしれない。
僕がそんな決心を密かに掲げていたその時。
「大丈夫、千波?」
水泳部員の人の声がした。
あの人は水泳部の部長さんだ。
短い髪と高い背が特徴的で、僕ともよく話してくれる気さくな人だ。
僕と大亀は顔を見合って、先輩達の方へと走っていく。
部長さんの声からして、千波先輩に何かあったように思えたけど。
「何かあったんですか?」
駆け寄った僕は部員の人に事情を聞く。
囲まれていた先輩は地面に座り込んでいた。
「大丈夫よ、ちょっと躓いただけ。何でもないわ」
「へ?」
見てみると、確かにそんな感じにも見える。
でも、よく見ると足を擦りむいているし、赤く腫れているようにも見える。
「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないでしょ。とりあえず保健室に行ってきて先生に見てもらったほうがいいよ。時期が時期だし」
「分かったよ……」
やれやれとでも言うように千波先輩は溜め息をついた。そして、立ち上がろうとしたところで一瞬表情を歪ませる。その後にすぐ立ち上がったからそこまで大した怪我じゃないんだろうけど、歩こうとするとやっぱり表情が歪む。
「やっぱ痛むんじゃん」
「これくらいなら平気だよ」
口ではそう言うが、平気なようには見えない。
「先輩、僕が運びますよ!」
居ても立っても居られずに、僕は前に出ながらそう言った。
その時、部長さんを含めて部員のみんなが「おお」みたいな声を漏らした。ああ、この人ら僕が先輩の彼氏だと思ってるんだっけ。それでそんなリアクションするのか、と思ったけれど大亀も同じ反応していたからそれは関係ないな多分。
「お願いできる? 鳴海くん」
「はい」
「大丈夫なのに」
そう言う先輩の声はどこか弱々しかった。
先輩は歩くにも痛みを感じるようだから、ここはやっぱり文字通り運ぶしかないよな。
そうなると、自然と手段は限られてくるけど。
「えっと、じゃあおんぶとか?」
「私、今水着なんだけど?」
何故か、恨めしそうに睨まれた。
今の僕が悪いのかな?
「ここはやっぱりお姫様抱っこでしょ!」
そう言ったのは目をキラキラ輝かせる大亀だった。あいつ、余計なこと言いやがって。
「確かに、おんぶがダメならそれしかないな」
部長さんも乗ってきた。
「お姫様抱っこ……」
おんぶに比べれば、千波先輩もそこまで嫌がっている様子はない。何なら、満更でもないようにも見える。
「分かりました。僕も男ですし、それで行きましょう」
ここまで言われて引き下がるわけにはいかない。
僕は気合いを入れて拳を握る。それを見た先輩もどうやら覚悟を決めたらしい。なにこのお互いに得にならない展開。なんで次の展開に進むのに気合いとか覚悟が必要なんだよ。
「私、結構重いけど大丈夫?」
僕は先輩の足に腕を入れる。そして、もう片方を背中に回したところで先輩が不安げに言ってくる。そんなことより、先輩の体が柔らかすぎてもうそれどころじゃない。服とか越しじゃなくて生肌なのでその感触がダイレクトに伝わってくる。
「だ、だいじょう、ぶ、です」
僕はギリギリのところで返事をする。
ぶっちゃけ結構重い。
でもそれは別に先輩が重いとか、そういうことじゃなくてシンプルに僕に力がないのだ。こんなことならもっと筋トレとかちゃんとしておけばよかった。
「そ、そう?」
言いながら、先輩は僕の首元に手を回す。
これで準備は完璧だ。あとは僕が力を込めて立ち上がるだけ。それだけで、このミッションはコンプリートとなるんだ。
大丈夫だ。
お米とか持ったことあるし、それに比べれば女の子一人持ち上げるくらい何てことないはずだ。
「う、おおおおおおおおおお!」
僕は全身に力を込める。
しかし、中々立ち上がることができないでいた。
「その叫び声がもう失礼だよね」
大亀のぼそっとしたツッコミが聞こえた。うるせえ。
「あの、透真?」
結論から言うと、無理だった。
お米持ち上げたのも昔の話だし、最近は体がなまりっぱなしだったから、そりゃ無理だよ。ただでさえ、常日頃筋力ないんだから。
「……」
「……」
気まずい空気が流れた。
ああ、僕ってやつはどれだけ格好悪ければ気が済むんだ。大切な女の子一人持ち上げれないでどうする。
「えっと、それじゃあおんぶという方向で」
「ていっ」
チョップを喰らった。
額よりも心が痛い。
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