第8話
そんなことがあった翌日、暇を持て余す僕は結局水泳部の練習を覗こうとプールの方へ足を運んでいた。覗く、というのは表現上の使用であって、決して本当に覗き見るつもりは毛頭ない。
しかし。
プールの前に来たところでやっぱり引き返そうかと足を止める。
男一人で女子だけの水泳部の練習を見学するとか、普通に考えてやっぱりおかしいよなあ。先輩は大丈夫だと言っていたけど、部員の人たちはよく思わないに決まっている。
また都合よく日奈子先輩が現れないだろうか、と少し待っていたところ、聞き覚えのない声が飛んできた。
「何してんの?」
普通に考えてこんなところにいる僕は不審者も同然なので、これは立派な通報案件である。
故に、僕は必死に弁明しなければ今後の人生が終わってしまう。
危機感を覚えながら僕は振り返る。
「あ、いや、これは別に決して変な意味ではなくてですね!」
言い訳がましいテンプレートなセリフを吐いてしまう。
どうしてこう、僕は普通なことしかできないのだろうか。そんな自分の平凡極まりないキャラクターに凹みながら、声をかけてきた女性の顔を見る。
「……何言ってんの?」
敷地内にいるのだから当然だけど、この学校の制服を着た女生徒。
スクールバックの他に大きめのカバンを持っている黒髪ボブのその子を僕は見たことがあった。どこで見たのかと言われると、主に教室でだ。
つまりクラスメイトである。
「あ、えっと」
名前は何だったかな、確か生き物の名前が入っていたような気がする。それでいて海とか水を連想させる。ああダメだ、そうすると水瀬先輩しか出てこない。生き物の方から連想していこう。
えっと。
「人の名前を思い出そうとしている顔に見えるけど」
「き、気のせいだよ」
僕は慌てて否定する。
学校が始まって、もう数ヶ月経つ。いくら入院していたといっても、生徒数の少ないうちの学校でクラスメイトの名前を覚えていないのは印象が悪すぎる。
思い出せ。
絞り出せ。
そうだ!
「猪崎さん!」
「大亀だよ!」
「あおいさん!」
「みどりだよ!」
全部間違えていた。
ぶうっと怒っている表情を作り、分かりやすくアピールしてくる。そうだよね、普通怒るよね。でもちょっと待てよ、あっちが僕の名前を覚えていないという可能性はまだ残っている。
それならお互い様じゃないか。
「ちなみに僕の名前は?」
「鳴海」
「下は……」
「透真」
僕は素直に頭を下げて謝罪をした。
これはもう完全に僕が悪いと自覚したのだ。
「それで、何してるの?」
「え、ああ」
「こんなところにいるってことは、見学に来たんじゃないの?」
何でもない感じで大亀は言う。
そりゃそうなんだけど、僕は君達に気を遣ってだね。
「そうなんだけど、何か、入っていいのか不安になって」
「昨日もいたじゃん」
「昨日は日奈子先輩がいたし。男一人だから、いいのかなって」
僕が弱々しくそう言うと、大亀はふーんと適当な返事をする。
そしてくるりと回ってプールの方へと歩き始める。いくらなんでも興味なくすの突然過ぎない? いきなり放置とか、さすがに凹むんだけど。
僕が戸惑っていると、大亀はこちらを振り返った。
「何してんの? 行かないの?」
「え?」
僕のリアクションが良くなかったのか、大亀は面倒くさそうに溜め息をつく。女の子にあそこまで盛大に溜め息つかれたことは未だかつてなかった。
「あたしと一緒なら大丈夫でしょ?」
「あ、うん。ありがと」
ようやく大亀の意図を察した僕は彼女に追いつく。怖い人だと思っていたけど、普通に優しいな。最初に怒っていたのは、名前を覚えていない僕が悪かったんだけど。
「あと、千波先輩から話聞いてるし、誰も気にしてないよ」
「そうなの?」
「うん。千波先輩は今までそんなこと言ったことなかったから、みんな驚いていたっていうのはあるけど。そういうこともあって、何なら鳴海に興味持ってるくらい」
「大亀も?」
「冗談でしょ」
鼻で笑われた。
冗談だったんだけどね。
でも、そうなのか。そこまで気にされていないなら抵抗もなくなるというものだ。部員である大亀が言っているんだから、間違いないだろう。彼女がよほど狡猾で僕のことを嫌っているなら話は別だけど。
そう言われてから、僕は毎日のように水泳部の練習を見に行った。
足が治っていないので行くところがないという理由もあるけれど、水瀬先輩の練習風景を見るのが楽しいという理由もあった。
回数を重ねていくと、水泳部の人たちとも話すようになった。
最初は大亀が休憩中に僕のところに来て話していると、他の部員もやって来て軽く雑談をするような。五分とかで戻っていくけれど、その時間は結構楽しかった。
「今日は随分と楽しそうだったね。主に部員の子と話してて」
ただ。
水瀬先輩がたまに不機嫌だ。
練習で疲れているのかもしれない。
「皆さんいい人ですから」
同じ部員を悪く言われるのも気分が良くないだろうと思って、僕はそう言う。でもそれが嘘というわけではない。本当に、いい人で面白い人ばかりだ。
「あ、でもこうして水瀬先輩と一緒に帰ってる時間が一番楽しいですよ」
もちろん水泳部のみんなと話すのも楽しいし練習風景も見ていて楽しい。
でも、こうして先輩と一緒に帰れるのが何よりも嬉しかったりする。
けれどタイミング的にフォローのような意味合いになってしまったような気がして、どう思ったか気になったので先輩の顔を見る。
「……」
何を思っているのかは表情からは読み取れなかった。
口をぎゅっと噤んで、何かを我慢しているような苦しそうな顔をしている。頬は夕日に照らされてか赤く染まっていて、僕を見る目は何故か恨めしそうだ。
「あの、何か?」
「何でもないわ!」
何でもないようだ。
明らかに何でもないようには見えないのに。
けれど、これ以上詮索しても答えてくれないだろうし、何ならまた怒られる可能性すらあるので僕は黙ることにした。
「ねえ」
タイミングがズレたせいでいつも乗っているバスが行ってしまった。
なので僕らは次の便を待つためにバス停で腰を下ろす。次のバスが来るまで少し時間があるけど、こういうのも悪くないなと思っていると不意に先輩が口を開く。
「はい?」
僕は先輩の方を見る。
何かを言いたそうに唇を尖らせている。
しかし、僕は首をかしげるしかない。先輩の言いたいことを察してあげれるほど頭が良くはないのだ。
「この前言ってたこと」
「なんでしたっけ?」
何か言ったけな? と、僕は自分の過去の発言を振り返る。しかし、何も思い浮かばない。なにか失礼なことを言ったのかな?
「日奈子のことを名前で呼んだ話!」
「あ、ああ」
数日前に話したことだ。
初めて水泳部の練習風景を見に行く時に入るのを躊躇っていた僕と一緒に来てくれた日奈子先輩。その時に彼女が自分のことを名前で呼んでと言っていたのだ。
「それが何か?」
僕が言うと、先輩はむっとしたように頬を膨らませる。
今まで抱いていたクールで格好いい先輩のイメージ像とは異なる姿。
最近は少しずつ、そんな姿を見せてくれる機会が増えてきた。僕としてはそっちの先輩も好きで、新しい一面を知れることが嬉しいと思っていた。
「日奈子のことは名前で呼ぶのに、私のことは呼んでくれないのかなと思って!」
やけくそだ! とでも言いたげに水瀬先輩はそんなことを言う。というか、もはや叫ぶに近かった。近くに人がいないから良かったけれど、誰かに見られていたら結構恥ずかしいぞこれ。
「えっと、それは……」
水瀬先輩は僕の方をじっと見てくる。
いや、これはもう睨んでいるといってもいい。めちゃくちゃ睨んできてますね。殺意とかそういうのが込められていても不思議じゃないくらい眼力ありますよええ。
いつもならば返事に悩むところだけど、これに関しては誤魔化すとか嘘とか、そういうのは全くなく、ぽろっと言葉が漏れ出てきた。
「呼んでもいいのか、ちょっと不安で」
ただそれだけだった。
日奈子先輩を名前で呼ぶことになった時、仲良くなったしこれからもっと仲良くなりたいと思って、僕は日奈子先輩を名前で呼ぶことにした。本当にそれが嫌だったり、恥ずかしかったりしたら呼ばないだろうから。
その時、僕の脳裏にふと現れたのは水瀬先輩だ。
僕が誰よりも、もっと仲良くなりたいと思ったのは彼女なのだ。
「なにそれ」
ふふっと、先輩はおかしそうに笑う。
機嫌が直ってくれたみたいで何よりだ。
笑った顔はやっぱり綺麗で、僕はその笑顔に見惚れてしまう。すると、僕がじっと見ていたことに気づいた先輩は顔を赤くして目を背ける。
「あんまりじろじろ見ないで」
「あ、ごめんなさい」
言われて、失礼なことをしていたんだと気づく。
僕は慌てて謝罪した。
先輩は子供のように唇を尖らせて拗ねる。頬を赤く染めた先輩は僕から視線を逸らして明後日の方向を見ながら大きく深呼吸していた。
「先輩?」
僕が様子を窺うように聞くと、先輩は顔はあちらを向いたまま口を開いた。
「名前で呼んでも、いいよ」
言った後に、ちらと僕の様子を見てきた。
僕はどんな顔をしていただろうか。
もしかしたら、突然のことで間抜けな表情を浮かべていたかもしれない。今更遅いけどそれは嫌だなあ。まあ、あのシーンでカッコつけてるのもよく分かんないけど。
「呼んでいいよ、名前で」
もう一度言われた。
「あ、はい」
表情に出ていたかはともかく、先輩の突然の言葉に驚いているのは事実で僕の脳は既に考えることを諦めていた。いやいや待てよ僕の脳みそ、考えろよ! 今この状況でリアクションしないとか絶対ダメだろ!
「……呼んでもいいんだよ?」
しびれを切らしたように三度目の発言があった。
これはあれか、もしかして呼べということか?
「えっと……千波、先輩?」
僕が恐る恐るその名前を口にすると、先輩はふいっと再び顔を背けてしまう。
今、先輩の顔は見えないけれど耳が赤いのは見えた。もしそれが夕日のせいでないとするならば、自分で言っておきながら照れていることになる。そんな先輩の姿を可愛いと思ってしまった。
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