第7話


 僕と日奈子先輩は暫くの間、雑談をしながら水泳部の練習を眺めていた。


 何でもない他愛ない話。僕のことを聞かれたり、あるいは日奈子先輩の話を聞いたり、その中でもやっぱり共通の知り合いである水瀬先輩の話は結構長かった。僕としても水瀬先輩のことを知れるのは大きくて、楽しかったから聞いてるだけでも有意義だと思えた。


「透真くんは彼女とかいるの?」


 そんな話をしていたところ、何の脈絡もなく突然話題を切り替えた日奈子先輩に、僕の表情は思わず固まった。まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったので、一瞬思考が停止してしまったのだ。


「なんですか、突然……」


「んー? ちょっと気になってね」


 にこり、と笑いながら言う。ぶっちゃけそれだと答えになっていないのだ。けれど、それ以上質問を重ねても返ってくるのは同じ答えだろうと僕は諦める。


「まあ、強いて言うならボランティア活動だよ」


「ボランティア?」


 この質問とボランティアがどう関係あるのか、いくら考えても結びつかない。


「そそ。人助けだと思って私の質問に答えてよ」


「質問に答えることが人助けになるとは思えませんけど」


「なるよ? それはもうめちゃくちゃなっちゃうよ。この後の私の未来が大きく変わる」


 やっぱり日奈子先輩の言っていることはよく分からなかった。でも、まあ別にその質問に答えるくらいは別に何の問題でもないからいいんだけれど。


「いませんよ。こっちに来てまだちょっとしか経ってないのに、いると思います?」


「ほら、遠距離とか。都会っ子と今でも仲良くメッセージを交わしてるとか、そういうことはないんだね?」


「残念ながら」


 そういう人がいれば、もっと毎日が楽しいのかもしれない。

 恋は目の前の景色を変えるという。それが何色なのかは人によって違うのだろうし、中でもバラ色と比喩されることは多い。何色であっても、つまりは毎日が楽しくなるという意味は変わらない。


「じゃあ次の質問ね」


「あ、まだ続くんだ」


「人助けだと思って」


 またそれだった。

 この質疑応答がどう人助けになるのかは頑なに教えてくれない。そこまで隠されると逆に気になってくるのだけれど。どうにか探る手段はないものか……ないな、うん。


「透真くんは彼女欲しい?」


 日奈子先輩は何でもないように質問してくる。まるで好きな食べ物は何? くらいのテンションで聞いてくるけど、これっていわゆる恋バナってやつだろ? それも相手が女子となるとちょっと恥ずかしいぞ。


「まあ、そりゃ、欲しくないことはないといいますか」


「もっと素直に率直に答えてほしいね」


「……欲しいですよ」


 なんで僕怒られたの?

 答えると、日奈子先輩はふむふむと頷きながらメモを書くフリをする。実際には紙もペンも持っていない。


「好きな人はいないの? 彼女にしたい人とか」


「……それはノーコメントで」


「いるんだ?」


「ノーコメントです」


「誰々? 私の知っている人かな?」


「ノーコメントで!」


 僕が困ったように声を上げると日奈子先輩はくすくすと笑う。からかわれているのが目に見て分かるので、僕は居心地の悪さを感じてしまう。


「うそうそ、冗談だからそんなに睨まないでよー」


 言いながら、日奈子先輩はよっこらしょと立ち上がる。スカートをパンパンと払って荷物を手に持った。


「帰るんですか?」


「うん。透真くんとのお話も楽しんだし」


「水瀬先輩が話があるって言ってませんでした?」


「言ってたね」


 ケロッと答える。

 それを覚えているのに帰ると言っているのか、この人は。


「なのに帰るんですか?」


「だから帰るんだよ」


 よく分からない。


「もし千波に聞かれたら先に帰ったって言っておいて。それでも、どうせ家で呼び出しくらうだろうけどね」


「そういえば家が隣なんでしたっけ」


 そういうの何かいいよな、とか場違いなことを考えてしまう。

 僕は以前いたところでも、当然ここでも近所に仲のいい友達や幼馴染はいなかった。なのでああいうのには少し憧れる。


「まあね。あ、透真くんはちゃんと練習終わるまで待っててあげるんだよ? でないと、千波泣いちゃうかも」


「それくらいじゃ泣かないでしょ……」


 というか、あの人が泣いているところは何となく想像できない。いつも凛としていて、格好良くて、僕の憧れの先輩の弱い部分は思いつかない。それを考えた時、その部分を見てみたいとも思った。


 まあ、水瀬先輩に何かあった時、僕に何か出来るとは思えないけど。


「それじゃ、よろしくね」


「あ、日奈子先輩!」


 僕の呼び声に振り返ることなく、手を振りながら彼女は走って行ってしまった。

 一人になると、途端に罪悪感のようなものが込み上げてくる。


 目の前には水着を着た女子生徒が、女子生徒だけが水の中で気持ちよさそうに泳いでいる。いわばここは男子禁制の秘密の花園と言ってもいい。秘密でもなければ花園でもないけれど、そこはまあ言葉の綾として処理してほしい。


 さっきまでは隣に日奈子先輩がいたことによって緩和されていたが、そのバリアを失うと自分の場違い感が浮き彫りになる。


 水瀬先輩は部員の人たちには話しておくと言っていたけれど、それでも部員の人たちが抱く不信感は拭いきれないに違いない。


 ああ、帰ろうかな。


 でも、日奈子先輩に言われたしな。いや、あの人の言うことを律儀に守ってあげる義理なんてどこにもないんだけど。ただ、せっかくだから先輩の泳いでいる姿をもう少し見ていたいとも思う。


 そうだな。

 どうせ不審者と思われるなら、精一杯見てやろう。


 そんな変態のようなことを考えながら僕は水泳部の皆さんの練習風景をぼーっと眺めていた。さっきまでは日奈子先輩との雑談があったけれど、今は僕一人で静かに眺めている分集中して見れた。


 それはそれでキモいけど、考えないことにしよう。


 それから一時間ほど練習が続いたので、僕はその間ずっと練習風景を眺めていた。ようやく練習が終わったのか、部員たちが更衣室へ戻っていく中、水瀬先輩だけがもう一度プールに飛び込んでいた。


 すれ違うときに、一応こっちに会釈をしてくれたので僕も返す。

 あれはどういう意味の会釈だったんだろう。普通に考えれば会釈に悪い意味はないんだろうけど、深読みしてしまう。どれだけ考えても答えは出ないので、諦める。


 諦めて、僕は先輩が上がってくるであろう場所まで歩いて近づいた。


 二五メートルを泳いだ先輩はそのまま折り返してもう二五メートルを進む。五〇メートルを泳ぎ切るだけでもしんどいのに、それを何往復をするなんて、体力どれだけあるんだろう。確実に僕は勝てない。


「ぷ、はっ……あ、どうしたの?」


 水から顔を上げた先輩が僕に気づく。

 不思議そうな顔を向けられると、どう話したらいいのか分からなくなってしまう。


「みんな帰ったのに、先輩はまだ泳ぐんですか?」


「うん、あとちょっとだけね。ごめんね、待っててくれてるのに」


 申し訳無さそうな顔を向けられる。


「いや、僕は全然。どうせ家に帰ってもすることないですし」


 父さんは仕事で帰ってくるのはもう少し遅くだ。帰ってすることといえば晩ご飯の準備くらいだけど、あれも献立さえ決まればそこまで時間はかからない。あまり動けないからすることがないのだ。


 こういう言い方はよくないけど、丁度いい時間潰しになっている。


「そ? じゃあ、あと一往復だけいい?」


「はい」


 その後、先輩は言葉通り一往復を全力で泳ぎ切り、プールサイドに上がってくる。

 さっきも見たけれど、改めて全体像を見ると水瀬先輩のスタイルの良さが伺えた。


 ボディバランスが良いのできっと運動にも適しているのだろう。詳しいことは分からないが、そういうところにも気を遣っているに違いない。目に見えないところでも努力してるんだなあ、と感心してしまう。


「あんまりじろじろ見ないで」


 僕が見ていることに気づいていた先輩は恥ずかしそうに頬を染めながら身を捩った。そう言われた僕は咄嗟に後ろを向いた。


「ご、ごめんなさい」


 あまりにも綺麗だから見惚れていただなんて言えなかった。

 先輩は僕のリアクションにくすりと込み上げてきたような笑いを見せる。


「もういいわよ。着替えてくるから、もう少し待っていてくれる?」


「分かりました。あ、そうだ。日奈子先輩なんですけど」


「帰ったんでしょ?」


 僕が言う前に水瀬先輩はズバリ言い当てた。さすがは幼馴染。


「ああ、はい」


「それくらい分かっていたわ。家に帰ったら呼び出すけどね」


 ……さすが幼馴染だ。そこまで予想通りとは。

 僕は二人の関係性に驚いていたが、先輩が僕の顔をじーっと見ていることに気づく。


「僕の顔、何かついてます?」


「ついてないわよ」


 じとー、と恨めしそうな半眼を向けてくる先輩は冷静な声で答えた。そう言う割には僕の顔から視線を外さない。理由の分からない眼差しに僕は居心地の悪さを覚える。さっきの先輩もこういう気持ちだったのか? いや、それとは別か。


「あの、じゃあ何か?」


「……」


 恐る恐る吐き出した質問に先輩が答えることはなかった。

 あるのはただの無言の眼差しだけ。けれど、暫く睨まれていると満足したのか踵を返して更衣室の方へと歩いて行ってしまった。


「何だったんだろう」


 結局、理由は分からないままだった。

 どうしていいのか分からなかったので、とりあえず僕はその場で待つことにする。女の子の着替えだからそれなりに時間がかかるだろうと思っていたけど、先輩が戻ってきたのは一〇分後くらいだった。


 想像よりもずっと早いことに驚いた。


「早いですね」


「待たせているし、ゆっくり着替えるのはどうかと思って」


 やっぱり気を遣わせてしまったか。


「僕が勝手に待ってるだけなんですから、あんまり気を遣わないでください。疲れてるだろうし、もうちょっとゆっくりでいいですよ?」


 急がれると、逆にこっちが申し訳ない気持ちになってしまう。


 そんな僕の気持ちを察してくれたのか、先輩は優しい笑顔を浮かべる。


「それじゃあ、次からはもう少しゆっくりさせてもらうわ」


「あ、はい」


 ん?

 ていうか、次からはってことは、僕は明日からも来ていいのだろうか? 今日は何となく日奈子先輩がいたから入りやすかったけれど、明日から普通に入ることができるだろうか?


 難しいなあ。


「それじゃ、帰ろっか」


「そうですね」


 僕は松葉杖を構えて、ゆっくりと歩き始める。

 といっても、この歩き方にもだいぶ慣れてきたので苦労はしない。どうしても今までに比べると歩くスピードは遅くなっているけれど、そこまで不便ではない。歩調を合わせてくれる相手には迷惑をかけているかもしれないけれど。


「今日は日奈子と随分仲良さそうだったわね」


 帰りながら、そんなことを言われる。


「そうですかね?」


 まあ、一緒に見学してたわけだし、そう見られてもおかしくはないけど。部員の人たちに言われるならともかく、それを先輩が言うのは不思議だな。


「二人で仲よさげに話してたし」


「日奈子先輩、面白いですしね」


「あと、それ」


 ぼそっと何かを言った先輩の方を見ると、唇を尖らせてまるで拗ねた子供のような顔をしていた。今まで見たことのないような表情に、僕はどきっとしてしまう。


「それ?」


「呼び方。いつから日奈子のこと名前で呼ぶようになったのかなと思って! 日奈子も名前で呼んでるし……」


「あ、いや、これは今日からですよ。突然日奈子先輩がそう呼び合おうって言ってきて」


 事実を話しているだけなのに、どうしてこんなに言い訳がましく聞こえるのだろうか。


 僕が必死に弁明するも、水瀬先輩のご機嫌はナナメのままだ。


「そう言われてすぐに呼び合えるんだね?」


「それは、その、日奈子先輩が名前で呼ばないと反応しないって言うもんですからそう呼ばざるを得なかったというか」


 それでも日奈子先輩の纏う雰囲気が呼ばせたというのもあるけれど。


 あの人は何というか、人との距離感を測るのが上手いような気がする。気まずくもないし、息苦しくもない。でもしんどいところまでは近づいてこない。それでいて人懐っこいオーラがあるのだ。


 だから、抵抗なく呼べたというのはある。


「あ、でも仲良いって言っていいのかは分かりませんけど、僕としては日奈子先輩とは仲良くしていきたいかなとは思ってますよ? 日奈子先輩いい人だし、普通に好きだし」


 危ない危ない。

 言い方的に日奈子先輩のことは好きじゃない、と言っているように聞こえた可能性がある。普通に考えて友達のことを悪く言われるのは気持ちのいいものではない。あくまでも僕は日奈子先輩のことが好きなんだということは伝えておかないと。


「好き、なの?」


「え、まあ、はい」


 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする水瀬先輩に、僕も同じような顔をして返事をしてしまう。僕、今なんか変なこと言ったかな?


 聞こうと思ったけれど、落ち込んだ様子の先輩を見ているとこの話題はこれ以上掘り下げない方がいいのかな、なんて思ってしまう。


 バス停に着いたところでちょうどバスがやって来た。


 一緒に乗り込み、その後は他愛ない話をしたけれど、先輩は終始何か言いたそうな顔をしていた。まるで喉元に何かが引っかかっているような、そんな複雑な表情を見せるのだけれど、その理由は僕には分からないままだった。


 いろんなことが分からないことだらけだ。


 なんて考えながら、僕はバスに揺られて家に帰った。

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