第2話


「こんにちは」


 ある日、いつものように僕が暇を持て余していると水瀬先輩がやって来た。

 時間はだいたい五時過ぎくらい。


「いつもこれくらいの時間に来ますよね?」


 不思議に思ったので聞いてみた。

 放課後すぐに来たにしては遅いのだ。先輩は水泳部の期待のエースなので部活に勤しんでいるのかとも考えたけれど、よくよく考えると今の時期はプールが解放されていない。


 学校での練習はできないのだ。


「そうね。練習が終わって準備をすると、これくらいになるの」


「練習?」


 やはり、水泳の練習をしているようだ。

 水泳部は夏以外はマラソン部になると聞いたことがあるけれど、もちろん今まで走っていたわけではないだろう。もちろん体力は大事だが、結局ものを言うのは反復練習だと思う。


 これは水泳に限った話ではないが。


「こっちの方の施設が少しの時間だけど貸してくれているの」


「へえ」


「スイミングスクールやフィットネスをしていない時間、一時間くらいなんだけど、それでも無料で貸してくれるのは大きいわ」


 それは太っ腹だな。

 学校の周りに比べてこちらの方は少々栄えている。その代わりバスで結構な時間揺られなければならないが。毎日バスに揺られてここまで来るのも大変だろうに。


「それだけ期待されてるってことですよね」


「そうね。すごく有り難いことだと思っているわ。私は、その期待に応えなければならない」


「……だったら、なおのことお見舞いなんて来なくてもいいんですよ? 僕も、先輩には練習して活躍してほしいですし」


 僕が言うと、先輩は少しだけ凹んだように表情を暗くした。


「私が来るの、迷惑かしら?」


「え?」


「私は、義務感や責任感だけでお見舞いに来てるわけじゃないのよ? 最初は、まあそういう気持ちもあったけれど、こうして君と話す時間が今は楽しいと思っているわ。君はそう思ってくれていないのかしら?」


 意外な言葉に僕は言葉を失った。

 僕が入院をした初日、その日もこれくらいの時間に先輩は病室に顔を出した。入ってきて最初に口にしたのは謝罪の言葉だった。その次の日、顔を出した先輩が口にしたのは、やっぱり謝罪の言葉だった。


 その後、謝罪はナシでとお願いした。それから先輩は謝ってくることはなくなった。その代わりにいろんな話をしてくれるようになった。水泳の大会であった大変なこととか、最近の練習風景だとか。


「僕にとっても、この時間はとても大切な時間です。毎日、楽しみにしてるくらいですよ」


「だったら、追い出すようなことを言わないでほしいわ」


 むすっと、怒ったような表情を見せる先輩は子供のように可愛らしかった。


「でも、この時間が先輩の足を引っ張ってるんじゃないかって思うと何だか申し訳なくて」


「自分の練習ペースくらい自分で管理しているわ。この時間が足枷になっていると感じたならば別の手段を考えるし、それで結果に影響を及ぼすようなことはしない。私は、この時間が大切だと思って、ここに来ているの。それが分かったなら、二度とそんなこと言わないでね?」


「……はい」


 僕の中で先輩との時間が大切に思っているように、先輩の中でも僕との時間は大切にされているんだ。そのことを思うと、何だか嬉しくなった。


「大会って夏なんですよね?」


 何だか雰囲気が暗くなったので僕は話題を変える。僕の考えを察したのか、先輩もそれに乗ってくれた。


「そうね。夏に入ってからある程度の練習時間はあるけれど、大事なのは夏までにどれだけ練習できるか」


「先輩みたいにプールが使えない人もいるじゃないですか?」


「そうね」


「そういう人ってやっぱり不利じゃないですか?」


 僕が言うと、先輩は少し考える。

 練習の濃度が結果に深く関係するのはスポーツの基本だ。濃く短い練習時間と薄く長い練習時間とでは前者の方が効率的と言える。


 水泳にとって、やっぱりどれだけ別のことをやっても泳ぎの練習を多くしている人には勝てないような気がする。あくまでも初心者目線の意見だけれど。


「まあ確かにそうなんだけど、一概に全てがそうだと言い切ることもできないわ。みんな、そういうハンディキャップを他の方法で埋めてくるからね。もちろん、プールで練習できている私が他の人よりも有利だなんて思ってないわよ」


「奥深いですね、水泳の世界は」


「何も、水泳に限った話ではないわよ」


 僕が感心するように言うと、先輩は肩をすくめながらそんなことを言う。


「何の世界でもそうよ。自分の持っていないものを求めてもその時間が無駄になるだけ。だって、どれだけ願っても、それは手に入らないんだもん。だから、自分の持っているもので勝負するの。足りないものは他のものでカバーして、ね」


 それは経験者の言葉だ。


 同時に、成功者の言葉でもある。

 僕と先輩とでは生きる世界が違う。


 そんなことは今までもずっと感じていたことだ。彼女はまるで雲の上の人のような存在で、手を伸ばしても届かなくて、ただ見上げていることしかできない。


 そんな先輩とこうして話せていることが嬉しいと思う。


「鳴海くんは部活とか入ってないんだっけ?」


「ええ」


「中学生の時は?」


「……一応、入ってはいました」


 僕は少しだけ言葉を濁した。

 そんな言い方をすれば更に聞かれることは分かっていたけど、かと言って他に何とも言いようがなかった。嘘をつこうとすると顔に出てしまうだろうし。


「何部に入っていたか、聞いてもいいのかな? それとも、話したくない?」


 僕に気を遣ってくれた先輩にかぶりを振った。そんな言い方をされるとこちらも隠そうにも隠せない。


「バスケ部です」


「何か、意外だね。こう言っちゃ何だけど、体育会系っていうイメージはまるでなかったわ」


 一見、失礼なことを言われているように思えるが、僕はそうは思わなかった。だって事実だから。見た感じひょろひょろとしていて、押せば倒れてしまいそうなくらい細い。


 もしかしたら先輩に腕相撲で負けてしまうかもしれない。

 だから、その言葉で傷つくとかはなかった。


「よく言われます。見ての通り運動とか苦手で敬遠していたから、父にスポーツやってこいって言われて、なかば強制的に入ったんです」


「嫌々やっていたってこと?」


「あー、いや、そうでもない、ですかね」


 最初は確かに嫌だった。

 ひたすら走らされて、倒れ込むくらいに疲れて、それでも休ませてもらえない。そんな部活動を僕は憂鬱に感じていた。


 でも、辞めようとは思わなかったな。

 それはつまり、嫌ではなくなったということなのかもしれない。


「なんか、いつの間にかそれが当たり前になっていたので行くこと自体は嫌とかはなかったですかね。友達もいたし、練習を休むこともなかったですよ?」


「でも、高校ではやらなかったのね?」


 僕は先輩の言葉に、すぐに返事ができなかった。

 そう言われるだろうと思っていたから。


 中学でバスケをしていて、最後まで辞めずに頑張ったのなら高校でも入部することは不思議なことではない。むしろ続けない方がおかしいと思われる。


「まあ、そうですね」


「怪我、とか?」


 僕は首を横に振る。

 そういう理由ならばドラマチックで感動的なエピソードが生まれていたかもしれないが、実際にそんなことはなかった。


「ただ、単純に上手くなかったってだけですよ。最後まで続けたと言ってもレギュラーにもなれなかった下手くそでしたし」


 三年間、それなりに頑張った、と思う。

 もちろん本気で取り組んでいた人からすれば僕の努力なんて何てことはなかったのかもしれない。けれど、僕なりに向き合ってきたつもりだ。


 周りの人が僕を抜いて上手くなっていく。下級生にレギュラーを奪われた時は少しショックだったけれど、それだけだった。


 多分、どこか本気ではなかった。

 だから、結果に影響した。


「先輩の言う通りなのかも」


 僕が言うと、先輩は首を傾げる。


「多分、僕はないものばかりをねだっていて、自分の持っているもので勝負しようとしなかったんだと思います」


 三年間続けた部活にさえ、僕は本気になれなかった。

 だったら、何になら本気になれるのだろうか。それを何度も自分に聞いてみるが一向に答えは出ないままだ。


 だからだろうか。

 何かに本気でぶつかっている人を見ると羨ましいと思う。


「だから、神様は応えてくれなかったのかな。本気じゃないって、バレていたんだ」


 あの時、本気で向き合っていれば、あるいは未来は変わっていただろうか。

 そんな在りもしない未来を想像してしまう。


 いくら考えたって無駄なことなのに。


「そうだ」


 僕は思いついたようにわざとらしく声を出す。何だか語ってしまったことが急に恥ずかしくなってきたのだ。


「退院したら、先輩の練習風景見に行ってもいいですか?」


「え、なんで?」


 素で驚かれた。

 ああ、僕と先輩の関係ってこの病院内で完結してしまうのかな? ちょっと調子乗ってしまっただろうか。


「あ、いや、頑張ってる人って応援したくなるっていうか、練習してる先輩見てみたいなあってふと思っただけなんですけど」


 これだと水着姿見たいだけの変態みたいに思われるだろうか。いや、大丈夫だ、この紳士的な気持ちはきっと伝わる。


「まあ、いいけど。別に面白いものでもないと思うわよ?」


「ありがとうございます」


 その日、先輩が帰った後、自分に陶酔して語ってしまったことを恥じて僕は悶えた。足がベルトに乗っていて動かせないのでベッドの上で暴れられなかったのが残念だった。

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