第6話 風ならん②

 ぎゅんっ、と空気を切り裂いて時速300キロの石が突き進む。


 尋常ならざる速度の石が侍の左の大袖おおそでに激突し、その肩を粉々に消し飛ばした。しかし侍は動じることなく右半身に構える。霊的な性質を帯びない攻撃は、物理的な障害にはなり得ても、本質的に神には届かないのだ。粉砕されたはずの大袖や肩はすでに復元が始まっている。


 無論、長戸ながともわかっている。投石と同時に彼は駆け出し、その体を刀の的に懸けようと侍の前に躍り出た。タイミングをずらし、その後ろを文音あやねが追う。


(ミスったら顔面百足ミスったら顔面百足ミスったら顔面百足)


 泣きそうになりながらも、猫の靭やかで瞬発力に富んだ肉体が躍動し、常人ではとても出すことのできないスピードで駆けていく。


 侍はどうしようか一瞬迷ったが、まず目の前の男を水平に撫で切って、その返す刃で女を切ると決心した。疫病の神にかかればまな板の上の野菜を切るように容易いことだった。


 凶刃が長戸の右胴を目掛けて光った。まさに瞬きの間に肉とその命を絶つ斬撃だった。侍の生きた時代であれば、放った一太刀は戦いを終わらせるに十分なものだった。


 しかし今この瞬間、侍の周囲では様々な情報が視覚的に折り重なり、現実を彩っている。長戸は投石後、侍が見せた初太刀を疑似現実トロメアに解析させていた。その刀身の速度、軌道を再現し、斬撃を止め得る動きを生体伝導を利用してアーマーにトレースする。


 結果、侍の放った片手一文字斬りは長戸の真剣白刃取りによってその光りを失った。長戸にとって初太刀と同様、二の太刀も左腰から似た軌道を描いて繰り出されたことが奏功した。


「……むっ」侮っていた相手に完全に攻撃を防がれ、侍は明らかに虚をつかれた。そのせいで次の判断を誤ることになる。すぐに刀を捨て、脇差しを抜いていたら長戸と文音を切り捨てることができたかもしれない。しかし、焦りと過信で手にしている刀に執着してしまった。長戸の手を振り払おうとするが、万力で挟まれたように刀が動かない。


(こやつっ)


 前蹴りを放って男を刀から引き剥がそうとした次の瞬間、その背から女が飛び出た。


(なにっ?)


 侍は愕然とした。女はただ姿を現しただけではない。文字どおり飛び出てきたのだ。男の頭上を越え、雑木を越え、その身ひとつで空を掴むように。猫は助走なしで、自分の体長の5倍の高さを跳躍できるほどジャンプ力に優れている。これを助走をつけたリュカオンの文音が行なったのだ。侍はただただ天を仰ぎ、自分の遥か後方に着地する文音の背中を見守ることしかできなかった。


 どんどん遠ざかる女の背中。あっと言う間に車まで辿り着いた。ここに至ってようやく侍は刀を手放し、そのあとを追おうとした。しかしそれをやすやすと許す長戸ではない。まだウイルスの影響を強く受けながらも侍の右腕を、そして復元された左腕をがしっと掴んだ。無論、アーマーで強化された握力は並のものではない。


 力では長戸に分があることを認めた侍は、外れんばかりに下顎骨を広げた。口内で気味悪く蠢く虫たちがあらわになり、その合間から深い紫色の瘴気が溢れ出て長戸の顔を覆った。


(……これは俺の忍耐を試す、神のミストだ)


 長戸はそう思うことに決め、独り我慢大会をおっ始めた。キツさと眩暈で力が抜けそうになる度に、歯を食いしばって己に喝を入れる。絶えず吹きつけられるゴッドブレス。異常な体調のせいでハイになったのか、それを嬉々として顔面で受け止めるアブナイ男。そんなマゾっ気に満ち満ちた孤独な戦場に文音は急ぐ。


 車の助手席から刃渡り20センチほどのダガーを2本取り出した。2本とも紺鼠あいねず色の両刃に小ぶりのつば柄頭つかがしらには猛禽類と思われる鳥の頭部の意匠があり、対の武器のようだ。


「貪る豊穣の四息しそく


 文音がツインダガーに囁くと、柔らかな声色に応えるように静かに発光した。それはこのタリスマンの名、神の残骸を呼び起こす符号だった。タリスマンからもれる薄明るい青磁色の光に促され、文音は軽やかにツインダガーを逆手に構えた。侍を見据えて駆け出しながら、悠久の力を導くために詠唱する。


「這う咆哮 奪い 沈め 与える者」呪文にあわせて長い髪や猫耳がはためき出し、体は幾筋もの風を纏っていく。


「理を放し 戦塵を散らせ、人修羅ひとしゅら」文音を猛る大気のうねりが取り巻き、体は重力を忘れたように弾む。地面を蹴る度に文音は宙を滑空し、ぎゅんぎゅん侍に迫った。


 あとひと跳びすれば侍の背中に届くというところで、文音は強く蹴り上がり、空中で斜めに回転した。遠心力に風の力を巻き込み、その奔流をツインダガーに集約していく。激しい動きの中で文音は巧みに、そして素早くジンを操った。


 尖鋭の風を帯びたダガーは岩をも切り裂く修羅の矛だ。侍がどうにか長戸を引き剥がし、背後の文音を振り向いたときにはすでに致命的な状況だった。


 文音は空中から落ちざま、回転しつつ左のダガーで斬りつける。風の刃は豆腐でも切るように、侍の右肩から左腰にかけて鎧もろとも骨を断った。


「ぐぅっ」


 侍の切り離された右上半身が乾いた音を立てて地に落ちた。続いて残された体も同じ経過を辿り、侍はそのまま沈黙した。不意をついたとはいえ呆気ないものだった。


 鎧の中ではまだ虫が蠢いている気配がある。文音は侍の体を避けつつ長戸に駆け寄った。瘴気をたらふく浴びて白目をむいている長戸は、それでもなお両足で踏ん張り弁慶よろしく立ち続けている。


「長戸さん! 大丈夫ですか? 私、侍倒しました!」


 文音が慎重に長戸の肩をゆすると、その声が届いたのか、膝から崩れ、文音の肩にうなだれ倒れた。ここまで我が身を犠牲にしながら、自分のために神を引きつけていてくれた。


(私もいつか後輩ができたら長戸さんのように体を張って助けてあげることをここに誓います!)文音はつい涙目になった。


「……と、とにかく車に運びますね」

 準備のいい長戸のことだ。車に戻れば救急用の薬かなにかあるかもしれない。文音は長戸の体をそっと抱くと、自分の体と一緒に風で包んだ。


 いざ跳ぼうとして足を踏ん張ったそのとき、グロテスクな色をした波が足元を過ぎていく。


「きゃーーーっ!」


 文音は足元を見ずとも猫の鋭敏な感覚でもってそれを察した。そして目を向けることを本能的に拒否した。ぬらめく波は侍の体を中心に流れ出てくる無数の虫だったのだ。先輩への感傷なんてなんのその、今度は文音が白目をむく。


(……勝った気でいたか、化け猫め!)


 地に転がされてなお、侍の洞の双眸は爛々と光っていた。鎧や骨の合間から湧き出る虫たちは地面を縦横無尽に這いながら文音たちを取り囲んでいく。


「…………っ!」


 魔術の効力はいきている。ジャンプさえすれば風の力でこの地獄から抜け出せるのだが、文音の思考は完全に停止していた。それどころか口の端からはカニよろしく泡を吹いている。


 虫たちはなにかの規律に則って大地に陣を描き出すと、動き回るのをやめた。どの虫からも不穏な黒紫色のジンが漏れ出ている。


(無様だな化け猫! 我が友を奪ったこと、死んで詫びるがよい!)


 侍は知っていた。【跫音きょうおんの狼】が倒れたあの場に、猫のリュカオンがいたことを。それが文音だったかどうかは今や彼には関係ない。


 虫たちの発するジンがこれ以上ないほど膨れ上がった。虫の身体を楔にして最大出力の負のジンを地から天へ解き放つ、この疫災の神が誇る極技である。


 が、突如としてそのジンが消え失せた。


(なんだと!)まるで蝋燭の火が吹き消されるようだった。(こ、小娘が!)侍は地面に転がされたまま、文音を呪わんと睨みつけた。しかし文音は立ったまま失神しており、侍の魔術をどうこうできるような状態とはとても思えない。


(……なぜだ)侍は戸惑いながらも、ふと初太刀のことを思い出した。長戸は自分を止めるほどの働きをしたが、明らかに顔色は悪く、術の影響を見て取れた。しかし文音は虫にギャーコラ騒いだものの初太刀の効果をまったく感じさせなかった。(……もしや)ここでひとつの可能性に思い至った。(我らが系譜に連なる者……? いやしかし……)


 侍は昔、平家という武家の一門に生まれた。大きな戦に破れ、この地に落ち武者として同胞たちとくだり、落ち武者狩りで命を落とした。そして死後に祟神たたりがみとなって白狩背しらかせに飢饉や疫病をもたらしたのだ。そうした平家の落ち武者たちは日本の各地に散らばり、ひっそり暮らした者もいれば、白狩背でそうであったように無惨に死んだ者もいた。


 白狩背の民はどうにか祟りを鎮めようと侍たちの遺体を丁重に弔った。それ以後、侍たちの怨念は1つの体に収束し、疫病を退ける神へと転じたのだった。


(……確かめようもないことだ。………時間も、もう)


 たった今、持てる力を振り絞って放とうとした術は霧消した。文音の正体はどうであれ、これ以上戦う力が残っていないことは紛れもない事実だった。


(……風太ふうた……風太)


 神となってからは存外楽しい日々だった。子らと、それらの健康を願って自分を祀る親々に囲まれ、自然の歳時記に身を委ねる穏やかな営みは、人間であった頃の恨みや悔恨を消し去るには充分すぎた。


 侍はこの集落最後の子供、爆発頭の青瓢箪を想った。どうか忘れないで、親以外にお前の健やかならんことをこんなにも願った者がいたことを。禍々しくも慈しみに満ちたジンが風に舞ったあと、侍の倒れた地には深紫ふかむらさきの刀が横たわっていた。

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