第5話 風ならん①

「…………」

 骸骨の攻撃に晒され、なにかを覚悟してきつく瞼を閉じた文音あやねだったが、まるでその体に触れることを拒むように靄はかき消えた。


「……なんともない」

 長戸ながとも確かめるように恐る恐る自分の体を触れて、異常がないことに驚き安堵する。とは言え、驚異が去ったわけではない。侍は刀を携えたまま車の影から姿を現した。


「くそっ。白狩背しらかせの神性トークンと事を荒立てたくはないが、仕方ない」

 長戸は苦々しい顔でデバイスを操作し、素早くアプリを起動させた。長戸の着ている黒い服がみしみしと音を立てながら膨張していく。服に仕込まれているナノラバーで編まれた人工筋肉が、体の機能を補完し、強化する最適なフォームに変化しているのだ。


 疑似現実トロメアには侍との距離が50メートルと表示されている。幸い侍の歩みは遅く、態勢を整えるには十分な距離だった。


「念のため着てきて正解だった。三虎みとら、お前実戦は初だな」

 長戸は後ろで顔を青くしている文音に、「立て」と促す。

「研修の実技試験、ダントツトップでクリアした実力を見せてもらうぞ」

「わわ、わたし、虫だけはほんと無理で。ななな長戸さん、頼みます」

 立ち上がったものの、三虎は情けない顔で手をぷらぷらさせた。

「それにタリスマン、車の中です」

「なに!」


 思わず長戸は文音を振り返る。ナノンの長戸にはタリスマンを扱うことができない。侍を退けるには三虎の力が必要不可欠なのだ。


「仕方ないじゃないですか! 目の前で百足とかうじゃうじゃ見せられて、もうほんと死にそうだったんですよ!」


 長戸は何かを発しかけてやめた。かく言う長戸もアーマー以外はすべて車内に残してきてしまった。とにかく今できることをしなければならない。そう自分に言い聞かせ、歩を進める侍に向き直ったそのとき。突然体を悪寒が襲い、関節が軋むように痛み出した。


「ぐうっ」

 たまらず片膝をついた。頭がくらくらし、爆ぜるように痛い。


「な、長戸さんっ?」文音が不安そうに長戸の背中に手を添える。「どうしたんですか?」


 文音の呼びかけに応える余裕はなく、このまま地面に寝転んでしまいたくなるような倦怠感と戦う。長戸はどうにか自身の生体データをモニタリングしている生体デバイスの情報をトロメアに投射させた。体温は40度以上で脈拍も早く、咽頭の炎症も確認した。ナノンはみんな、体に極薄の生体デバイスを埋め込んで、自身の生体データをリアルタイムで計測しているのだ。


「……インフルエンザ、だと」


 長戸はトロメアに表示された単語を見て愕然とした。体内のチェインは、人体に悪影響を及ぼすあらゆる細菌やウイルスから宿主を守ってくれる。だから長戸は本来なら風邪ひとつ引くはずないのだ。


 滅多に風邪を引かない人が微熱で体を動かせいほど苦しむように、長戸にとって人生初の病気――しかもインフルエンザは重篤な症状だった。


(なぜ、俺が……。それにこれほどきついとは)

「だ、大丈夫ですか?」

 かがんで心配そうにこちらの顔をのぞいている文音に、特に変わった様子はない。

「……お前は、どうも……ないのか?」悪寒で口元が震える。

「ど、どうもないですけど」

「……どうやら、インフルエンザにかかったらしい」


 しゃべるのも億劫だが、どうにか自分の現状を伝えた。トロメアの表示では、体内ウイルス数が100万を優に超えている。


「え、ナノンなのにですか」おろおろしながら文音が早口で言った。「しかも夏にインフルって」その目は慌ただしく長戸と侍の間を行ったり来たりしている。


 お前も立派なレイシストだ、と罵ってやりたかったが、長戸はぐっとこらえた。後輩は(自分もだが)追い詰められて錯乱しているのだ。ただそれだけのこと。罵る力があるのなら、この状況を打破することに全力を注ぐべきだ。


「おそらくさっきの侍の攻撃が原因だろう。お前がなんともないのは不可解だが……よかった」


 一度、深く息を吐く。


「いいか、よく聞け。とにかくお前のタリスマンが必要だ。俺があのトークンに突っ込んで注意を引くから、その隙に車まで走れ」

「ええええ、無理ですよぉ。あんな顔面虫だらけのやつに近づくなんて絶対嫌です! それに私を狙ってるみたいだし……」


 涙目でだだをこねる文音に、ついに長戸の中でなにかが弾けた。思えば朝から文音のせいで感情を振り回されっぱなしだ。寝坊で遅刻してはらはらさせられるわ、レイシスト呼ばわりされ不要な葛藤を強いられるわ、あげく敵対したのに社会人らしからぬわがままを言い、職務を放棄しようとする。誰がキレる長戸を責められよう。長戸の口から呪いの言霊が朗々と繰り出される。


「あのトークンは先に弱った俺を殺すだろう。その次がお前だ。まずあの刀でお前の手足を切り刻む。逃げられないようにな。それからどうすると思う? お前の体に百足やなめくじ、ゴキブリ、とにかくあらゆる虫という虫を這わせるだろう。体中をやつらが我が物顔で徘徊する、きっとこの世のものとは思えない悍ましさだろうな。……だが、やつらは這うだけかな? いいや、違う。体表を埋め尽くした虫どもは、今度はお前の体をついばみ出す。皮膚を破り肉をかじり、骨を削り散らすだろう。それに目、耳、口、体の些細な隙間からお前の体内を犯していく。お前は激痛と恐怖と最悪な気持ちに絡め取られて死ぬんだ」


 長戸は脅した。苛立ちと義務感を燃料に、舌の回る限り文音を脅した。


「いいか……きっとそうなる。きっとだ」ぜえぜえと肩で息をし脂汗を浮かべながら、長戸は呪言を放ち終えた。


「あ、あうぅ」文音は長戸に誘われるまま悪夢を想像してしまい、口をパクパクさせている。

「それが嫌なら、お前のなすべきことをなせ。言ってみろ、お前のミッションはなんだ」

「く、車のタリスマンを取りに行って、あの侍をやっつけることですぅ」文音は顔面蒼白の涙目で、しかしはっきりと課せられた仕事を口にした。


 長戸はトロメアのウイルス数をちらと見遣る。先程は100万を超えていたウイルスが、その数をみるみる減らしている。チェインが早速その任務を遂行してくれているらしい。


「よし。大丈夫だ、お前ならできる」


 文音の肩をぽんと叩き、「行くぞ!」長戸は振り絞る力で立ち上がった。手には拳大の石を握っている。侍との距離は20メートルを切っていた。


(人類史上、個人が放つ最大出力の投石だ)

 鉛のように重たい体を叱咤して、野球の投手よろしく振りかぶって片足をあげる。脳が発する電気信号が脊髄を駆け巡るのと同時に、生体伝導――体内の塩分を伝導して人工筋肉のアーマーにもその信号が伝わり、スムーズに体の動きを追随する。渾身の力を込め、ナノラバー仕込みの剛速球を侍目掛けて投げ込んだ。

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