第35話 闇の静けさ

「恒興、桜の話は本物だ」池田恒興は

目を上げて信長を見つめた。

「しかし、あまりにも信じ難い話です。

確たる証拠もありません」


信長は立ち上がり、上から恒興に目を向けた。


「我が父は今川家の武将である庵原将監と

相討ちで死んだ。最初にその報せを受けた時

は正直、意味が解らなかった。武で言えば

父のほうが遥かに勝る。それに引き換え、

庵原将監は忠義のある者だという事は

分かっているが、話を聞けば兵士たちも

大勢殺されたと言うではないか。

どんなに忠義にあつくても、

弱者は負ける。それが戦の本分だ。

丹羽長秀の話はどう考えてもおかしな話だ。

少なくとも庵原将監如きに全軍撤退などする

ような戦はせん。

親父殿の戦はいつも決まって先陣をきったり

殿しんがりをするような無茶をする男の

戦いをこれまでしてきた……」


「ではいかがなさいますか?」

「桜と蒼紫は命を狙われた。つまりは真実だ。

兵士を増やしても意味は無い。夜叉忍の話は

我が耳にも届いている。

警護には蜂須賀正勝を付ける。奴なら野武士

を使って上手く手を打つはずだ。

他はひとまず予定通りいくが、油断するな」


信長は桜を見た後、蒼紫の顏を見た。

「真田蒼紫、最初の任務だが、事がこと

だけに、今はまだ極秘扱いにする。

よいか、桜を命懸けで守れ」


「はッ! 分かりましてございまする!」


桜は真田蒼紫の本来の姿を見て、

心から安堵した様子を見せていた。

ぬくもりを感じるような、

心という大きな湖に、無風の中で

波紋一つも広がらず、静かな波立たない

森にある水面のように、穢れの無い心を

感じ取れた。


信長はそれを感じ取り、真田蒼紫は

信頼のおける人物だと安心はしたが、

全てが本当の事ならば、一抹の不安が

消える事は無かった。


「では恒興、後は任せたぞ。正勝にはこちら

から極秘任務だと伝える」


二人は部屋から恒興と共に屋敷に向かって

出て行った。


「聞いていただろう? 下りて来い」

スーッと足音一つ立てずに男は下りてきた。


「気配を感じられたのですか?」

「あの娘も大したものだが、お前には負ける」


「お前は単独のほうが好みだろう」

「任務によりますが、夜叉忍の数次第になりますね。隠密に処理するなら清州に入られる前に

らなければ厄介な事になるでしょう」


「既に清州に入ったかもしれん。お前の存在は

極秘中の極秘だ。お濃とこの蘭丸だけしか知られてはない。いつも通り裁量はお前に任せるが、桜と蒼紫が危機に瀕したら守れ」


「他はよろしいので? 夜叉忍が清州まで来るとすれば、一個中隊クラスで来ます。蜂須賀一党では恐らく防げません」


信長は暫く考え込み、男に命じた。


「ではお前は蜂須賀一党の一人として

バレぬように手助けせよ」

男はなるほどと、頷いてみせた。

「分かりました」


三人は清州城をあとにして

来た時と同様に蒼紫の後ろには桜が乗り、

池田恒興は単身で先行し、二人に与えられた

屋敷へと向かっていた。


屋敷近くまで来ると、まだ夕暮れ時で、夜の帳が下りてくる前であった。目視で屋敷が見えて着だした頃、恒興は直ぐに異変に気付いた。

屋敷周りを警護しているはずの兵士は一人も

見当たらず、町民たちの姿さえも消えていた。

ただならぬ変事に対して恒興は、蒼紫に手で待つよう伝えると、その場で下馬して屋敷まで駆けた。


屋敷の入口辺りから妙な匂いが鼻をついた。

恒興は懐にある布を鼻に当てると屋敷の入口

入って行った。中庭には町民や兵士たちの姿

が多数あり、手をその者たちの鼻に当てると

息はしていた。直ぐにこの香りは眠り薬だと

分かったが、屋敷全体がその強力な忍の薬で

包まれていた。


この屋敷に先行していた森可成と毛利新介に

声を落として呼びかけたが、真夜中のように

静まり返っていた。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る