第4章 結

 私は気が動転している。まさか、高崎周人から連絡が来るとは思っていなかった。既読は付けないようにそっと内容を見ると


『退院おめでとう。落ち着いたら連絡が欲しい。心配してる』


 と書かれていた。過去のトークを見ようと思った矢先に新着メッセージが来てしまった。とりあえず返信しないことには始まらないと思い返信することにする。


『心配ありがとう。迷惑かけてごめんね。体の方は良くなったけれど、記憶喪失で周人のことも覚えてなくて……。連絡くれたのに申し訳ない……』


 送るとすぐに既読が付いた。そしてさらに返信が来る。


『そうか。辛いときに連絡して悪い。また落ち着いたら会おう。いつなら空いてる?』


 ここにきて、相手がどんな形であれ彼氏であることを思い出す。自殺未遂以前に色々あったものの、確かに関係をはっきりさせる為にも会った方が良いと思い返信する。


『私は何時でも大丈夫。周人の都合の良い日に会おう』

『じゃあ明日の十時に高校前で良いか?』

『うん』


 そこまで送ると、周人はグッドという満面の笑みが特徴的なキャラクターのスタンプを送ってきた。トークはそこで終わった。高校の場所は覚えているので、先生に予定が入ったことを後で伝えれば問題ないだろう。明日までに彼のことを何か思い出せると良いのだが……。とりあえずトーク履歴を見るのが一番早いと思いもう一度周人とのトークを開く。


 トークは日記と同じ、六月七日から始まっていた。はじめは他愛のないことを送り合い、楽しそうな雰囲気があった。よく見ると私の文章はかなり気を使っていて、空元気感が否めないけれど。少し様子が変わったのは七月七日である。付き合って一か月。そして、自殺未遂の十日前。



周人『なあ、俺に何か隠してることない?』


渚沙『いや、特にないけど……。何で?』


周人『噂を聞いたんだ。渚沙は俺の姉貴の一件を気にして俺付き合ってるって』


渚沙『そんなことないよ。噂って大体適当だし』


周人『ならいいけど』


渚沙『うん。心配させてごめんね』



 明らかに不穏な空気が流れている。そして高崎周人は勘が鋭い。恐らくこの段階で彼は気が付いていたのだろう。しかし当の私は彼が気付いていることにまで気が回っていないようだった。自分の本心を隠すので精いっぱいだったのだろう。


 そして自殺未遂当日のトーク。



周人『今日の放課後、時間ある?』


渚沙『あるけどどうして?』


周人『久々にどこか行きたい』


渚沙『いいよ』


周人『行き先、俺が決めていい?』


渚沙『うん。どこにするの?』


周人『それは会ってからのお楽しみということで』


渚沙『了解。楽しみにしてるね』



 次のトークは今日のものだったので、自殺未遂以前のトークはこれで全てだった。

 そして、私と周人の行き先は遺書に書いてあった通りなのだろう。そう考えると、明日周人と会うのは危険かもしれない。早い方が良いと思い、先生に聞く。


「先生、スマホありがとうございました。……高崎周人という、私の彼氏である人から連絡が来て、明日高校の前で会おうと言われたんですが、どうしたらいいでしょうか」

「うーん。私が高校前まで送って、車で待っているよ。もし何かあったら連絡してくれればすぐ行けるし。それでどうかな。それでも怖ければ断ってもいいと思うよ」

「分かりました。明日、十時に待ち合わせなので、その時に送って頂いてもいいですか?」

「勿論だよ。明日は疲れちゃうと思うからもう寝たら?」

「そうします。おやすみなさい」


 今日は今日で色々と感情が動いて疲れてしまったので、先生の言葉に甘えて休むことにした。

 


 翌朝、七時に目が覚めた私は、先生を起こしに先生の部屋をノックした。


「先生、朝です。入ってもいいですか?」


 返事はない。寝ているのだろうか。もう一度ノックしてから恐る恐るドアを開ける。

 先生は寝ていた。先生の顔をよく見てみると、一筋の涙の跡があった。……妹さんのことを思い出してしまったのだろうか。

 よくよく考えてみたら、先生の妹さんと私は共通点がある。名前、漢字、そして自殺日と自殺した時の年齢。私は未遂で終わっているが、この一致は偶然とは言えないものがある。しかしどんな理由があろうと、先生にとってここまで似ているというのは思い出すことも多く、辛いのではないだろうか。先生の為にも早く記憶を取り戻して家に帰れるようにしなければ。


「ん……。あ、渚沙ちゃんおはよう。すっかり寝坊だよ。迷惑かけてすまないね」

「気にしないで下さい。朝食も、先生ほど上手くはないですが作ってみたので良かったら食べてみて下さい」

「ああ、ありがとう。早速朝ご飯にするよ」


 と言って先生は着替えを取り出したので、私は逃げるように先生の部屋から出た。


 とうとう高崎周人と会うのである。もしかしたら本人に会えば何か思い出せるのではないか。そんな淡い期待を抱きながら、私は先生と朝食をとる。


 九時半、私と先生は車に乗って高校に向かった。緊張しすぎて正直あまりこの時のことは覚えていない。


 高校前に、彼はいた。一応車の中で顔は確認しておいたので間違いない。いざ目の前にいると、想像の十倍は緊張する。一歩ずつ彼に近づく度に頭がぐわんぐわんする。気持ち悪い。帰りたい。そんな思いが頭を駆け巡るが、何とか耐えて彼のいる場所に辿り着いた。


「退院おめでとう」


 彼の第一声は、それだった。私は何を言っていいかわからずに曖昧な笑みを浮かべる。


「記憶がないから多分自殺当日のことも覚えてないと思うんだけど……渚沙の自殺、多分俺のせいだ。いや、多分じゃなくて絶対に俺のせいだ。本当にごめん。謝っても謝り切れない……」


 そういって目を伏せる。睫毛長いなと、全く関係のないことばかりが浮かぶ。違う。私が伝えなきゃいけないのはもっと大切なことで……


「違う。周人のせいじゃない。あの日、何があったかは私が書いた遺書で全部知った。確かにあの日会ったのは周人だけど、自殺の決断をしたのは私だし、家族や周人にかかる迷惑を何も考えずに勝手に死のうとした私が悪い。だから……」


 言葉が詰まる。本当にこんな風に思っているのだろうか。心のどこかでは、周人にも責任があると思っているのではないだろうか。しかし思っていたとしてもそんな素振りは見せてはいけない。とにかく彼にこれ以上心配をかけないために。そして、穏便に別れるために。


「……あの日のことは今でも後悔してる。いくら姉貴のことがあったからって、渚沙には何の関係もないのにな。ほんとに俺どうかしてたよ。でも、あの時も、その前も、そして今も、渚沙への思いは変わらない。だからこれからも渚沙と付き合っていたいっていうのが俺の本音。……都合良すぎるよな」


 嘲笑する周人。何と言ったらいいのだろうか。ここに来たのは別れを告げる為でもある。今、自分の本音を隠してまた彼とこの関係を続けていたら、最悪の事態と同時に私の心と体は今度こそ砕け散る。それに、出会った時から感じていた頭痛が、先ほどから酷くなっている。頭がかち割れそうだ。一刻も早く思いを伝えて家に帰りたい。


「……ごめん。周人の気持ちは嬉しいけど、もう応えられない。周人が察した通り、そして噂の通り、私は兄と周人のお姉さんとの一件があったから付き合っていたらしいの。それは私の日記にも遺書にも書いてあった。そんな状態で付き合い続けるのは周人にも申し訳ないし、またすれ違いが起こるかもしれない。

 ……だから、もう終わりにしよう」


 あれだけ言い辛いと思っていたのに、一度口を開くと驚くほどにすらすらと言葉が出てきた。周人は今にも泣きそうな顔をして俯いている。この選択が正しいのか、私にも分からない。でも、前回と同じ選択肢はもう取りたくない。だから、これが正しいと思うしかない。

 周人はしばらく黙り込んでから


「そっか。そうだよな。ごめん。無理なこと言って困らせて。うん。終わりにしよう俺たち。もう帰るわ。わざわざ呼んで悪かった」


 何故か最後はあっけなく受け止めて帰っていった。そんな彼の様子に拍子抜けしつつ違和感も覚えながら先生の車へ向かう。私はそんなことを考えられるほど冷静ではなかった。頭痛が酷くなっていて、倒れる直前という状態だったのである。何とか先生の車に滑り込み家まで寝ることにした。


 目が覚めたらそこは先生の家のベッドだった。起きたらベッドにいる、この光景に既視感を覚えつつ慌てて先生の部屋へ行く。話を聞くと私は車で寝てしまった後、うなされるばかりで全く起きなかったらしい。無理矢理起こすのも悪いと思った先生が私をベッドまで運んでくれたのである。……また先生に迷惑をかけしまった。流石に死のうとまでは思わないようにしているが、申し訳ない気持ちは変わらないので、今日はせめてもの罪滅ぼしで昼食と夕食を作ろう。そんなことを考えていたら、先生がホットミルクを持ってきてくれた。


「体調大丈夫?辛かったよね。何か思い出しちゃったとか?」

「……分かりません。ただ、彼に会った時から頭痛がして、話しているうちにだんだん頭痛が酷くなってしまって、先生の車に乗った時にはもう限界でした」

「そうか……。きっと彼は、渚沙ちゃんにとって記憶のキーパーソンなんだと思う。だから、会うだけで何も思い出さなくても体が拒否反応を示して酷い頭痛を生じる時があるんだ」


 なるほど。そんな題材の映画を見たことがある気がするが、まさか自分が同じ状況になるとは思いも寄らなかった。


「でも、頭痛の中、一つ思い出したことがあるんです。夢なのか、現実なのか定かではありませんが……。高崎周人には兄もいるんです。三十歳の。名前は、高崎慶太です」


 先生の顔色がみるみるうちに変わっていく。正直先生に伝えるべきか迷った。しかし、名前といい自殺の日といい、先生の妹の渚沙ちゃんと私は何かある気がする。それを聞くためにもこのことはやはり伝えなければならなかった。


「……そうだね。確かに君の彼氏だった高崎周人には渚沙のいじめの主犯であった兄の慶太がいる。それに、渚沙ちゃんがこれを伝えたのは多分、私の妹の渚沙と渚沙ちゃんとの関係を知りたかったからだよね」


 鋭い。先生はそこまで気づいていたのだ。気づかれていたならもう何も言うことはないので素直に頷く。先生も観念したと言わんばかりの表情で続けた。


「実は、かおるさん……渚沙ちゃんのお母さんとはずっと前からの知り合いなんだ。医者である馨さんと私の母は、歳は違えど仲が良かった。だから私も馨さんには色々とお世話になっていたんだ。……渚沙ちゃんが生まれたのは、渚沙の自殺から二か月経った時だった。馨さんは渚沙の自殺直後、私にこう尋ねたんだ。『自分の娘に渚沙とつけてもいいか』とね。私も驚いたよ。馨さんがまさかそんなことを考えてくれていたのかってね。それは申し訳ないと断ったんだが馨さんは渚沙とつけると聞かなくてね。私も素直に有難いと思って賛同したんだ。……渚沙ちゃんの名前の由来はそんな感じだよ」


 そういえば、そんな話を以前母から聞いたことがあるかもしれない。その時の私にはあまり理解出来なかったが、今になってやっと分かった。それに、何故父と母が三十三歳の男の家に泊まることを許可したのかも、先生が最初、私を知っているかのような発言をしたのかも分かった。しかし、先生は私のお母さんとも仲が良かったのに、何故会うのは初めてなのだろう。


「先生、どうして先生と私のお母さんは仲が良かったのに、会うのは初めてなんでしょうか」


 先生は寂しげな表情で言った。


「渚沙ちゃんが生まれた時、一度だけ会ったことがあるんだ。でも、私はまだ幼稚だった。渚沙ちゃんが渚沙の生まれ変わりのように見えてしまって、辛かったんだ。だから、無意識のうちに渚沙ちゃんを、藤堂家を避けるようになってしまったんだ。本当に、申し訳ない限りだ」

「そんな、謝らないでください。先生の気持ちは痛いほどよく分かります。そんな状況の中なら誰だって会いたいとは思えませんよ」

「渚沙ちゃんは本当に優しいね。私はその優しさに何度も救われているよ。……渚沙に似ているんだ。君に渚沙を投影するのはよくないと分かってはいるのに、どうしても渚沙ちゃんから渚沙を見てしまうんだ」


 段々思い出してきた。自分の名前の由来を母から聞いたこと。その時は何も理解できなかったこと。そのことを話す母の顔が辛そうだったこと。他にも兄があの一件を起こした日のことや、自殺当日のことまで。


 記憶が戻った。ずっと自分がナギサのままで止まっていた。でもやっと渚沙を取り戻せた。これで、また元の生活に戻れる。


 ピコン。


 そう思った矢先に、私の携帯から通知音が鳴り響く。……誰からの連絡だろうか。何だか嫌な予感がする。


恐る恐る通知の内容を見た私は、自分でも血の気が引いていくのが分かった。通知の相手は、お母さんだった。


『優輝が誰かに後ろから鈍器のようなもので殴られて心肺停止。今救急車に乗って病院に向かってる。住所を送るので柊夜君と一緒に来て』


 嫌な予感が当たってしまった。優兄ちゃんが心肺停止。何で?誰が優兄ちゃんを殴ったの?通り魔?倒れそうになる体をすんでのところで立て直し、先生に通知の内容を嗚咽交じりに伝える。先生は何も言わずに、でも素早く車を出してお母さんが指し示す病院に向かった。


 車に乗っている間、酷く眩暈めまいがした。頭痛とまではいかないものの、目の前がずっと回っているような感覚に陥っている。しかし自分のことを心配している場合ではない。何とかこらえながら病院へ辿り着くのを待つ。


 神様、もう他に望むものはありません。ただこれだけ、叶えてほしいのです。


 優兄ちゃんを助けてください。



 病院に着いたのは、連絡が来てから三十分後だった。私と先生は急いで優兄ちゃんのいる病室に向かう。

 勢いよくドアを開けた先には、異様なまでに静かな家族たちが待っていた。私は、全てを察した。


 優兄ちゃんは、助からなかった。


 覚束ない足をぎゅっと踏みしめて、優兄ちゃんが眠るベッドへ向かう。たった数歩の距離なのに、永遠と続く砂漠を歩いているような、酷く長い距離に感じる。


 優兄ちゃんは静かに眠っていた。笑っているようにも見えた。しかし頭部には鮮烈な赤色が走っている。その傷が、事の重大さを示していた。家族全員との再会が、こんな形になってしまうなんて。悲しさを通り越して絶望を感じる。一寸先は闇。私の人生はこの言葉に集約されてしまった気がする。


「馨さん。優輝君、本当に、本当に……。私、悔しくて涙が……」


 先生は泣いていた。まるで自分の家族の死に直面した時のように。きっと先生は、私たち家族の痛みと悲しみがよく分かるのだろう。分かりすぎて辛いのだと思う。


「……犯人は、分かったんですか?」


 先生は静かに、しかし怒気のこもった声でこう続けた。そこで私ははっとした。優兄ちゃんは殺された。その事実が、今私の中ではっきりと刻まれてしまった。誰が、誰が優兄ちゃんを……


「すみません。……犯人が、分かりました」


 そう言って病室に入ってきたのは警察だった。人が一人死んだという病室にノックもせず入るとは何て非常識な、と思ったが犯人が分かったというならば仕方がない。しかしいざ犯人が分かるとなると緊張する。気になるが、知るのも同じくらい怖かった。


「犯人の名前は高崎周人という中学三年生です。彼には優輝さんに殺意があったようで、動機としましては……」


 それ以上、聞かなくても分かった。


 何も聞こえない。何も見えない。吐き気が襲ってくる。周人が優兄ちゃんを殺した?それはつまり、私が優兄ちゃんを殺したということになる。私が優兄ちゃんを殺した。私が、私が……。


 何度もえずきそうになりながら思考を整理しようとする。いや、もう整理する必要はない。私が殺したのだから。直接手を下したのは私ではない。しかし動機は……


 何かがガラガラと崩れ落ちる音がした。私があの日、彼を拒んでいなければ。私があの日、自殺を完遂させていたら。私が今日、周人と別れなければ。優兄ちゃんは死ななかったのかな。




 ……あれ、優兄ちゃんって、誰だっけ。周人って、誰?遠くで渚沙ちゃんって呼ぶ声がする。渚沙って、誰?渚沙、なぎさ、ナギサ……。

 














ああ、渚沙が消えちゃった。

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ナギサと渚沙 花宮零 @hanamiyarei

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