第10話 それはすべての夜じゃなくて

 土曜の夜だった。一段落した仕事が作った時間の断層に落ち込んで、ゆうはぼんやりと机に向かい、片手で小さなうさぎをもてあそんでいた。乱雑な部屋に幻滅されたのかと勘ぐって滑稽な大掃除をしたとき、唯一残した古いぬいぐるみである。柔らかな胴を握り締めると、一週間前この部屋でなされたことの鮮烈な残像がひらめいて、うさぎは自分と重なり、体が淫らに熱くなった。

 衝動買いみたいに、ふたりで住むアパートを契約し、来年二月の引っ越しが決まった。祥一はダンボール二個ぶんの荷物を送ってきて、東京にいるときにはそっちに帰るよ、と約束してくれた。

 あまりに速い変化と、それを躊躇なく受け入れさせている激しい恋心に戸惑っている。

 宝物だった一人暮らしを捨てて引っ越す日が待ち遠しい。大嫌いな電話を毎日待っている。彼に面影が似たサッカー選手のせいで、テレビにかじりついてサッカー中継を見てしまう。明日、四日ぶりに彼に会えると思うと無様ぶざまなほど心が騒ぐ。

「同棲?あの、床屋ウォッチャーと!?」

 昨日、父親から電話があって、彼のことを聞かれたのを幸いに二人の関係をかいつまんで告白した。

「俺もよさそうな男だとは思ったよ。だけどなあ。同棲ってのは試してだめなら別れるってことだろ。おまえが、そんな器用なことできるのかって、心配なんだ」

 反対されるよりも、よほど堪えた。一週間前、電話が無いだけで彼の心を邪推し、喪失という恐怖に苦しんだ。夜遅くやってきた彼を家に迎え入れながら、これが最後ならもう苦しまなくていいのだと、小さな安堵に逃げようとしていた。

 誤解は解け、次の一歩を踏み出した今も、ふたりの片割れになることが怖くてたまらない。

「いくじなし」

 無垢な顔をしたうさぎに、静かな声でののしった。


 インターホンの甲高い音が、光溢れる高級マンションのリビングに響きわたった。ゆうはフローリングにスリッパを弾ませながら玄関へと向かった。関口と北林が楽しそうに後ろをついてくる。ふたりはもう籍を入れ、関口がこの北林のマンションに通い夫をしている状態なのだ。長男である彼がマンション持ちの年上女房の家にころがりこむのを家族が理解するには、十年かかりそうだと冗談交じりにこぼしていた。

「遅くなってごめん」

 豪奢な金属ドアの向こうに、スーツ姿の祥一がいつもの工具バックを下げて立っていた。目で優しく愛撫され、体を投げ出したいのをがまんしていると、突然目の前が暗くなって、覚えたての感触が唇にやってきた。

 キス……した?祥一君が?ひとまえで?

「はじめまして。佐野と申します。今日は、お邪魔いたします」

 祥一は悪びれもせず背後の二人に挨拶した。二人はゆうの狼狽ぶりに笑いをかみ殺している。抗議に頬をふくらませて睨むと、祥一はいたずらな瞳で微かに笑った。


 日曜日の今日、四人は関口の快気祝いという名目で北林のマンションに集まった。昨日まで九州にいた祥一は、朝、羽田から直接ここに来たのである。

「佐野さんはずいぶんお忙しいとか」

 昼少し前から席につき、雑談を始めた。関口に話しかけられて初めて、祥一はゆうから視線を離した。初対面の他人の家に招かれているというのに、憎らしいほど泰然として恋人を見つめているだけの男を、関口と北林はさりげなく観察している。

「…俺、サービス部門のリーダー職なもので」

「どうしてそんなに若くて、リーダーになったの?部下は何人いるの?他の人も若いのかしら」

 北林が遠慮なく聞く。

「前の上司が辞めたときに、たまたま後任に指名してもらって。それにこの業種は新しいんで、年功序列があまり無いんです。部門には俺を含めて十二人います」

「十二人!そりゃ忙しいはずだ」

 関口が感嘆の声を上げた。

「俺は口下手で管理職なんて柄じゃない。ただ、十二人の情報が集まってきて、それを捌いて仕事を片付けていくのは面白いものです。いろいろやりたいこともあって、たぶん、今のチームを納得のいく形にするには十年かかるだろうと思っています」

 ずっと無口だった祥一が淀みなく情熱をこめて語るのに、関口も北林も娘を嫁にやる親みたいな顔になって、ゆうに、合格の目配せをした。この快気祝いの本当の目的は二人がゆうの同棲相手を検分することだったのである。勝手に合格を出されても困るんだってば。ゆうは嬉しさ半分、当惑半分で、あいまいに微笑んだ。


 午後三時過ぎ、片付けを終えて北林のマンションを出た。駅へと続く大通りの街路樹にはクリスマスを前に電飾が施されている。平日のクリスマスの夜に祥一が東京にいるわけないな、などと考えていると、隣で彼が「あっ」とのどを鳴らした。

「どうしたの?」

「みやげの明太子、買ってきたのに渡すの忘れた」

 肩を落としている祥一がかわいらしくて、お腹の底がむずむずした。本当は彼も緊張していたのかもしれない。

「ふふ、じゃあうちで食べましょうよ。明日の朝ごはんかな。それとも明太子スパゲッティでも作ろっか?」

「うん……」

 そんなに落ち込まなくていいのに。ゆうは小首をかしげて苦笑いした。

「今日は疲れてるのに、わざわざ来てもらってごめんね。おうちに帰ってゆっくり休みたかったんじゃない?」

「うち?ゆうちゃんの?」

 ゆうの顔をちらりと見て、咳払いをした。

「え?うちでも…… ううん、うちのほうが嬉しいんだけど…… 祥一君は自分のマンションでひとりでのんびりしたいって、思わないの?」

「いや」

 続きがありそうなニュアンスだったのに、いくら待っても何も言わない。

 昔の自分と同じように何もかも胸にしまっておく人なのかな、と思う。ゆうとて今だに話好きとは程遠く、祥一の静けさに心地よさを感じこそすれ、饒舌でいてほしいとは思わない。けれど言葉の不足は誤解を生み、ふたりをつらくすると、思い知ったばかりである。

「私と一緒にいるほうが、のんびりできるって、思ってくれてるの?」

 うがった言い分なのに、祥一は本心を隠せてほっとした、というように頷いた。

「でも、本当は私がさびしがるから、無理してるのでしょ」

 今度は目をまんまるにして、「まさか」とつぶやいた。

「じゃあ」

 私のこと、抱きたいから?さすがに、はしたない言い草だと、口をつぐんだ。自分が他人からこんなふうに畳みかけられた時の辟易へきえきを思い出しもする。愛し合っているってわかっている。どうしてそれだけじゃ不安なの?

 目を上げ、愛しさにあふれた瞳に出会い、どきりとしてまばたきすると、祥一は目を前へそらし、ゆうはそのまま横顔を見つめ続けた。

 好き。

 女々しさのかけらもない厳しい顔つきも。ごつごつした鼻筋も、少し大きめで、でも、めったに活躍しない強情な唇も。飾り気無く、恥ずかしがりながら、戸惑いながら、なんの妥協もしないで私に恋してくれている人。

「俺は毎日ゆうちゃんの所に帰りたいと思っているよ」

「うん。私も、いつも祥一君が帰ってくる日が待ち遠しい」

 小さな声で交わす言葉が、体を温めた。

 それから何も話さなかった。偶然と必然で絡み合う視線。電車の座席で触れあう半身。一緒にいるだけで心は満たされ、体は満たされようとする。


 ゆうの部屋に着き、祥一がコートを窓の前につるし、部屋が二つの大きな背中に満たされた。電灯のひもに延ばした手を、祥一の左手が受け止めた。彼の右手がゆうのダッフルコートのボタンを手品みたいにするすると外す。

 もしかして、今、しようとしている?まだストーブもつけてないし、お湯も沸かしてないし、お風呂も沸かしてないし……

 コートが足元に落ちて、力強く抱き寄せられた。ああ……そうよ。狂おしいほど待っていたことに気づく。この腕の中に着地するのを。背広と柔らかなワンピースがこすれあう。互いの首筋と、耳元に顔をすりよせ合って、動物みたいに匂いを求める。背伸びをして、しがみついて、体中で彼を感じようとする。

「ただいま……会いたかった」

「うん……」


 次の朝、目覚めると、隣に祥一がいなかった。


 ――今日は始発で京都に行く予定でした。昨日、言えなかった。ゆうちゃんの悲しい顔を見たくなくて。ごめん。起こさずに行きます。たぶん、週末まで帰れません――

 テーブルの上に書き置きがあった。


 涙に紙片が歪んだ。ばかばかばか!昨日言ってくれれば、早起きしてお弁当作ってあげたのに!めんたいこのおにぎり、握ってあげたのに!

 朝ごはんの話をした時、悲しい顔をしたのも、昨日あんなに性急に何度も、ゆうを抱いたのも、祥一だけが今日の朝の出立を知っていたから。祥一だけがひとり身勝手に短い逢瀬を慈しんでいたから。文面を何度も読み返し、もう一度「ばか」とつぶやいた。彼の離れ難い気持ちが伝わってくればくるほど、胸は苦しくなる。

 私に強くなれっていうことなの?こんな置手紙で出て行くって事は、ひとりで受け止めろってことよ。俺に当り散らすな、愚痴を言うな、悲しい顔を見せるな、ってことでしょ。

 今度はだんだん怒りがこみ上げてきて、昼間、祥一の携帯に電話をした。クリーンルームに入っているのだろう、予想通り留守電で、ゆうは大きな声で吹き込んだ。

「祥一君。わたし。お願いがあるの。声を聞くと悲しくなるから、帰る前日まで、電話しないで」

 いつもは臆病なくせに、時々自分でも驚くようなことをしている。東京に飛び出してきたときも、祥一に床屋のふりをしたときも。そんな行動がゆうの人生を一コマずつ前に進めてきたのは事実だ。幸い、これまでは良い方向に。


 けれど、もちろん裏目に出る事だってあるはずなのだ。


 クリスマスの前日、ゆうのアパートに暗いスーツ姿の若い男がやってきて、航空券の入った封筒を差し出した。東京ー台北、往復航空券。

「八千代美津子の使いで来ました。必要なときにはいつでも呼ぶようにと、あなたが言ったからと」

 金属縁眼鏡の奥から思慮深い瞳がゆうをじっとみつめていた。美津子、と言った声音に不思議な優しさを感じて、見つめ返すと、若者は決まり悪そうに眼をそらした。この人は美津子さんの何?詮索の目で見るうちに、渡された携帯電話から、なつかしい声がした。

「平里さん?」

「美津子さん、どうしたの?何かあったの?」

「ううん。大したことじゃないのだけど。こっちのシステムが最後の仕上げにかかっているの。平里さんに見て欲しいっていうのと」

 決心をつけるような沈黙と、明るい作り声が続いた。

「明日はクリスマスでしょう?一日だけでいいから、お友達と過ごしたかったの。今日の夜こっちに来て、あさっての朝帰る…… そこに、航空券があるでしょう。どうかしら。都合、つかない?」

 関口の事件で、もう平里さんに会う資格は無くなったわ、と言った美津子。いつのまにか日本を去っていた美津子。その彼女がまた会いたいと言っている。

 そして旅行!週末、祥一に、私は海外旅行してきたのって言ったら、どんな顔をするだろう。

「行くわ。どうもありがとう!」

 ゆうは答えて、携帯電話を男に返した。男はそれを耳にあてたが、もう切れていたのだろう、黙って胸ポケットにしまった。

「何と言っていましたか?」

「明日は、クリスマスだから友達と過ごしたいのですって。さびしそうだったわ」

 一瞬、若者が歯ぎしりをしたように見えた。苦悩のしみついた顔。彼も美津子と同じように若さを犠牲にして、何かと戦っているのだろうか。

「平里さん。私に、こんなことを言う資格は無い。だが、美津子さんを…お願いします。友人として、力になってあげてください」

 男は、ひとこと、ひとこと、搾り出すように言った。

 

 いったい、何があったの?

 美津子の痩せて、憔悴した、それでいて美しさの増した顔を見て、一瞬、あいさつも忘れた。

 夕刻成田を発つ三時間のフライト。空港でゆうの名のカードを持った運転手にひろわれて、タクシーで一時間半。八千代美津子は台北市にある高い塀で囲まれた屋敷に住んでいた。

「平里さん、こんなところまで来てくださって、ありがとう」

「私こそ、お招きありがとう」

 美津子が静かにゆうの手を握り、その冷たい手をあわてて包み返した。お手伝いの女性が背中でドアを閉め、オートロックらしい鍵の閉まる音が響く。まるで二人をこの殺風景で巨大な屋敷に閉じ込めるみたいに。

「美津子さん、きれいになったわ」

「平里さんこそ」

 美津子は皮肉っぽく口元をゆがめ、「恋をしているのね」と言った。

 ゆうはつい自分の頬をさわりながらも、それはつまり美津子も恋をしているということだ、と思った。航空券を届けにきた男の顔が浮かんだが、その夜は遅かったから何を聞く暇も無く、互いのベッドルームに別れた。

 次の日、美津子のオフィスに通されると、あまりの"らしさ"に笑ってしまった。広大なフロアに、悪の帝王が座るような巨大な机がすえられ、革張りの椅子が向き合っている。机の周りをコンピュータのモニターがずらりと囲み、ケーブルが幾束にもなって机から垂れ下がり、からみあっている。

「ねえ、美津子さん、このお部屋って、必然なの?それとも格好つけなの?」

「ふふ。わかる?マトリックスの基地みたいでしょ」

 美津子は昔のように楽しげに笑い、ゆうを大きな革張り椅子に座らせた。ずらりと並んだインターフェイスにため息が出た。かつての情報網はさらに進化し、巨大なシステムに変貌しつつある。いくつかのモニターには東京の八千代組内部と思われるカメラ画像が、リアルタイムに表示されている。

 なんという情熱だろう。感心しつつ、父親の片腕として孤独に奮闘していることへの同情がこみ上げた。

「平里さん、ここで私と暮らさない?私、平里さんを雇いたいの。私のブレーンとして、そばにいて欲しいの。人聞きのいい仕事とは言えないし、海外で暮らすストレスもあるかもしれない。でも、それ相応のお給料はお支払いするわ」

 ゆうは、驚いた拍子にぴょんと立ち上がり、後じさってしまった。

「それはだめ。ごめんなさい」

「お願い。きっと面白い仕事になるわ」

「そういう問題じゃないの」

「あの関口っていう男のせい?」

 美津子の憎々しげに歪んだ顔を見たとたん、ゆうの背筋を冷たいものが走った。まさか、美津子さんが関口さんを襲わせたなんてこと、ある?

「あなたも、そうなのね。何より男への愛が大事なのね」

 美津子の瞳に宿った狂気が、さらに疑念を強くした。

 彼女は突然、机の横にある金属製の箱に近寄り、ボタンを押した。うなりだした音でそれがシュレッダーと知れ、彼女の手の中の見慣れた冊子にぎくりとした。

 私のパスポート!?バックに入れておいたはずなのに!

「お願い。私のそばにいて」

「やめて!」

 止める間も無く、美津子は轟音を上げるスリットにパスポートを突っ込んでいた。がりがりがりがりっ!小さな冊子はあっという間に四角い箱に飲み込まれた。

 なんてこと……

 なんてひどいことができる人だったの?やっぱり、関口さんを襲わせたのも彼女なの?

 後悔がどっと押し寄せてきた。関口が刺されたとき、浅はかにも暴力団の仕事に関わったことで自分を責めた。もう祥一に会わないとまで誓った。それなのに、また美津子と関わってしまった。もし、彼女の狂気に巻き込まれて、祥一に何かあったら?

 足の力が抜け、息が吸えなくなった。彼を危険に陥れるくらいなら、自分の愚かさの責任をとってここに留まったほうがましだ。

 もう、祥一に会えない……

 崩折れそうだった。涙が溢れ出てきて、美津子の姿が水の膜の向こうにかすんだ。

「どうして、そんなふうに泣けるの?男のために。馬鹿らしい。男なんていなくても、生きていけるじゃない!」

 美津子が肩を揺さぶる。深い絶望に霞んだ頭が異を唱えた。美津子も自分に言い聞かせている。誰かに恋して、必死で抵抗しているくせに!ゆうは瞬きで涙を落として、美津子を睨んだ。

「昨日、私に航空券を届けに来た人は誰?」

 目をそらした美津子の顔に動揺が浮かんだ。彼女の視線の先に八千代組の応接室で足を組んで座るあの男を映したモニターがあった。居並ぶ粗野な男たちに、冷静な顔で対峙し何か指示をしているようだった。

「あの人、美津子さんの恋人じゃないの?」

「違うわ」

 否定した声が、小さく震えていた。

駿河するがはね、スパイだったのよ。うちの組に入り込んで私の立場を暴き、留守を狙って仲間を中に入れ、オフィスを壊させた」

「あの事件の時の?」

「そうよ、なのに寝返った。私に惚れてしまった、そう言って」

「美津子さんも、彼のことが好きなのね」

 美津子は黙って眉をしかめた。

「あいつは私の監視下においてこき使ってやるの。いつか、危ない仕事をさせて、忠誠を試すわ」

「だめよ、そんなこと!」

「そう?あいつはあなたの大事な関口さんが刺された元凶なのよ。本当なら、私が標的になるはずだったのを、駿河が小細工をしたせいで。」

「そう……だったの……?」

 ゆうは呆然とつぶやき、袖で涙をぬぐった。

「おかしいと思ったでしょう?あの情報網をつぶすのに、オフィスのパソコンを壊して、たった一枚の名刺を手がかりにウェブデザイナーを襲うなんて。あいつが話を捻じ曲げて仕向けたのよ。私を守るために。」

「美津子さん……」

 彼女は無実だった!ほっとして力が抜け、そして一瞬後には、美津子の恋に友人として胸を痛めている自分を滑稽にさえ思った。

「美津子さん、恋に心を許したら、弱くなってもう二度とひとりに戻れない。そんな恐怖、私も味わっているわ。でも、逃げていたら何も始まらない」

「男に惚れて弱くなるくらいなら、ひとりでいたほうがましよ。私に必要なのは、平里さんなの!」

 怒りが霧と消えた。なんてしょうがないお嬢様だろう。なんて我ままで、愚かな、恋する女。 ……私と寸分も違わない。

「彼をここに呼んで、仕事を手伝ってもらったらどう?どうして彼じゃいけないの?他の組のスパイだったから?美津子さんの替わりに関口さんを傷つけたから?人なんてみんな自分勝手なものよ。自分の幸せが一番大事。自分の好きな人が一番大事なの。それでいいって、思わないの?彼のしたことに心を動かされないの?」

 ゆうは優しく、彼女の小さい頃に亡くなったという母親のように、美津子を抱きしめた。

「彼はここに来るなり、あなたを抱きしめるわ。こんなに痩せて、かわいそうにって、ゆっくりしっかり抱きしめるわ。それからキスする。そして美津子さんは夢から覚める。恐ろしい悪夢、一生、一人で戦っていかなければならないという悪夢、八千代組の未来を背負っていかなければならないという悪夢から」

 彼女の瞳に夢とも希望とも、不安ともつかないものが、ゆらゆらと湧きだした。ゆうは出口に向かって後ずさり始めた。

「電話して。彼に今すぐここに来てって言って。きっと来てくれる。そうでしょ?」

 美津子は微動だにせず立ち尽くしていた。ゆうはドアにたどりついた。

「私が急用で帰ったから、今日予約してあるディナーを無駄にしたくないのって、言えばいいわ」

 ゆうはベッドルームでバックを拾い、家の出口に向かった。ドアが電子錠でしまっていたから、「ドアを開けて!」二階に向かって大声で叫んだ。ずいぶん長い時間がかかって錠が外れる音がし、ドアを開けると、南国の冬の生暖かい風が体を包んだ。

 後ろから家政婦が、「もう少ししたらタクシーがまいります」と中国語なまりに告げた。


 カタコトの日本語を話すタクシー運転手に日本大使館に行ってと頼んだが、通じているのかいないのか、大使館は無いという。仕方なく空港まで向かわせた。午後二時。朝ごはんを食べたきりのお腹がきゅう、と鳴った。

 所持品。日本円で二万円と少し。明日朝発のチケット。ハンカチ、チリガミ、筆記用具。

 不所持品。パスポート。

 航空会社の日本人スタッフにパスポートを失くした、と言うと、台北市内にある交流協会で手続きをしろと言う。台湾と日本には正式な国交が無いから、大使館はないのだ。自分の無知を知って、さらに不安になった。

 公衆電話が目に入り、台湾ドルに換金してテレホンカードを買った。いったい、なんて言えばいいの?今すべてを話しても心配させるだけ。でも祥一君がアパートに帰った時、私がいなかったらもっと心配させてしまう。しばらく迷った挙句、祥一の携帯を呼び出した。留守電と思っていたのに突然つながったから、ぎょっとした。

「祥一君」

 しばし間があり、祥一とは似ても似つかぬ野太い声が応えた。

「あー、私、佐野さんの同僚で加藤と言いますが、えー、佐野は今仕事中で、クリーンルームに入っています。電話が入ってないかだけ見てきて欲しいと言われていたところで……」

 電話のこっちと向こうで動揺が行ったり来たりした。祥一君の同僚?ってことは部下?

「私、平里と申します」

「あの、もしやあなたが今、佐野と暮らしているっていう?」

「……はい」

 祥一は会社でゆうのことを話しているのだ、と驚きながらも、今台北にいること、パスポートを失くして再発行に時間がかかるかもしれないことを話し、祥一に伝えてほしいと頼んだ。

「そりゃ大変だ!で、今日はどこに? ……空港で野宿って、豪快な人だなあ。カードがあればホテルに泊まればいい。えっ?カード、持ってない?」

 加藤という男の声はだんだん大きくなってきた。確かに、話すほどに自分の苦境が身にしみてくる。

「今、台北の空港ですよね。いいですか。絶対に空港から出ないでください。悪いようにはしませんから、待っていてくださいよ」

 加藤は強引な口調で言って唐突に通話を切った。なすすべも無く公衆電話の周りを行ったり来たりしていると、およそ一時間後に空港内にアナウンスがあって、インフォメーションに呼び出された。加藤からの電話だった。

「今、佐野がこっちを出ましたから。大船に乗ったつもりで待っていてください。飛行機は関西空港発のノースウェスト69便です。そっちには夜十時着。台北のホテルは予約してあります」

「ええっ!し…… 佐野さんがここに来るんですか!?仕事は!?」

「ああ、それは私が引き受けますから…… ちょっと不安だが、なんとかなります」

「そんなご迷惑おかけできません。お願いです、彼を呼び戻してください。あっ、そうか、わたしが祥一君の携帯にかければ」

「平里さん」

 おろおろしているゆうを、加藤の鋭い声がさえぎった。

「佐野があなたにめちゃくちゃ惚れているってことは、周りにいる俺たちがよく知っています。佐野は、あなたと会うまではロボットみたいな奴でした。仕事ばっかりで、信じられないくらい腕が立って。俺たちは奴に頼りきっていた。難しい仕事に苦しんでいると、必ず奴がやってきて苦境から救ってくれた。でも、だからこそ、佐野があなたを恋しがって酒を飲んでくだをまいたり、あなたのために仕事を抜けて東京に帰ったり、そんな話を皆で笑って、そして心底喜んでいるんです」

 だから?だからって仕事中の彼をこんなところに呼び出していいの?

(人なんて皆、自分勝手なものよ。自分の幸せが一番大事。自分の好きな人が一番大事なの。それでいいって、思わないの?)

 まだ納得しきれない自分を、たったこの朝、美津子に言い聞かせた自らの言葉が説得した。本当ね、美津子さん。愛を受け入れるのって難しい。嬉しいけど、怖い。

「どうもお嬢さんもしっかりした人のようだが、こんなときは佐野に甘えてやってください。だいたい、また突然アメリカに呼び出されるかもしれないって、パスポート持ってたあたり、ワーカフォリックというかね。すみません。平里さん」

 おどけて言う加藤にゆうは声も出さずに首を振り、そして、ありがとうございます、とつぶやきながら電話に向かって頭を下げた。


 客先の工場から、京都に出て、空港に向かい、チェックインして、飛行機に乗り込む…… 到着ロビーの待合椅子で祥一の姿を思い描きながら待った。五時、六時、七時…… 時間はゆっくりと過ぎていく。掲示板が続々と新しい飛行機の到着を告げ、いろいろな国の人々が到着ロビーに現われては消えていった。もう九時も近い頃、ゆうは駿河の姿を人ごみの中に見たような気がした。黒い服に、抱えたプレゼントらしき鮮やかな包み紙のコントラストが目に焼きついている。すぐに見えなくなったから確証は無いが、ちょうど成田からの便が着いていた。

 そう、きっとそうだわ。メリークリスマス!美津子さん!

 ゆうは心の中で叫んだ。


 NW69 OSAKA ARRIVED

 掲示板がパタンパタンと翻って心臓がきゅうっと縮んだ。そしてすぐさま激しい音を立てて鳴り響き始めた。

 日本人らしき乗客がぽつぽつと現れ、ゆうは立ち上がり、出迎え客の中を分け入って鉄柵にはりついた。大きなカートを押しながら出てくる乗客の間から、ビジネスバックをひとつ下げたスーツ姿の祥一が、ぽこん、と現れた。

 一度、視線をめぐらせただけでゆうを見つけ、彼の顔が安堵にゆがんだ。たった数メートルの距離なのに走ってきて、右手で肩掛けかばんのストラップ、左手で鉄柵を握り締め、ゆうを見つめた。

「大丈夫か?」

「うん」

 低い鉄柵に隔てられながら、出口に向かった。柵が切れたところで祥一はゆうをつかまえて、左腕で肩を包み、ゆうの耳の下の顎と、頬に、次々と口づけた。彼の腕の中の安堵に体がへたりとした。

「この前はごめん」

 ゆうの額に自分の額を押し当てながら、祥一が真剣な声で謝った。

「えっ?何のこと?」

「怒ったんだろう。黙って出かけたから。留守電を聞いて、また君を傷つけてしまったって気づいた」

 そういえば!すっかり忘れていた腹立ちと、自分のしでかしたことを天秤にかけて、あれの仕返しと言うには遥かにひどい結末になったことに改めて消沈した。

「あんなこと…… 私の話を聞いたら、祥一君から謝ったこと、後悔するわ」

 言いながら、それでも祥一は許してくれるとわかっていた。怒られても、それで、ふたりであり続けられると信じていた。

「平里ゆうは、実は世界を股にかけた大泥棒です、なんて言うんじゃないよな」

「だとしたら、ずいぶん間抜けな大泥棒よね。パスポートをシュレッダーにかけられちゃうなんて」

「シュレッダー?」

「詳しくは後で話すけど…… その前に、ひとつだけ、聞いてもいい?」

 こんな順序は卑怯だろうか、と思いながらも、ゆうは自分を勇気づけて、祥一のまっすぐな瞳を見つめた。

「私たち、違う形で、一緒に暮らすことをどう思う?そのう、同棲ってことじゃなくて……」

 祥一は目をしばたき、ゆうを見つめ返した。彼の緊張した口元がだんだんと抑えきれない笑みになって、ゆうを包んだ。

「俺はずいぶん前からそんな存在になったつもりでいるのに気づいた」

「そんな存在?」

「俺の帰る場所はゆうちゃんのいる場所。俺はゆうちゃんとふたりっていう存在。ずっと、死ぬまで。けど、ゆうちゃんには、時間が必要だろうと思って」

「祥一君だけ、わたしと結婚したつもりでいたってこと?」

 すっとんきょうな声で聞くと、祥一は、ばつの悪い顔をして、こっくりと頷いた。

「どうして私には時間が必要なの?」

「俺を知って、判断する時間。俺、この前、給料が上がるポジションの話があっても今の仕事が好きだからって、断ったんだ。そんなこととか、いろいろ気のきかないところもあると思うし」

「じゃあ、祥一君はどうなの?時間は必要ないの?」

「俺は…… 七月にゆうちゃんに会った時から、……ずっと想っていたし……何もかもが好きだから」

 聞きながら、わかっていたことだと思った。それなのに、言葉にしてもらったことへの嬉しさに震えだしそうだった。

「私にも、もう時間は必要ないの」

 ゆうは祥一の胴にしがみついた。祥一もゆうの体に手を回した。その抱擁に欲情はみじんもなく、ただ、暖かさがあった。こんな抱擁もあるのだと、ゆうはしみじみと彼の腕の中を慈しんだ。

「さて、加藤さんの取ってくれたホテルに行こう。結構いい部屋らしいんだけど、こんな混んでる時に良く取れたよって言われて、俺、それで初めて今日がクリスマスイブだって気づいて……」

 わかっているわ、祥一君がそういう気の回らない人だってことは。くすくす笑うと、祥一も照れたように笑った。

「そうだ。これ……」

 祥一は突然、鞄の奥のほうに手をつっこんだ。

「アメリカで最後の日に買ったんだ」

 彼の差し出した小さな箱を開けると、藍色のビロードの上に、大きな星を閉じ込めたような指輪が鎮座していた。プラチナのシンプルなC型のリングの開口部に3ミリはありそうな複雑で美しいカットのダイヤが挿まれている。

「私に会う前に、買ったの?」

「一度は会っていた」

「でも、もう会わないって言っていたのに」

「ゆうちゃんは来てくれた」

「でも」

「自分が馬鹿な男だって、思い知りたかったんだろ。傷つくなら、心も、財布も、とことん傷つきたかったんだろ」

 ひとごとのように言う祥一は、どこかかわいらしくて、ゆうの顔は泣き笑いのように歪んだ。左手の薬指にはめて、見せびらかすように宙にかかげた。

「祥一君がどんなに怒っても、絶対に返さないわ」

「いったい何をしたんだ?」

「ホテルに行ったら話す」

「俺、女を怒ったことなんて、無い」

「そうね。想像つかないけど…… 遠慮しないで怒ってね。そうしたら、私、自分を許せるから」

 祥一は、しょうがない奴だなって顔で、ゆうの髪に指先を入れて、はねた髪をさらにくしゃくしゃにした。


 ゆうは祥一の大きな肩に頭を預け、少しもたれ、それでも自分の足で歩んでいることをしっかりと意識していた。

 それで、わたしたちはひとりじゃなくて、ふたりだってことをゆっくり学んでいくのね。

 心も、体も。

 たとえ、すべての夜がふたりの夜でないとしても。


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始めの指先 最後の一行 古都瀬しゅう @shuko_seto

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