第9話 ひとりとふたり

 半導体は最終的には0、1を扱う部品となるのに、それを作る過程は0、1どころか、数値で評価できるのかも怪しい世界である。

 半導体製造装置で100%の歩留まりを得ることは不可能に近い。修理とは完璧に直すことではなく、調子を良くする、歩留まりを上げる、というのが、「人間」にできる限界なのである。

 祥一はそのあいまいさが好きだった。完璧はありえない、未完成な装置の能力を人間にできるであろう極限まで引き上げてやる。そんな天井の無い作業だからこそ、のめりこめるのかもしれなかった。


 それにしても、もう四日も平里ゆうに会っていない。四日が「もう」なのか、「まだ」なのか世間一般の恋人の常識を知らない。

 緊急だと言われて飛んできた長野で、週末までかかりそうな仕事中途の夜を同僚の徳本と古ぼけた飲み屋で費やしていた。徳本は独身で祥一より一歳年上、おっとりしていて見た目も険の無い優男やさおとこだ。

「佐野は最近良く飲むようになったよな」

「前は飲んで紛らわすようなことが無かったからな。やっとメカから人間に進化したんだ」

 狭い畳席の仕切り壁にもたれ、かなり酔ったふりをして言うと、徳本はクックと笑った。

「それでエネルギー源がガソリンからアルコールに切り替わったってわけか」

「ガソリンかよ。俺は燃料電池のつもりだったけどな」

「燃料が何かは知らないけどさ、前に言ってただろ、自分が機械の一部になった気がして、いつの間にか装置の不調がわかるって。今日のもそれだったのか?俺にはどうしてあそこが原因だとわかったのかが、わからない。佐野の場合、アルコール燃料に切り替わっただけで、人間にはなってないんじゃないの。まだ」

「そうか?」

 メカのままのほうが楽だったよ、と愚痴りたかった。おまけにどうも祥一は酒で記憶を失くすことも、正体を失うこともできないらしい。ため息をついてすすけた天井を見上げると、徳本は心配げな顔で眉をひそめた。

「リーダーの仕事が大変なのか、やっぱり」

「彼女ができて…… あんまり会えないから、つらいんだ」

 とうとう自分でも驚くような言葉を吐いてしまい、徳本を飛び上がらせた。

「おお、とうとう佐野が落ちたか!だれ?うちの会社の子か?取引先か?」

「仕事とは関係ない所で出会った。お互いに一目惚れして、メールでやりとりして、とうとうデートまでこぎつけて……」

「さ、佐野が……?ぶふっ」

 ああ、メカが恋したらおかしいだろうさ。いっぱしにありきたりで自分でも笑える。

「今度、会わせてくれよな」

「だめだ」

 とっさの言葉に、徳本はさらに面白がり、祥一は自分の独占欲にたじろいだ。

 こんな面白みの無い男で彼女には悪いが、ゆうを離したくない。

 人は誰かを愛しながら、寛容になれるものだろうか。祥一は酒を口に含み、立てた膝の間に頭をのせた。

 恋人が刺されたのに、それがゆうでなくて良かったと言った北林という女性。

 夫の死に責任を感じながらも田所は幸せだったはずだと言った未亡人。

 どうしたらそんな境地に到達できるのだろう。

 ふと目を上げると、徳本は黙々と目の前の料理をつまんでいた。

 そもそも今日はこの男と飲んでいるのに、ひとり物思い耽って場をしらけさせている俺はどうだ。話題を変えようとしたとき、携帯に着信があった。ゆうだった。ああ、とバツ悪く口元をゆがめた祥一に、察した徳本の目がランランと輝いた。

「もしもし」

「祥一君?今、いい?」

「同僚と飲んでるんだ」

 四日ぶりの声にぼおっとして、力が抜けてしまったが、逆にそっけなく答えていた。

「ごめんなさい。じゃ、また掛け直すわ」

「いい。俺からかけるよ。今、長野にいるんだ」

「長野…… そう、じゃあメールは取れる?」

「今は、取れない」

 日比谷公園でのすれちがい、新宿駅の待ち合わせから二十時間後に受け取ったメール、別れを告げる「私は大丈夫です」という最後の一行。祥一はメールが大嫌いになってしまったのである。心臓を掴まれるようなメールを読むのはもうたくさんだ。アメリカ以来、ゆうにメールを出していないし、日本に帰ってきてからも携帯への転送を切ったままだ。

「あの…ひとつだけ言っておきたいことがあって。わたし、初めての人が祥一君で良かったって」

 祥一は口が利けずに、顔だけ赤くなっていた。彼女の静かな声が聞こえるわけはなかろうが、徳本が体を乗り出して聞き耳をたてている。

「あ、ごめんなさい。会社の人がいるのに、こんなこと…… 祥一君?」

「佐野の彼女さーん、佐野っちは顔を真っ赤にして絶句してマース。それから彼女さんに会えないんで酒びたりになってマース」

 徳本が叫ぶマネをして、祥一は思わずテーブルの下から奴のひざを蹴り上げていた。徳本は笑って尻で後ずさった。

「ほんとうに?」照れたようなかわいらしい声。

「うん」かろうじて答えた。

「電話するよ」

「ええ…… あとひとつ聞いてもいい? このまえ、アメリカから毎日二度も電話くれていたでしょう?あの時の電話代、すごくなかった?」

「ああ。俺の給料一か月分くらいだった」

「ええーっ!」

「と言っても、俺の給料なんてたかがしれてるから。……いいのかな、こんな男でも」

「えっ!?」

 電話の向こうで息を飲む音が伝わってきて、同時に目の前で徳本が酒にむせだしたものだから、何かまずいことを言ってしまったのだとわかった。しかしゆうの声にふわついて、かつ酔いの回った頭がうまく働かない。

「とにかく、また電話する」

 有無も無く通話を切った。

「こんなとこでプロポーズすんなよ!」

 徳本は笑いをかみ殺していた。そうか!安い給料でもいいか、なんて結婚を意識していなければ出てこない言葉だ。

「そんなつもり、無かった」

 徳本は顎が外れたような顔をして、「まだメカだ。おまえ」とつぶやいた。ああ、そうかもしれない、祥一は目の前の割り箸を何度もつまみ上げ、下ろした。

「結婚?……でも、俺、給料安いし、性格暗いし、気はきかないし、出張ばかりだし」

「安いたって、リーダー職になったんだから、俺らよりいいだろ」

「いや。管理職になったら給料下がった」

「げっ、なんで!?」

「残業代が無くなったから」

「マ…マジ?」

 頷くと、徳本はガックリした顔で「ここは驕るよ」と言った。


 その夜の電話で、ゆうは祥一の「失言」を蒸し返しもしなかった。

「私、一日に何度も祥一君のことを考えてしまうの」

 ゆうの透き通る声が言い、胸苦しさにあえいだ。祥一も同じだった。

 日曜日、噴水の向こうに彼女の姿を見つけたときの感動を何度も反芻してしまう。会話の一言一句をたどってしまう。彼女の指先が祥一の体のどこに触れ、どこには触れなかったかを地図にでもできる。彼女の体から得た、震えるような快感が体の隅々に残っている。

 何も言えなかった。この愛しさを的確に表現することなど不可能で、あやふやな言葉に置き換えられない。

「祥一君。東京に戻ったら、いつでもいいから私の家に寄ってね。今回はだめでも、東京にいる時には私の家から会社に行けるように、必要なもの持ってきておいてね」

 いいのか?そんなことして?あまりに魅力的だ。声が上ずりそうで口が開かない。

「いい考え、じゃないかな?」

 この仕事が終わった夜にでも彼女のアパートに直行してしまいたいと言いたいのに。それはつまり、また一緒に夜を過ごしたいと思ってくれているととっていいんだよな、とか、どうにも言いにくいことがぐるぐる頭の中を回っている。

 長い沈黙が続き、ゆうが息を吸い込む音がした。

「祥一君。実際に私に会って、何か失望したことがあるのね」

 突拍子も無い話の展開に、今度は仰天して言葉を失った。なんてことを言い出すのだろう。失望?どうしたら失望できるというんだ。あの完璧だった一日に?

 否定しようとしたそのとき、ゆうが先に口を開いた。

「もう一度だけ、会ってくれる?」

 一度だけ?

 電話を持つ手ががたがたと震えた。今、この場の誤解を解くことは簡単なのはわかっている。けれど、会えないこと、口下手であること、彼女を深く求めすぎていることが容易に巻き起こしえる意思の行き違いは、日曜日に確認した二人の結びつきを、あっという間に瓦解させてしまう可能性があるのだということが恐ろしくて、今、本当に永遠の別れを迎えているかのような悲しさに、ベッドに座り携帯電話を耳に当てたまま、頭をかかえた。

「違う。俺は……」

 何かをこらえる頭が痛い。ただの誤解だ。ほんの数行の言葉ではらすことのできる誤解。

 いや、本当にそうなのだろうか?

 今、彼女はあと一回会って、別れましょうと言ったのだ。

 そこまで思いつめた状態から、あっさりと元通りに、四日前の全てがしっくりした二人の状態に戻れるのだろうか。何を否定しても裏目に出るような気がして、何かを言うことが怖くなった。

「祥一君」

 ゆうは、慈しむような声で祥一の名を呼んだ。

「お願い」

 彼女の声は小さく震えていた。もしかしたら、泣いているのかもしれない。

「俺、明日東京に帰るよ。そっちに直接行く。長野を出るときに電話する」

「…ええ」

 彼女はそれ以上、いくら待っても何も言わなかった。祥一も何も言えなかった。会えばなんとかなるのだろうか。全てを見失った気になりながら、電話を切った。


 次の日、徳本と客先に向かうタクシーの中で、今日は仕事が終わろうが終わるまいが、いったん東京に帰るから、と話ししているところに、技術部長、吉井からの電話を受けた。サービス部門も含めた統括者で、祥一の直属の上司にあたる。次にいつオフィスに出社できるかと聞くから、わかりません、次の仕事が入ればそちらに行きますし、と答えると、じゃあ今日長野で会おう、と言うのである。

「吉井部長が私に会うために、こちらに来られるのですか?」

「だって、抜けられないんでしょう。いいじゃないですか。たまには僕もS社の佐藤さんに挨拶したいし」

「はあ。今回は長引いていますから、そうしていただけると助かりますが」

「じゃ、今日、そっちに着いたら電話します。クリーンルームに入ってるんだったら、出たところで僕に電話くださいよ」

 いったいどんな用件なのだろう。長い話だろうか。暗い顔でシートにもたれると、徳本が心配そうに無言でため息をついた。


 午後四時。徳本と客先の担当者を残してクリーンルームから出た。動作確認を残すだけだが、こんな状態で仕事を抜けるのは初めてだった。動作確認で結果が悪ければ客がどう怒るかわからないし、その時に次の対策を説得力を持って説明できるかどうかというストレスは最後までつきまとう。後ろ髪はひかれるものの、ゆうのほうが大事だった。仕事はいくらでもとりかえしがつく。何の疑問もなくそう確信できる。携帯に吉井からの留守電が三時半に入っており、すでに工場内いるという。

 吉井は、もとは国立研究所の名の通った半導体研究者で、社内でも別格の管理職である。太い眉をした濃い顔で、笑いかけられると気後れがする。表敬訪問は終えたから、長野まで出て食事をしながら話そうと言い、共にタクシーに乗り込んだ。

 ゆうに電話したかったが隣に上役がいてはそれもできない。朝、すぐに予定変更を伝えなかったことを後悔した。高級な日本料理屋で、吉井はコース料理を注文してしまい、一時間ほどで帰れるかもしれないという希望は断たれた。

「先週までのアメリカ出張、ご苦労でしたね。向こうでも評判が良かったそうですよ」

「そうですか?先方の人と話もできなかったのに」

「そこが凄いってね。営業の矢口君が。佐野君は英語がわからないのに全然ものおじせず、十個くらいの単語で完璧な仕事をこなしていたって」

「十はひどいと思いますけど。ただ、技術的なことはやって見せれば伝わります。何度全部やるから手を触れるな!と叫びたかったか。あんな作業員じゃ、装置が動かなくなるのも無理はない」

 祥一の仕事を褒めるような、探るような話が延々と続いた。お通しを平らげて、ビールをちびちび飲み、メインの魚料理が運ばれてきて、ようやく話は本題に入った。ここまで腕時計に目が行きそうになるのを何度も押しとどめていたのだが、その話は、時間も、ゆうのことも一気に頭から吹き飛ばすほどの衝撃だった。

「俺を営業部に?」

「うん。営業と一緒に客先を回って、技術的な話ができる人が必要なんです」

 祥一はめんくらってしまい、さしみをしょうゆの中に浸したまま、箸を置いた。

「佐野君の知識は折り紙つき。トークは慎重で、責任感がめっぽう強く、人当たりもいい。なにより営業の連中が佐野君をサービスに置いておくのは損失だって騒ぎ続けていましてね。特に最近は昔売った装置を別の用途に使いまわす中古ビジネスが立ち上がろうとしていますから、過去の装置を良く知っている佐野君は営業から見ると喉から手が出るほど欲しい人材なんでしょう。最近リーダーになったばかりで、やり残したこともあるだろうけど、営業部からサービス部門にアドバイスすることも可能ですから」

「でも、オ・・私はサービスの仕事が好きですし」

「もちろん、それは話を聞いていればわかります。しかし会社としては、ある人間がもっと利益の上げられる仕事に適しているなら、そちらに動かすことも考えざるをえないんです」

 断定的な吉井の口調に、目の前が真っ暗になった。これがサラリーマンというものなのだろうか。

「おおい、そんな売られていく子牛みたいな顔をしないで下さい。ドナドナを歌いたくなる」

 吉井はよくわからない冗談を言って、自分で笑って、笑っていない祥一に気づいて、苦笑いした。

「いい話だと思うんだけどなあ。昇進ですよ。給料はまず2割増し、成績が上がれば2倍になる可能性もある。うちはインセンティブがいいですからね。一週間も二週間もどこかに缶詰なんてことも無いから、体も楽だろうし」

 その時、ようやく、ゆうのことを思い出して、もしや自分は運命の女神とやらにもてあそばれているのだろうか、と思った。

「とりあえず、今日すぐ返事がほしいわけではないんです」

「でも、辞令が出れば、断れない」

「頭ごなしにやるつもりなら、こんなふうにお話ししませんよ」

 吉井は大きな体をぐっと乗り出して、太い眉の下の真剣な目で祥一を捉えた。

「営業が佐野君を欲しがるのもわかる。しかしサービス部門は、なによりラティステクノロジーの基礎を確かにする仕事です。佐野君がそこでこそ自分の力を発揮できるのだと判断すれば、断る選択肢もあるのです。営業は何かと成績の悪さを人的資源が足りないせいにしたがる。こういう人事にはそういう一面もあると思っていい。ただ、佐野君の人生の選択肢として、悪い選択ではないのではないかとも思うわけです。さっき言った、給料のこととか、この先の昇進のこととかでもね。二十代でリーダーになってしまった佐野君の場合、サービスにいたら、あと何年も同じ役職が続くでしょう。いつかは新しいことに挑戦したくなるのではないでしょうか」

 吉井は祥一のことを考えて話している。それでもむしろ頭ごなしに辞令を付きつけられたほうが良かったとでも思いたくなる難しい選択肢に、祥一の心は沈みこんでしまい、上の空で吉井の話に相槌を打つことしかできなくなった。


「すみません、急いでいるんで」

 がばと頭を下げて階段を駆け上がり、最終一本前のあさまに飛び乗った。ゆうに電話して、真夜中に着くことを告げた。電話はトンネルのせいで途中で切れた。

 とにかくゆうに会いたかった。それだけが道を照らす灯りで、あとは真っ暗闇に思えた。

 深夜0時。真夜中に駅から歩く道のりは湿り気を帯びた風がゆるゆると吹いていて、長野のピンとした冷気より身にこたえる。2階の彼女の部屋には煌々とした灯りがあり、階段を上りながら不安になった。いきなり悲しげな顔をされたらどうしようかと。

 ドアの数歩手前で鍵の開く音がして、丸い眼鏡をした卵型の顔がひょいとドアの間から顔を出した。体は玄関の奥にしまったまま、危なっかしいバランスで首を覗かせるその姿は、父の帰りを出迎える子どものようだった。

「おかえりなさい」

 彼女のほほはピンク色で、目は祥一を認めてきらきらと輝き、口元には明るい笑みが浮かんでいた。

「た、ただいま」

 驚いた顔の祥一に、

「どの電車で来るかは大体わかったから、窓から外を見ていたの」

と的外れな種明かしをした。彼女はもうパジャマを着ていて、カーディガンを羽織っていた。彼女の振る舞いはあまりに自然で、暖かくて、いったい昨日の夜、どんな会話を交わし、今日、どの誤解を解かねばならないのかも忘れてしまいそうだった。吉井につきつけられた選択肢がもたらした体の重さもふいと軽くなっていった。

「お風呂、沸かしておいたの。入らない?外、寒かったでしょう?」

 玄関に工具バックを置き、日曜日以来の彼女の部屋にゆっくり足を踏み入れた。

 何かが違っていた。

 部屋の三分の一を占めるパソコンの乗った事務机、本棚、小さなちゃぶ台。ざぶとん。十四インチのテレビ。確かに日曜日のままなのに。何かが足りないような、多いような。じろじろ見回すのも気が引けて、座り込まずに風呂に向かった。「おっと」つぶやいて、出張鞄の中から新しい下着を取り出した。ゆうは後ろに手をやって、なんだかそわそわと祥一のやることを見守っている。

 半畳ほどの脱衣所に入ると、たたんだバスタオルの上に真新しい男物のパジャマが置いてあった。

 ふりむいたが、ゆうは視界に入らない。


 もう一度だけ会って


 あの言葉は空耳だったのだろうか。

 混乱しながら風呂に入ると、また、違和感があった。五日前とどこかが違う。とはいえ湯気をたてている湯船があまりに魅力的で、とにかく身を沈めてから風呂場を見回した。小さな窓の桟にクジラをかたどったガラスのオブジェが飾られていた。後ろに子クジラを二匹従えている。こんなもの、あったっけ?

 それにしても気持ちがいい。風呂の湯からはほんのりと花みたいな匂いがする。

 その時、ああ!とうなった。

 きれいなのだ。この部屋のどこもかしこも。この風呂にしろタイルにはカビが浮いているような古めかしさがあったのが全て美しく磨き上げられている。彼女の部屋もそうだ。いくつか積み上げられていた雑誌の山が無かったし、事務机の上にあったパソコン以外の雑多なものが、何も無かった。汚いわけではなかったが、雑然とした生活くささが感じられた部屋が、すっかりきれいに整えられていた。

 風呂に目を戻せば、あのクジラのいるところには、風呂用の洗剤が無造作においてあった気がする。

 腹の底から笑いがこみ上げてきて、それをこらえると風呂の湯がたぷたぷと波打った。

「ゆうちゃん!」

 祥一は風呂の中から大声で叫んだ。足音が聞こえて、ゆうが木枠をきしませて風呂の引戸を開け、湯船の中の祥一に少し顔を赤らめて、「なに?」と聞いた。

「好きだ」

 口をついて出た言葉は、ありきたりだったが、ゆうは感動したように目をうるませた。

「ごめん。電話しなくて。俺、ゆうちゃんの声を聞いたとたんに出張も仕事も嫌になりそうで、怖くて、電話できなかったんだ」

 ゆうは、目を見開いて、肩に力を入れ、木枠を握り締めた。

「月曜の朝、この部屋を出るとき、いつまたここに戻ってこれるのだろうって思ったら、もう仕事が嫌で嫌で……俺、自分の仕事が好きだってことだけが、まあ、人間としてのとりえだと思ってたから、女にメロメロになって仕事をほっぽりだしでもしたら、人間としてダメになるだろうなんて思って」

 ゆうが扉の影にひっこみ、ゆっくり風呂の戸が閉まった。

「長湯しないでね」

 閉まる隙間から小さな声が聞こえた。


 草色のパジャマは一度洗ったらしく、ふかふかしていて石鹸の香りがした。彼女がいろいろなことを考えて、一生懸命この部屋を整えたことも、パジャマを用意してくれたことも、あまりにかわいらしくて、嬉しくて、祥一は全ての誤解が解けた気になって、ゆうの部屋へうきうきと舞い戻った。

「このパジャマ。ありがとう」

 ゆうはパソコンに向かっていた。モニターにはプログラムらしき数字と英字の小さな列がずらりと並んでいた。キーボードを打つゆうは、振り向かなかったが、彼女の人差し指が小さく震えているのに気づいた。

 近づけば、ゆうは涙をこらえていた。口の端がぎゅっと結ばれて頬を横に押し出していた。目はモニターを睨みつけながら、眉間がぴくぴくと震えていた。胸に杭を打たれたように祥一の体がこわばった。

「ゆうちゃん」

 彼女の髪にのびた祥一の手は、首をふるゆうに拒まれた。

「私が電話すればよかったのかな」

 ゆうが目をぎゅっと瞑ると、小さな涙の粒がこぼれ落ちた。

「仕事の邪魔しちゃいけないって思ったの。それはそれで正しかったのかな」

 たぶんこの涙の理由が完全にはわかっていない。けれど、日曜日から四日間、なんの連絡もしなかったことがいけなかったのだ、というのはじわじわと実感されてきた。アメリカからでさえ毎日電話していた男が、一夜を共にしたとたん何の連絡も無くなったら、いろいろと邪推するのは当然かもしれない。彼女の涙が昨日の電話の後の、ゆうの精神状態を示しているのだと考えると、丸一日以上経っていることにぞっとした。

「不安だったの。せめて祥一君がどこにいるのか知りたかったの、また突然海外出張しているかもしれないとか、過労で寝込んでいないかなとか、どこかで事故にあったりしてたらどうしようって馬鹿なこと考えたり。私、携帯電話の番号と、メールアドレスしか知らないから、もし祥一君になにかあったら、もう一生会えないこともあるんじゃないかって思ってしまって」

 確かに!祥一は自分の住所も、自宅の電話番号も、勤めている会社名も、まったく彼女に知らせていなかったことに気づき愕然とした。もしあの時、ゆうが妊娠し、今週祥一がどこかで事故にあって死にでもしていたら、彼女は素性のわからない一夜限りの男の子どもを一人で育てることになったわけだ。

 彼女がそんなことまで考えたかはわからなかったが、四日間祥一の電話を待ち続けて、ようやく自分から電話してきた彼女の気持ち、昨日の電話できちんと弁明もせず、放っておいた事を考えると、謝る言葉などみつからなかった。ゆうはまだまつげに残る水滴を手の甲でぬぐって、ようやく祥一を見上げた。そしてなぜか、ぽかんとして、次の瞬間くすりと笑った。

「祥一君。人殺しをした後みたいな顔をしているわ」

 ああ、たぶん、罪悪感の大きさは同じようなものかもしれない。この世界にたったひとりの自分が愛している人を傷つけてしまったのだから。

 二人が完璧になったと思った日曜。あたかもひとつのいただきを制覇したかに思えたあの夜。

 けれど二人はこんなにももろく、こんなにも相手のことを知らない、信頼もない。あれは頂などではなかった。いや、頂などあってたまるものか。頂に達したら、あとは下るだけじゃないか。

「こんな男じゃ、嫌か」

 ゆうは椅子から立ち上がって祥一の胴にしがみついた。

「そんなわけ、ない。好きでたまらないから、こんな馬鹿な涙が出るの。私が泣くと祥一君が苦しむの知っているのに」

「いいよ、泣いて。もっと俺を苦しめてくれ」

「ばか」

 ゆうが祥一のあごにくちづけ、そして、ゆっくり唇に達した。短い距離がもたらす永遠の時間。何時に風呂に入ったのか知らないが、冷たくなった指先が祥一のうなじを包み、風呂に入ったばかりの祥一の体温をゆっくり吸い取った。最初冷たかった唇は、ふれあいのせいで徐々に暖かくなった。すりあう彼女の頬は滑らかで、自分の髭の浮いた顎がそれを赤く腫れさせてしまうことを知りながら、彼女の頬に摺り寄せるのをやめられなかった。


 ゆうが愛しかった。日曜日よりもっと愛しかった。頂だと思っていた衝動はただの出発点にすぎなかった。


 きっといつまでたっても互いを完全に知ることなどできない。小さな知っていることをかき集め続けるだけなのだ。

 完璧など無い。完璧だと思った瞬間に、それを壊すことを恐れて何もできなくなってしまう。


 酒を飲んでも無くならない理性は、あっけなく吹き飛んで、ゆうの体を腕の中に抱きしめた。体の触れ合うあらゆる場所が歓喜の声をあげ、触れ合っていないあらゆる場所が羨望の声をあげた。

 いまや祥一はひとりではなく、「ふたり」という一体化した何かだった。

 ゆうに受け入れられ、歓迎され、許され、求められていることを心と体、すべてで感じとった。

 そして自分自身を許し肯定することが、「ふたり」を愛し、続けていくことの条件かもしれないと思いついた。


 真夜中で、窓が風の流れを伝えていた。

 ひとつの布団の中で祥一は、うとうとしながらゆうの体の存在を確かめていた。ゆうは祥一の腕枕の上で静かな呼吸を取り戻していた。

「明日、部屋を探しに行かないか」

「え……と」

「この町が好きなら、近くに」

「祥一君……と私、の?」

 ゆうは暗闇の中で祥一を見つめて、それから祥一の首筋に顔を押し当て、彼女の手がゆるゆると祥一のわき腹から背中に回った。祥一は抱きしめられた。そうだ……声にならない声でつぶやくと、ゆうは、うん、と吐息混じりに同意した。


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