第8話 待ち合わせ

 ゆうの鼓動は、その日、その時間が近づくにつれ、しだいに速く、強くなっていくようだった。

「日曜の10時」

 木曜の夕刻、巨大な鳥居の下で祥一の声を聞いた。そしてカウントダウンは始まったのだ。金曜、ストレイトトラックの事務所で一日Javaコードと格闘した後、夜の面会時間に関口が入院している病院へ向かった。心は決まっていた。


 祥一は真夜中ゆうに電話した後、何を考えるのもつらくなって、つまり、ゆうが来るとも来ないとも想像しただけで苦しくなるから、懸命に心をからっぽにしてベッドにもぐりこみ、いったん寝付くと昼まで寝入ってしまった。部屋のドアが開く金属音に飛び起き、ドアから入ってきたベッドメイクの若い黒人女性と鉢合わせして、互いに悲鳴を上げ(パンツだけは穿いていたのが幸いだった)、慌てて服を着て外へ飛び出した。

 ホテルから10分も歩くと、大きなショッピングモールがある。自分のやっていることに困惑しながら、平里ゆうへのみやげを物色した。


 土曜、ゆうは半日仕事をしてから、9月にばっさりと髪を落とした美容院に行って、二ヶ月ぶんのびた髪を前回より少しだけ長めに整えてもらった。あの時と同じ若い美容師は、「新しい彼氏が見つかったんですね」と軽口を言い、「これからです」と返すと、信じませんよ、という顔でにこにこ笑った。

 洗濯し、部屋を掃除し、また少し仕事をした。ふと時計を見ると午後5時だった。彼はそろそろ日本に着いているのかもしれなかった。


 金曜の午前中、ローカル空港を飛び立った祥一は、ダラスで国際線に乗り換えて日本へと向かった。機内上映の映画を見てもストーリーは頭に入らず、それでいて突然耳に突き刺さるようなセリフが頭の中で反響した。悲しい別れ際の台詞、愛を交わす台詞… 窓際の席の隣は大学生らしい女性二人組で、ふと彼女らの視線を感じて我に返ると、自分がうーん、うーん、とうなっていたのに気づき、真っ赤になって「すみません」と謝った。白昼夢を見ていたらしい。

 成田に着き、到着ロビーの雑踏に誰かの姿を探している自分に呆れた。論理的に考えれば、誰が来ているはずもない。

 

 風が強い夜だった。ゆうは毛糸の帽子をかぶり、厚いコートを着て外気の中に立っていた。アパート近くの、公有地と看板の立った暗い一角である。見上げると全ての雲は吹き飛ばされ、星がぴかぴかとまたたいていた。風が吹くとなぜ星が瞬くのか、ゆうは知らない。祥一なら知っているかもしれない。

 なぜ電話して帰国を確かめ、明日の話をしないのだろう。なぜ星が瞬く理由を謎かけてみないのだろう。疑問と焦燥を、今夜は同じ星の下にいるのだという安堵に置き換え、ゆうは目の玉がひりひりするまで空を見上げていた。


 8時過ぎ、会社借り上げのワンルームマンションに着いて、祥一はスーツケースを狭い玄関に置き、もう一度外に出た。コンビニに行って"日本食"という名の弁当を買うのが目的だった。風が強かった。けれど空気は澄んでいて、見上げれば星が静かに地上を見おろしていた。…星、きれいだなあ。

 きっとアメリカでも見上げれば星はあったのだろう。きっとここよりずっときれいだったろう。一度も空を見上げなかったことを後悔したが、おそらくあの地球の裏側でひとり星を見上げても、悲しくなっただけだったろう。

 ポケットの中の電源を切った携帯が放射能物質みたいに音も熱も無くその存在を誇示していた。彼女に電話したい。外に出て、星を見てみろよ、と誘ってみたい。明日は来てくれるよな、と念を押したい。

 指先はじりじりとポケットにのびようとしたが、かろうじて押しとどめた。彼女を信じて明日まで我慢しようと決めていた。それは祥一の願掛けみたいなものだった。


 日曜の朝、ゆうが寒い部屋で目を覚ますと、全ての音が消えているような気がした。壁の薄いアパートに響く騒音はいつもどおり空気を震わせているのに、耳の中は自分の鼓動でいっぱいで、かろうじて朝食をとり、ニュースで何も恐ろしいことがおきていないことを確認し、スケッチブックの入った大きなトートバックを、お守りみたいに抱えて部屋を出た。

 何度か階段につまずいたり、自動改札で切符を取り忘れそうになったりしながら、それでもいつのまにか日比谷公園の入り口にたどり着いていた。有楽町側の入り口で、長細い公園の中央に位置する噴水の広場まではだいぶあることを知っている。約束の10時まで、1時間もあることを知っている。それでも心はあせり、鼓動は大音響で耳の中を満たしていた。


 ひどく寒い朝だった。時差ぼけなのか知らないが、朝の5時には目が覚めてしまい、祥一は電気ストーブにあたりながら、仕事のメールいくつかに返事を書いた。3週間、日本のサービスチームは祥一無しに乗り切った。祥一が出向けばおそらく2日で終わった仕事を、4日かかる者もいれば、1週間かかる者もいる。それでも片付いた難しい仕事がいくつかあったのには、不条理ながらつまらない思いをした。折りしも金曜の夜、徳本が緊急の電話をとり、泣き言めいたメールを送ってきていた。客先にはすぐ来いと言われましたが、月曜には佐野さんが帰ってきますから、と言って待っていただきました、と。

 明日にはまた元通りの生活が始まる。それが不思議だった。今日と明日の間には不透明で厚い壁があって向こう側が全く見渡せないのだ。

 日比谷公園、ここから何十分かかるだろう。インターネットの経路検索でもすればよさそうなものを、時間など気にせず行きたくて、7時には部屋を出た。

 中央線で新橋まで出て、それでまだ8時半だったから、あとはのんびり歩いて行くことにした。


 寒くて外出には向かない季節だろうに、公園にはいろいろな目的で人が集うものだ。楽器の練習、ジョギング、夫婦の散歩、恋人たちのデート。ゆうは彼らを観察し、気を落ち着けようと努力しながら、木々に囲まれた小道をゆっくり噴水の広場へと歩いていった。

 噴水の広場は差し渡し100mはありそうな広い空間で、丸い巨大な噴水の周りをいくつものベンチが取り囲んでいる。

 浮浪者や散歩途中のお年寄りなどが思い思いにくつろいでいた。ゆうも空いているベンチを見つけて腰をおろした。噴水をはさんで向こう側には、缶ジュースを片手に朝ごはんらしいパンをかじっている男もいた。噴水は時折音を立てて吹き上がり、また小さくなり、というのを繰り返している。

 どうしても鼓動は静まりそうに無かった。

 それで、ゆうはスケッチブックを取り出して、噴水と、それを囲む木々と人々をクレパスでスケッチし始めたのだった。


 歩くとき、それが町でも無意識に山歩きのペースになることを忘れていた。祥一は結局、9時前に日比谷公園の緑を視界に入れてしまい、手前の地下鉄の売店で朝食にパンと缶コーヒーを買って、噴水の広場にやってきたのである。この寒いのに路上生活者らしき男はベンチでダンボールを腹に巻いて眠っている。いったいあれでどれだけ暖がとれるものか。俺だったらまず寝袋だけは調達するな。今日、もし平里ゆうが来なければ、生きる意欲を失って、あんなふうに暮らすようになるかもしれない、と半ば確信を持って想像し、ぼう然とした。買ってきたパンをぼちぼちかじり始めると、風が冷たくて、まるで山の上で簡易食料をかじっている気分だった。俺、平気かも。路上生活。さすがにその思考はまずい気がして、噴水のプログラムを解明しようとじっと見つめた。最初低く、だんだん高く、内側、外側、内側…外側…なかなか複雑なバリエーションだ。制御装置はどこにあるのだろう。たまには故障したりして、メンテナンスするサービスマンがいるのだろうか。

 噴水が低いリズムに戻ったとき、向こう側に絵を描く若い女が座っているのが見えた。いつの間に現れたのか。青みがかった灰色のコートに包まれた腕はなかなかな速さでスケッチブックの上を走っている。描いているのは噴水だけではないようだ。周りの木々や、空にも目をやっている。今度はベンチに注目しだした。ダンボール男のベンチ、老夫婦の座ったベンチ、一つ一つを絵に書き入れているのだろう。彼女の視線はだんだん祥一のベンチのほうに移動してきた。


 クレパスで噴水を描くのは楽しかった。いろいろな色を映しこみ、時折風に流されてカーテンのように舞う水の幕。空は水色で、それを水のカーテンの中に照らしだすと、絵は思いがけず、明るく輝くのだった。おかげで苦しいほどだった胸のどきどきは治まりつつあった。まわりのベンチを一つ一つ書き入れる。噴水の反対側で朝ごはんをたべていた男は、パンは終わったらしく、ジュースの缶を片手に持って、なにやらこちらを見ているようだ。

 絵を描いているところを人に見られるのは慣れていて、気にせず彼の姿を写しとった。ストレートのGパンに茶色いジャンバーを着て、缶ジュースを飲んでいる男の姿。絵にしてみると、肩幅が広く、ベンチから投げ出された足が長く、群衆の一人としてはずいぶん目立った存在になってしまった。

 ハテ。メインの噴水がかすんじゃう。上から水しぶきを重ね描きしちゃおうかな。絵をながめすがめした後、目を上げると、男の姿は消えていた。


 あの瞳。広場の端と端に離れていても、彼女のらくだみたいな茶色い瞳は、半年のうちに薄れつつあった記憶を呼び覚すのに十分だった。近づくにつれ、姿がはっきり見えるようになるにつれ、そこで絵を描いているのが、平里ゆうだということに疑問は無くなった。髪は首筋を覆う程度に短くしている。毛先があっちこっちを向いているのは今風の髪型だからなのか、彼女のくせっ毛のせいなのか。眼鏡はえんじの縁の丸くて小さいやつで、彼女の優しい頬の輪郭にあいまって、かわいらしく、ひょうきんに見える。ひざまである長くてぶかっとしたコートは体の線を全て包み隠し、夏の日に見た彼女の悩ましい体をうかがい知ることはできない。コートの下はスカートらしく、ストッキングにパンプスを穿いた足が少し寒々しいが、足首を時々揺らす様は彼女が絵を描くことを心底楽しんでいる表れだろう。

 スケッチブックにしばし首をかしげた後、顔を上げ、さっきまで祥一が座っていた場所を見つめる姿は、床屋の狭い空間で感じた息詰まるような胸と体のうずきを鮮やかに蘇らせた。

 彼女がじっとこちらを見ていたくせに、いやたぶんその絵の中に祥一の姿を描いていたくせに、祥一に気づかなかったことは、落胆より、楽しさ嬉しさになって笑いがもれそうだ。祥一は彼女の視線の外からゆっくり、ゆっくりと焦がれ続けたその姿へと近づいていった。



 噴水がまた高く吹き上がった。あたりがシャアッー!という水音でいっぱいになり、ゆうは手を止めてしぶきのてっぺんを見上げた。小さな飛まつが冷たく澄んだ空気の中を天高く舞い上がっていく。

「絵がうまいんだなあ」

 突然耳の横でささやかれて、雷に打たれたみたいに全身の神経がはじけた。この声!耳のすぐ後ろに彼を感じた。佐野祥一が後ろに立っている!息を呑み、目を瞑った。右手に持った白いクレパスが震える手から滑り落ちそうになった。

「ゆうちゃん?」

 ゆうは、おそるおそる振り向いた。全体像が見えないくらい、すぐ近くに、かがみこんだ彼の顔があった。ほんのりと、口元に笑みを浮かべていた。

 記憶より少し色が黒くなっていて、記憶よりずっと大人っぽくなっていて、記憶より頬がこけていた。髪は海兵隊みたいに頭の半分まで刈りあげられていて、あの日ゆうが手ですいた長さは消えうせていた。

「しょういちくん」

 夢中で名を発すると、祥一はいつかのように静かで短い笑顔を見せ、目を細め「ゆうちゃん」ため息のようにつぶやいた。ふたりは無言で互いの姿をむさぼりあった。どんな言葉もこの感動を犠牲にしてまで置き換える価値は無かった。

 祥一はゆうの右側にあったクレパスの箱を押しやり、すとんと座った。圧倒的な存在感が体の右側に押し寄せて目眩めまいをもたらし、それを理由に彼にもたれかかることさえできそうだった。けれどそう想像しただけで拙速せっそくで淫らな気分になってしまったから、ゆうは必死で自分を支えた。

 祥一がゆうの右手を彼の左ももの上に引き寄せ、ゆうは喉の奥で声にならない叫びを上げた。彼は手の中の白いクレパスをつまんで箱にしまい、両手でゆうの手を包んだ。祥一の手は暖かかった。ごつごつしていて、指紋のうねりまで感じ取れる気がした。ゆうの手は震えていた。寒いせいではなく震えていた。

「また冷たい手をしてるな」

「い、居眠りしていたわけじゃないけど」

 ほんの半メートルほどしか離れていないところにある祥一の顔がにやりと笑い、ゆうもつられてくすりと笑った。

 半年。

 半年、経っているのに、あの次の日のように、思える。まだ二度しか会っていないのに全てを許しあった恋人同士のように静かな会話ができる。

「これ、俺だって気づかずに描いていたろう」

「あう。だって、私、眼鏡かけてようやく視力0.8だもの。でも、祥一くんだって、ずっとあそこでパン食べてたでしょ。私のほう、何度も見たはずよ」

「ゆうちゃんは本当に変わったからな」

「祥一くんだって。それに、私服だと、雰囲気が違うわ。あの時はいかにもサラリーマンってかんじだった」

「普段着めったに着ることなくてさ。ちょっと慣れない」

「いつも背広?」

「……か、防塵服」

「よく知らないけど……すごく似合いそう」

「あんなもん、似合っても嬉しくねえよ」

「そう?SFに出てくる登場人物みたいでカッコいいんじゃない?」

「それよりは給食のおばさんに近い」

 ゆうが噴き出すと、祥一はその笑顔をまじまじと見詰めて、ため息をつきながら自分の脚の上に握ったままのゆうの右手に視線を落とした。

「ありがとう。来てくれて。俺、あやうく浮浪者になるところだったよ」

「浮浪者……?私こそごめんなさい。もう二度と会わないなんて言って。関口さんに叱られちゃった」

「へえ。どんなふうに?」

 祥一の顔が少し厳しくなった。

「祥一君に電話をもらって、私、どんな天罰がくだってもいいから、祥一君に会おうって決めたの。でももともとは関口さんのための願掛けだったから、関口さんに断りに行ったの」

 今度は口元が笑いをこらえて歪んでいる。しょうがないわよね。話してみると自分でもおかしいもの。ゆうは肩をすくめて話を続けた。

「関口さん、まず、もう願掛けは十分だって言ったの。彼のご両親も、妹さんも、それから北林さんも、みんな関口さんのために願掛けをしたのですって。それで、関口さんは、その中のひとつだけ。つまり北林さんの願掛けだけをありがたく受け取ったから、あとはもうご遠慮いたしますって」

「ふうん。そうか。北林さんは、何を絶ったんだろう」

「ちがうの。北林さんはね。もし関口さんが助かったら彼女からプロポーズするから、彼を助けてくださいって、祈ったのですって」

「おお、それは前向きだ。じゃあ、二人は結婚するのか?」

「どうせ私は後ろ向きですよだ。そうね。たぶん、すると思うわ。どんな障害があっても結婚する!って宣言してたもの」

「障害……って?どんな?」

「うーん。年の差?かな?関口さんって言い方が大げさだから……障害なんて無いのかも」

「ところで、ゆうちゃん、年、いくつなんだ?」

「私?26よ。祥一君は?」

「先月28になった」

「え?じゃあ、アメリカで?」

「ああ……自分でも2,3日過ぎるまで忘れてた」

「お誕生日おめでとう。何かプレゼントしたい」

 祥一はしばし沈黙して、何かをたくらんだ顔で小首をかしげた。

「今、すごくしてほしいことがあるんだ。こんなところで、とは思うけど」

「何?」

 何をねだられるのかと期待と不安が入り混じって声が小さくなった。同時に彼の一見、冷たそうに見える目が、子供っぽくきらめくのを見ると、彼のためなら何でもしてあげられると思った。

「肩をもんでほしい」

 拍子抜けして、くすくす笑い、「お安い御用だわ」と立ち上がった。「ちょっと寒いけど」 言いながらジャンバーを脱ぐよう促して、紺色の長袖Tシャツになった祥一の肩に指をあてた。とたん、ひどい凝りようにびっくりした。その原因は自分にあるのだろうと 気づいて、ゆうは最初やさしく、だんだん強く、一生懸命肩をもんだ。祥一はいつかと同じように、いやあの時よりずっと気持ちよさそうに目を瞑り、 心地よさに浸っているように見えた。祥一の背中は鷲が羽を広げたみたいに美しく筋肉が盛り上がっていて、肩幅はゆうの1.5倍もありそうだ。 頭は四角く、刈り上げた部分の髪は行儀良く同じ方向に並んでいる。

 かちこちだった筋肉がだんだん柔らかくなり、ずっと望んでいたように再び彼に触れているということが指先からすっと実感されてきた。

 幸せだった。

 いくつものすれ違いがあって、あれは運命の人ではなかったのだと諦めた日があって、 もう二度と会えないと絶望した日があって、 もう会わないと言ったのに毎日電話してきてくれた人に甘えざるを得ない自分がいて、 そして、それでも今ここで目の前にいて、ゆうの指先の動きにくつろいでいる男がいる。

 少し涙ぐんで、彼の頭がゆらりとゆがんだ。

「うーん」

「え?」

 祥一が尋常とは思えないうなり声を発して、ゆうは聞き返した。

「うーん」

 祥一は目を瞑ったまま、またうなっている。

「祥一君?」

 突然、祥一が目を開け、前を、そして勢い良く振り向いて、ゆうの顔を今はじめて会ったとでもいうように驚きの目で見た。

「どうしたの?」

「まただ。……いや」

 祥一は動揺を隠すように深呼吸して、噴水のほうをいったん見て、それからまた振り向いた。

「寝てた。たぶん、今は。ごめん。それでちょっと夢を見てて。ゆうちゃんと会えない夢。 それなのにゆうちゃんがどこかで泣いている夢なんだ。飛行機の中では目を開けたままそんな幻を見た。うなってたらしくて、となりの客に気味悪がられた」

 ゆうは思わず祥一の首根っこにしがみついて、彼の首筋に顔をうずめ、「ごめんなさい」と謝った。

「違うんだ。寝不足と、時差ぼけ。ああ、気持ちよかった。ありがとう。ゆうちゃん。人生で最高の誕生日プレゼントだった」

「ううん」

「さあ、どこかあったかいところに移動しようぜ」

 祥一はしがみついたままのゆうの腕をぽんぽんと叩いた。たぶん、祥一はかなり疲れているのだろう。 今日ここに来るまで、ゆうがおかしな願掛けを守ってしまうのではないかと少なからずおびえていたのだろう。 そもそも新宿駅の待ち合わせをすっぽかしてから、いったいどれだけゆうのことを心配し続けたのか。 彼のやさしさが悲しいほど嬉しくて、顔が上げられなかった。

 それから、白昼夢を見たり、一瞬で夢をみるほど寝入ってしまうという、今の祥一の体がひどく心配になった。 これから東京をあっちこっちデートするなんて、ダメ。それにまた明日からは仕事に戻るのにきまってるのだもの。この働き者さんは。

「私のアパートに行きましょうよ。お昼ごはん、作るし。それで、祥一君はすこしお昼寝したほうがいいわ」

 祥一はびっくりした顔でゆうをまじまじと見た。

 その視線が最初はゆうの瞳に、次に唇に移動するのを、ゆうはぞくぞくしながら見守った。

「そんなずうずうしいこと、できないって、断るべきなんだろうけど、 俺、そのゆうちゃんの作る昼飯と昼寝ってのに悪魔に魂を売ってもいいくらい惹かれちまう。 なんだか、ゆうちゃんに会ってから、どんどん力が抜けて……頭がぐらぐらするんだ」

「私は悪魔じゃないし、換わりに魂を取ったりしないから大丈夫。さあ、行きましょう。祥一君、今にもあの人みたいにベンチで寝てしまいそうな顔をしているわ」

 ゆうが、路上生活者を目で示すと、祥一は頷いて、横にあったパステルのふたを閉め、ゆうに渡した。


 小さくて、古くて、電気ストーブ1つしかなくて、立て付けの悪いアパートが、これほど暖かく感じられたことは無かった。祥一に食事を作り、合間にいろいろな話をして、昼食後の洗いものをしているうちに祥一が居眠りを始め、ふとんをかぶせ、また悪夢にうなりだした彼に、私はここにいるわ、とささやいて、ちくちくする頭をなでた。

 3時くらいに彼が起きだして、コーヒーを飲み、お菓子をつまみ、またとりとめもなく話をした。一緒に買い物に行って、一緒に夕飯を作り、味噌汁の中の、彼の切った巨大なジャガイモのかけらに笑い声を上げ、祥一がゆうの料理を褒めるのを、誇らしく思うより、幸せに思った。

 テレビを点けると、祥一は俺のワンルームにはテレビが無いんだ、と言うから、最近はやりの番組の解説をした。ひとしきり講釈が終わったあと、ビジネスホテルでは見るから、別にテレビを見たことが無いわけじゃないんだが、とつぶやくのに、早く言ってよ!と頬をふくらませた。


 9時。

「さあ、もう帰らないと」

 祥一が腰を浮かして、ゆうは引きとめることもできず、「駅まで送っていくわ」と立ち上がった。別れたくなかった。もっとずっと一緒にいたかった。彼のいないこの部屋に戻ったさびしさが怖かった。けれど引きとめる術を知らなかった。

 ふたりは無言で靴を履き、外に出た。

「祥一君、私の好きな場所があるの。ちょっとだけ、遠回りして行きましょうよ」

 ゆうは祥一を、星の見える暗い空き地に導いた。ついてくる祥一を確かめて、先に空き地に入って、空を見上げた。

「ここね。このあたりでは唯一暗くて、星が良く見える場所なの」

 昨日と違い、空にはたくさんの雲が出ていた。風は強くなく、数えられるほどの星も瞬いてはいなかった。

「ああ。残念。昨日はすごくきれいに見えたのに」

「うん。そうだったな」

「見たの?」

「ああ。きれいだった。ゆうちゃんに電話して星を見てみろよって誘いたかった。でも、見てたんだな。ここで」

「ええ。……昨日の星、ぴかぴか瞬いていたでしょう?」

「うん」

「どうして、風が強いと星は瞬くかのかな。祥一君、知っている?」

「それは、空気のせいさ。見えないけど、地球は大気に包まれている。密度で層をなしている。それが星の光を屈折させたり散乱させたりするから、瞬いて見えるんだろう。山の上のほうでは、空気が薄いから星はあんまり瞬かない。真空しんくうやってると、空気は、見えないだけでそこにあるってことを嫌ってほど実感するよ」

 ゆうの目に、なぜか、涙がふくらんできた。全然ロマンチックな話ではないのに、胸が痛くなった。昨日、同じ星を見上げていても見えない大気に隔てられていたこと。そして今また、その厚くて歪んでいる何かに隔てられようとしていることに。

 ゆうは、まだ星を見上げている祥一のジャンバーの袖をつかんだ。

「祥一君、帰らないで」

「…」

「泊まっていって」

 祥一はまじまじとゆうの顔を見た。幸いなことに、彼の顔にはなんのさげすみも、迷いも表れてはいなかった。彼は心底ほっとして、けれど真剣な顔をしていた。

「ありがとう。俺もそう頼みたかったけど、どう言ったらいいかわからなかった」

 ゆうが目を見開くと、祥一はゆうの冷たくなった頬を両手で包んだ。ずっとポケットに入れていたからか、ほかっと暖かくて、それから別の期待もあって、ゆうは目を瞑った。

「今別れると考えただけで、涙が出そうなんだ」

 男の人が言いそうにも無い弱音を、祥一が何の躊躇も無く発するのが愛しかった。彼は強いがゆえに、自分の弱さを知っている人だった。祥一の唇がゆうの唇に触れた。最初は遠慮がちだったのに、だんだん熱がはいってきて、祥一の手はゆうの髪の中にもぐりこみ、ゆうは祥一の背中に手を回して自分を支えた。空き地の前の道を人が通る気配を感じたし、唇の触れ合う音が思いのほか大きく、おまけにゆうの喉からびっくりするような悩ましい声がもれたから、ふたりはいったん顔を離して、目で互いに謝ってから、体を寄せ合ったまま、ゆうのアパートに戻り始めた。


 その夜、ゆうはいろいろなことを知った。

 男がどんなふうに女の体に溺れるのか。どんなふうに正気を失って、それでも時々は正気を取り戻して、そしてまた気が狂ったようになって、ゆうの体の隅々を自分の体に融合させようとするのか。

 そんなふうになった男から、自分がどう歓喜を得るのか。

 どんなふうに正気を失っていくのか。体が反応するのか。

 自分の体の形のわけ。ずっと嫌いだった大きな胸がどんなふうに自分のために役立つのか。

 男と女の体のわけ。

 空気に隔てられない、融合。

 そして、どんなに祥一がゆうのことを必要とし、ゆうが祥一を必要とし、二人が幸せを享受できるのかを。



「・・・・くん・・・・祥一君、起きて」

 平里ゆうの声がして、祥一は深い、このところ経験したことも無い深すぎるほどの眠りから、ゆっくりと覚醒した。自分の髪をなでている指先を感じた。額や頬にも。昨晩その滑らかさを受け止めた記憶が蘇った。彼女の指先を体中で。いつか夢見たように。

 薄目を開けると、服を着たゆうが彼女の一枚しかないふとんの枕元で祥一の上にかがみこんでいた。

「おはよう」

 部屋の電気はついていたが、外はまだ暗かった。5時か、6時か。コーヒーの香りがした。静かだった。遠くから車の走る音が雨音のように響いてくるだけだった。電気ストーブが静かに、あまり効果なく寒い部屋を暖めようとしていた。

「いったん、おうちに帰るなら、そろそろじゃない?」

 ささやくようなゆうの声が五感にしみわたった。彼女の存在に感動して、まじまじとその清々しい姿を見つめてしまった。眼鏡をしていなかった。昨日、彼女から取った眼鏡を自分がどこに置いたか思い出せなかった。まさかそこらへんでひしゃげていないだろうか。彼女は照れたように目をしばたいてもう一度祥一の額から後ろへ髪をなでた。

「気持ちいい。祥一君の髪。これ、もしかして、アメリカで切ったの?」

「いかにもって感じだろ。うしろはバリカンでばりばりやられた。荒っぽかったよ」

「床屋ウォッチャー、アメリカへ行く、特別編ってところね」

 祥一は声を上げて笑った。

「時間、どう?おにぎり作ったんだけど。コーヒーは?」

 時計は6時10分前で、結局、ゆうにパソコンを借りて経路検索をすると、南武線をまわれば40分で会社のもより駅へ着くことがわかった。駅からの歩きを含めても1時間と少しである。マンションには帰らなくても、会社で作業用のユニフォームを着れば済む。ゆうは、「なあんだ。もっとすごく遠いのかと思ってたの。もうちょっと寝かしておいてあげればよかったわ」と肩を落とした。

 祥一の部屋のユニットバスと同じくらいの小さな風呂場でシャワーを浴びて、彼女の作ったおにぎりとコーヒーの朝食を向き合って食べ、7時に玄関に立った。

「送って行きたいんだけど……」

 もちろん、そんなことをねだるつもりは無かったが、何か言いたそうに目を伏せるゆうに首をかしげて言葉を待った。すると、ゆうは二人しかいない部屋なのに、祥一の耳をひっぱって小声でささやいた。

「いたくてあんまり歩きたくないの」

 祥一は口をぱくぱくしてしまった。本当は謝りたかった。何か気のきいたことを言いたかった。しかし昨夜、ゆうが「絶対に謝らないで」と命じたのを覚えていた。男と寝たことの無かったゆうを相手に我を忘れて快感に溺れ、ゆうの涙に気づき体を止めた時、ゆうが、祥一の口に指を当てて言ったその言葉を、あんな時なのにはっきりと覚えていた。

 ゆうはそのいたみが、幸せだというように、にこりと笑って、片目を瞑った。

 本当に、何か気のきいたことが言えればいいのに。

 またしても口を開いて、それでも何も言えなくて、ぎこちない短いキスをして、ドアを開けた。振り向くと、平里ゆうは神々しいばかりの美しさで、祥一を見送って手を小さく振っていた。


 23区に近い住宅地らしく、幾人ものサラリーマンが駅に向かって歩いていた。彼らの流れに加わった時、祥一は頭のしんが冷えるような恐怖にとりつかれた。


 俺は、いつまた平里ゆうに会えるかわからない、あの過酷な仕事に、いったいどうやって前と同じように打ち込むことができるのだろうか。

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