第7話 最後の一行

 クライアントとの打ち合わせ中、バックの中で携帯が振動しているのを感じ、ゆうは心の中で嘆きながらも表情は変えず、客が説明する”オーダーメイドぬいぐるみ販売の難しさ”に相槌を打っていた。渋谷の裏通りにある小さな工房である。様々な布製の動物達が見物するようにこちらを見つめている。ゆうは彼らを一瞥してから中年女性二人の店主に視線を戻した。髪を両側で三つ編にした若作りの女性と、額の広い芸術家タイプの色黒の女性である。

「確かにぬいぐるみは立体ですから、それこそ絵よりも人の考えているものを具現化することは難しいでしょうね。少しぐらいイメージと違っていることもありますってことをきちんと謳うこと。そんな注意書きを凌ぐ魅力をアピールすることが大切ですよね」

「ええ。つい安請け合いしてクレームがつくのよね。ホームページでそこらへん、うまく説明できるといいわね」

 おそらく安請け合いの主である三つ編の女性は、相棒の皮肉っぽい言葉に苦笑いした。そんな応酬にも慣れているのだろう仕事仲間の姿に、今、隣にいない関口を思い出し、ゆうの胸はしくしくと痛んだ。

「大丈夫。ご希望通りうまく作りますから。って、私も安請け合いしてる?」

 ゆうが肩をすくめて丸い眼鏡の奥の目玉をくるりと回し、「イメージと違うものができることもありますよ」と小さな声で言うと、関口の代理だと言って訪問して以来、不安げだった二人はようやく打ち解けてクスクスと笑った。

「では、二日後にはデザインのラフスケッチをいくつかお送りしますので、制作方法の説明文と会社概要の原稿、進めておいていただけますか」

「わかりました。よろしくお願いします」

 二人は丁寧に頭を下げ、ゆうを戸口まで送ってくれた。関口さん、なんとかうまくやってるわ。心でつぶやいて木目の浮いた扉を押し開ける。

 と、目の前を風花かざはなが横切ったように思った。幻よね。ここは十二月に入ったばかりの東京。たしかに凍りそうな風は吹いているけれど。ゆうは白くくすんで低い空を見上げた。

 何度かまばたきをしてから歩き出し、おもむろに携帯電話を取り出す。

 発信元不明の着信記録。祥一君。あなたなの?

 ゆうはふうっとため息をついて携帯をポケットにつっこみ、食べ物屋の匂いがあちこちから漂ってくる小道をふらふらと歩いた。お昼抜きなのに、お腹、すかないな。

 ゆうの足はひとりでに代々木公園のほうに向かい、ただ歩き続けていたい、という衝動にまかせてぼんやりと足を動かし続けた。

 そして、あの日以来、佐野祥一と交わした会話と、彼と交わしたメールをゆっくり反芻し始めた。


 それは10月の終わりの携帯電話に始まった。

 

「平里ゆうさんですか。私は佐野、と言います」

「!…覚えています。あなたの声。あの時、あの時は…ごめんなさい。本当は私…」

「謝らなくていいよ。事情はだいたい、平里さんのお父さんから聞いたから」

「お父さん!?」

「さっきまでバーバーサトにいたんだ」

「また修理のお仕事のために?」

「いや…若い理容師さんに会いに」

「えっ!」

「先月は、ごめん。俺、山に登ってて。知らなかったんだ。次の日まで。それで、もう縁は無いものと諦めてしまった」

「山に?私こそ、ごめんなさい。責任を預けるようなことして」

「そうだな。すごく腹がたったよ。携帯電話をぶん投げて壊しちまった」

「ええっー!」

「冗談」

「えっ!?ふっ、うふふ。あははははっ!もうっ!」

「ありがとう」

「え?」

「あの日、理容師さんでもないのに、俺の髪を洗ってくれたこと」

「肩ももんだわ」

「そうだったな」

「私も、ありがとうございます。私に会いに、そんな遠い場所に来てくれたこと」

「俺、明日は四国に移動するんで、今はいつと約束できないけど、もう一度会いたい」

「わたしも」

「じゃ、これから電車に乗るんで」

「今、あの駅なのね?」

「うん」

「北のほうに見える大きなケヤキの木はまだ紅葉している?」

「ああ。赤と黄色が混じり合っていて、きれいだ」

「電車の音ね。サンダーバードかな?」

「音だけでわかるのか?君って鉄道オタク?」

「やあね。よくその時間の電車で帰るから時刻表を覚えているだけよ」

 

「佐野さん」   「平里さん」

「え?」   「ん?」

「下の名前、教えてもらえますか?」  「ゆうさん、って呼んでもいいかな」

「ゆうちゃん、のほうが良くない?」  「あれ、まだだったか。祥一だよ」

「祥一君。またね」  「また。ゆうちゃん」



 それから、数ヶ月前と同じように、メールのやり取りを再開した。たくさんの、たくさんのメール。ひとつひとつに一喜一憂し、会えないながらも相手の存在が大きくなり、二人の距離が近づいていくのをひしひしと感じた。



ゆうちゃん。


 やっと寒くなってきたな。東京はどうだろうか。今松山のビジネスホテルでこれを書いている。

 たった6階なんだけど、カーテンを開けると夜景が美しいんだ。

 地方都市に行くと、闇と光のコントラストがはっきりしているよ。

 ほんの少し目を遠くに移しただけで真っ黒い山や、真っ黒い海が光の町を取り囲んでいて、世界はとても小さく見える。

 俺はこんな町が好きだ。

 

 閉ざされた町で閉ざされた部屋に閉じこもって、ひとりでいることが。さびしいと思ったことは、正直一度も無い。

 

 この前、関口っていう人のことが書いてあったね。俺が3日間メールを出さなかったから、彼と出会えたのだとか。

 こんなことを書いて君を怒らせてしまうかもしれないけど、俺はその男に嫉妬してしまった。

 毎日君と会えるその男性に。君と同じ仕事を共有して議論を戦わせることができるということに。


 それで、じゃあ、俺が彼と置き換わりたいかというと、そうではなくて、むしろ君が小さなアパートでひとりを満喫しているというのと同じ楽しみを感じているという共通点で、その関口という男に対抗しようとしているんだ。


 矛盾している?そうかもしれない。


 佐野 祥一




 祥一君


 もう11月なのね!東京はまだ寒くないです。私なんて二日にいっぺんは半袖。違いはニットに変わったってことくらいかな。

 東京には冬なんか無いみたい。私は冬も雪も好きだから、ちょっとさびしいけれど、東京は嫌いではないの。

 私にとっては東京こそ閉ざされた場所。私のプライバシーを守り、私の個性を認めてくれ、ほおっておいてくれる、素敵な場所なの。


 祥一君が日本のあちこちを旅して感じている孤独を、私は東京にいることで毎日感じているの。

 悪い意味の孤独じゃない。私たちが愛している孤独。(あらら、私たち?こんな呼び名は時期尚早と申せましょう。)


 意外だったわ。嫉妬を感じた、なんて書いてくれたこと。

 祥一君はそういう感情、隠す人かなって思っていたの。かっこつけしいって言うのかな?

 わあ、怒らないでね。私、最近言いたいことを言う人になってきたの。

 それはね、関口さんの恋人の影響。彼女のことについてはまた今度ご紹介します。

 ああ、もう眠い。おやすみなさい。

 

 平里 ゆう




 ゆうちゃん

 

 今日はなんとか早く仕事が終わったぞ。

 だいたい俺のメールを待って夜更かしするくらいなら、どうして先にメールを出して、寝てしまわないのかなあ。

 

 さて俺はよく人に「クールだ」って言われるんだ。おお、書いただけで手が震えるほど恥ずかしいぞ。

 それよりは、ゆうちゃんに「かっこつけしい」って言われたほうが100倍ましだ。

 

 男は黙ってなんとやら、と言うけれども、俺は言語能力の発達した人が羨ましいよ。

 俺は昔から、一人でもそもそ機械いじりだの調べ物だのするのが好きだったし、今でもそうなんだ。

 それでいて客先の技術者と話し込んだり、同僚と飲みに行ったり、知らない町の床屋で知らない親父(娘さんでもいいけど:笑)と会話を交わすのを、楽しみにしている。

 

 もちろん、今はゆうちゃんとのメールのやりとりが一番の楽しみだ。

 こう書いて即座に消去したくなるけど、とりあえず読み返さないで目をつむって送信ボタンを押しちまう俺はクールでも、かっこつけしいでも無い、と思う。君がそういう男が好きなんだったらがっかりだろうね。

 会って、少し話してみれば、ばれると思うけど。  

 というわけで、あまり相手への妄想が膨らまないうちに会ったほうがいいよな、俺たち。(この呼び名も時期尚早かね?)

 次の次の日曜なら今抱えている仕事が終わっていると思うんだ。今週末はどうも危ない。そちらの都合はどうだろうか。


 佐野 祥一




 祥一君


 言っておきますけど、祥一君のメールを待って夜更かししたことは一度もありません!

 私だって毎日忙しーく仕事してましてですね。ほおっておいたら徹夜だってしてしまうんだから。

 それで、いつ寝るかって時間を祥一君から来るメールに返事を書き終わった時間に合わせているだけなの!

 

 それに、膨らんでいる妄想ってどんなんですか?私は妄想なんてしてません。

 ネガティブなかんぐりはありますけど。

 祥一君がすんごい飲ん兵衛なんじゃないかとか。実は女たらしなんじゃないかとか。ネットオタクじゃないかとか。

 

 失礼しました。


 だって、嬉しすぎて。

 やっと会えるんだってこと。

 これって、やっぱり何かの妄想が膨らんでるからこんなに嬉しいの?そう思う?

 次の次の日曜日ね。もちろん、都合は良いですとも!


 平里ゆう




 ゆうちゃん


 ははは。そうか。女性は妄想なんてしないんだな。

 男は違うぞ。いろいろ妄想するものなのだ。


 しかし、飲ん兵衛、女たらし、ネットオタクはよかったな。なんだか全て当てはまるような気がしてきたよ。

 今はちょっと仕事が忙しすぎて発揮できてないだけかもな。


 おおっと、1時を過ぎてしまった。今さっき東京に帰ってきた。まったく、羽田からここまで2時間もかかるんだ。

 飛行機は遅れるし。手荷物であずけた工具バックはなかなか出てこないし。

 いかん。愚痴モードだ。

 

 再来週の時間はまた後日打ち合わせよう。

 

 佐野 祥一




 二人が会う約束をしたのは、11月中旬の日曜日だった。ゆうはすっかり舞い上がって、とうとう関口にも佐野のことを打ち明けるはめになり、ずいぶんひやかされたものだった。

 けれど、約束の日曜日を前にした木曜の昼ごろ、思いがけず祥一から電話が入った。

「佐野です」

「あっ!」

「…こんにちは」

「ん」

「今いいかな?」

「はあ、はあ、は、はいっ!平里です。ごめんなさい。今、口にものが入ってたの。お昼食べてたから」

「それは、悪い。急いで連絡したかったから」

「いいの。何?」

「ごめん。今週の日曜は都合が悪くなった」

「…」

「実は急にアメリカに行くことになって。日曜のフライトなんだ」

「…」

「もしもし?」

「あ、足が…へなへなになって、立てないわ、祥一君」

「えーと、まず、なんで立つ必要があるんだ?」

「煮物…作ってて」

「本当だ。なんだか音がしてるな。へなへなしてる場合じゃないぞ。ふきこぼれてガス漏れになったら大変だ。頼むから気を取り直してくれ」

「ずっと行ったきりなの?」

「んなわけないだろ。せいぜい一週間…ちょっと向こうでトラブってる装置があるんだ」

「じゃあ、一週間後には会える?」

「それは…保障できない」

「…ぐすっ」

「な、泣いてんのか?…わかった。こんなずうずうしいこと、頼みたくなかったけど、日曜日、新宿で会って、一緒に成田エクスプレスで成田空港まで行って、俺を見送ってもらうってのはどうだ」

「えっ!?うん!それいい考えだわ!」

「じゃあ、俺がチケット取っておくから。時間はまたメールで連絡する。それでいいかな」

「うん。ありがとう」

「いや。実は今日の朝、その話が来たとき、俺もへなへなになったし。いっそのこと断ってやろうかとも思ったんだけど、俺じゃなきゃ困るって言われてさ。ごめん、俺はそういう奴なんだよ。仕事中毒かもな」

「たぶんね。でも祥一君のそんなとこ、す…いいって思う」

「ああ。そう言ってもらえると助かる。じゃあ、ゆうちゃん、またな」

「うん。またね。はあ。煮物、ちょっと焦げちゃった」


 夕方のフライトだという祥一と10時に新宿で待ち合わせの約束をしたゆうだったが、その日


「祥一君、ごめんなさい、ちょっと大変なことがあって、今日はどうしても行けないの」


というひとことを祥一の携帯の留守録に残しただけで、新宿駅に行くことはできなかった。

 祥一は何度もゆうに電話をしたらしい。駅から、列車の中から、成田から。しかしゆうは携帯の電源を切っていて、祥一は一度もゆうと言葉を交わすことができずにアメリカへと旅立った。トランジットで降り立ったダラスの空港からも電話を入れたというが、それは夜中の3時だったわけで、ゆうは携帯をバックの奥につっこんだまま疲れでぐったりと寝入っており、祥一がアメリカのホテルでゆうのメールを取り、かろうじて何が起きたのかを知ったのは、ゆうと待ち合わせをした10時の新宿駅から20時間も後のことだった。


 祥一君


 今日はごめんなさい。事情だけご連絡します。

 昨日の夜中、あの仕事先の関口さんが刺されたの。お腹のところ。

 今日はずっと手術で、わたし、病院にいたの。

 命は取り留めたんだけど、どんな様子かはまだよくわからない。面会させてもらえてないから。


 彼が刺されたのは、私のせいなの。


 ゆう


「ゆうちゃん!?」

「あ…祥一君…メール…」

「見たよ。今さっき。こっちは日曜の夜10時。そっちは?」

「…わからない」

「月曜の昼12時だろ。おい!しっかりしろ!なんか酷いことがあったみたいだけど、今、どこにいるんだ?関口さんはどうした?」

「…今、関口さんのオフィスにいるの。仕事、何から始めていいかわからなくて…電話番だけ。関口さんは病院。まだ面会謝絶みたい」

「どうして関口さんは刺されたんだ。それがどうしてゆうちゃんのせいなんだ?」

「八千代組の美津子さんが…」

「八千代組?なんだかヤクザみたいな名前だな」

「そうなの。私、関口さんと知り合う前に、たぶん……暴力団の連絡網を作る仕事をしたの。一度だけ関口さんとそこを訪ねて関口さんは美津子さんに名刺を渡した。それが残っていて……」

「その連絡網にミスでもあって逆恨みされたのか?そりゃずいぶん……」

「違うの。その連絡網を使った美津子さんのやり方はすごくうまくいったらしいの。組織全体の仕事がうまくいって、他のヤクザの縄張りを荒らし始めるくらい。それで、彼女の組にスパイが入って、情報をあやつっていた美津子さんの存在と、連絡網の存在が他の組にばれて、美津子さんのオフィスの機材は全部壊され、関口さんの名刺が誰かの手に渡ったって。たぶん、あの連絡網を復活できなくするのが狙いだったのだろうって」

「……うわ。なんだかわからないけど……凄まじいな」

「私が……あんな仕事しなければ……」

「……」

「祥一君。昨日は待ち合わせに行けなくて、ごめんなさいね。ただ……私もう……」

「どうしてなんだ」

「え?」

「どうして、俺が日本にいるうちに、助けを求めてくれなかったんだ。そんな話だったら、俺、飛行機をキャンセルしてその病院に駆けつけていたのに。君の気持ちが落ち着くまで、そばにいてあげられたのに。どうして……」

「そんなことできない。だって……」

「俺たちはまだ一度しか会っていない」

「うん」

「それでも、俺にいて欲しいと思わなかったのか?誰かにそばにいて欲しいとは思わなかったのか」

「思わなかったわ。……私、恥ずかしくて、恥ずかしくて。自分の軽率さが、許せなくて。誰にも会いたくも話したくもなかったの。もう、祥一君にも!」

 

「……わかるよ。俺も、同じようなことをしでかして、同じように自分に愛想をつかした。人と関わるのが怖くなった。それを誰に話すことも、楽になることもできなかった。だいたい、俺の場合、その人は死んでしまったんだからな」

「……」

「俺は、その人の死に責任を感じて、彼の残された奥さんと子供に会いに行った。謝るために。けれど、その奥さんは、謝る俺をおかしいと言った。そんな責任を感じるいわれはないと。責任はよっぽどその人の妻であった彼女にあると。俺は依然として自分の罪を否定できなかったけれども、彼女の罪悪感も理解できた。そして、彼女がその責任をもひっくるめて、死んだ夫との結婚を後悔していないと言った時、俺は誰かと深く関わることを恐れてはいけないと思った。それを恐れていたら、自分が幸せになることもできないし、人を幸せにすることもできない」

「たぶん、私とは違う。関口さんは本当に私のために刺されたんだもの」

「違わない。話を聞く限り、その事件は君の責任で起こったわけじゃない」

「ううん」

「そ、れ、よ、り!」

「きゃ」

「失礼。それより、北林さんは今、どうしてるんだ?話したのか?」

「北林さんは、たぶん今日も病院にいるわ。面会できるのを待ってる。北林さんは、昨日病院に駆けつけてきた時、私に……”刺されたのが平里さんじゃなくてよかったわ”って言ったの」


「怒って欲しかった。ひっぱたいてくれてもよかったのに。いつもどおり大人らしく、優しく私を慰めてくれたの。……それから、関口さんのご両親に気を使って廊下のはじのほうで待ってらっしゃったの。だって、関口さんはまだ北林さんをご両親に紹介していなかったし。北林さんは年が上だってこと、気にしてらっしゃるから」

「ゆうちゃん。北林さんより気をしっかりもって、彼女を助けてあげることができるか?」

「……」

「北林さんって人が今一番つらい、そう思うだろ?」

「ええ」

「それから、ゆうちゃんもつらい。それは俺がよくわかる。ゆうちゃんを慰めるのは俺の役目だ」

「……」

「もし、関口さんに何かあっても、その罪ごと俺はゆうちゃんを引き受ける。いつか、俺もさっきの話をもっと詳しく話すよ。その時には、俺を慰めて、許して欲しいんだ」

「……」

「また明日、電話する。もし関口さんの容態がわかったら、メールくれると嬉しい」

「……」

「……ゆうちゃん」

「あ!」

「どうした?」

「美津子さん……今一番傷ついているのは彼女だわ!私、彼女から電話をもらって真相を知らされて、自分への怒りに我を忘れてしまった。でも、あの時美津子さんは、今回のこと、全部彼女に責任があるって、おとしまえはつけるわって……ああいう人のおとしまえってどういうことなの?指を切っちゃったりするの?」

「わ……わからん」

「美津子さんに連絡しなくちゃ!」

「そんなことをしたら今度は君が狙われるんじゃ?!」

「ふん、インターネットを利用した連絡網をつぶすのにオフィスのパソコンを壊して、ウェブデザイナーの抹殺を企てるような、ローテクな人たちに私と美津子さんの通信がばれるものですか!」

「……君って人は……」

「こんな時に笑わないで」

「いいか、ゆうちゃんに何かあったら、俺は今度こそ自分を許せない。俺は絶対にもう一度君と会いたいんだ」

「祥一君……私、昨日、もう祥一君には会わないって、心に決めたの。そのかわり、関口さんを助けてくださいって願懸けをしたの」

「……」

「ごめんなさい」

「わかった。今、俺は地球の裏側にいる。その願懸けにはもってこいだ。二度と会わない。それで、ゆうちゃんの気がすむのなら。でも、この件が落ち着くまで、俺からの電話 を無視しないで欲しい。もし、君が誰の助けも無しに大丈夫だとわかれば、俺はもう君に連絡しない」

「……」

「いいな」

「……うん」


 祥一君はあの時の約束を守るだろうか。私は守ろうとしているのだろうか。公園の木々が作るまだらに揺れる夕闇をあてどなく歩きながら、ゆうはもう一度携帯電話を取り出して、着信記録に目をこらした。関口は全治一ヶ月と診断され、最近は病室を抜け出しては、ゆうに電話で仕事の指示をしてくる。ただ関口の携帯電話なら発信元不明にはならない。

 祥一は朝と夜、アメリカでの夕と朝に毎日電話をくれた。「ゆうちゃん」、名前だけを呼んで、ゆうのすすり泣きを聞いていてくれたこともあった。「今日は何を食べた?」食欲が無いと口をすべらせたゆうに一日に食べたものを列挙させたこともあった。アメリカの食事にうんざりしているらしく、しまいには聞かなきゃよかったなどとつぶやいていた。アメリカに旅立って三週目、仕事は長引き、いつ帰れるかわからないと苛立ち混じりに告げた。

 今日の朝は電話がなく、さっき着信した時間がアメリカの夜中の1時だったことを考えると、だいぶ遅くまで仕事をして電話してきたのかもしれない。あるいは、昨日出したメールのせいで電話をためらったのだろうか。それとも彼があの約束を守ろうとしているなら、着信は彼ではないのかもしれない。

 彼の地は、今、夜中の3時。

 あの人は安らかに寝ているのでしょうか。

 仕事に疲れて、体調を崩したりしていないでしょうか。

 私はもう大丈夫というメールの言葉を信じているでしょうか。

 葉の落ちた樹木の向こうに、明治神宮の大きな鳥居が見え隠れする。

 私の願いを聞いてくれた神様は、もし私が捧げたものを取り戻そうとしたら、どんな罰をくだされるでしょうか。



 やっと帰れる!

 すべての仕事を終えて米国側の担当者との打ち合わせとディナーを済ませ、ホテルに帰った祥一は嬉しさに叫び声を上げそうになった。チケットの手配の関係で出立は明後日となった。明日は日本への土産でも探してのんびりしろよ、と別の日程で来ている営業の矢口にねぎらわれている。

 今回の仕事は以前矢口との打ち合わせに加わった米国から日本へのチャンバーの移送に関わるものである。移送前に性能チェックをしようと装置を立ち上げたら動かない、動かないものを大金をかけて日本に送っても仕方が無いから、まず動くようにして欲しい、それから移送前の養生も手伝って欲しいという、まったくわがままな客の依頼だった。

 しかし、その旧式装置の移送後、今度は十数億という新型の装置を納品する計画が走っており、ラティステクノロジーとしては技術サポート力の証明という意味でもこの移送を成功させねばならなかったのである。

 二週間と三日。

 その間に平里ゆうの身に起こった出来事の数々と、それを乗り越えた彼女の精神力と行動力を思うとき、彼女は強い女性ひとなのだと判るのである。きっと、彼女が主張するようにもう二度と祥一に会わなくても、都会でたくましく生きていけるのだろう。

 昨日、受け取ったメールには、関口が車椅子で外に出られるようになり、北林はそれを見届けて、彼女らしく予定されていた料理取材に旅立ったこと。八千代美津子の落とし前、というのは、あの連絡網を再構築し、それを利用して他の組織を壊滅、あるいは吸収することで、彼女は今、海外を拠点に動き出したのだと、ゆう自身も呆れているような報告。そして、この二週間、私を励まし続け、アドバイスを下さったことに、とても感謝しています、というよそよそしい謝辞が付け加えられていた。最後の行には、私はもう大丈夫です、と。


 帰ってすぐ電話したときには、彼女は出なかった。仕事中だったのかもしれない。関口さんのぶんまで働くわ、と意気込んでいたから。

 祥一はゆっくりシャワーを浴びて、ちらかりまくった部屋を出立のために少し整え、こちらに来てから一度も見ることの無かったテレビを点けてぼんやりながめ、どうしようもなくまぶたが重くなりはじめたころ、もう一度受話器を取った。


「もしもし?」

「ゆうちゃん」

「祥一君」

「あさって、いや、もう、明日だな。こっちを出て帰ることになった。土曜の夜、東京に着く」

「……そう」

「次の日、待ち合わせをしよう。あの場所がいいかな。日比谷公園の大きな噴水の前。時間は、午前10時ってとこか」

「えっ!?」

「人間、だれでも間違いはある。気が動転していればおかしなことを思いつく。床屋でもないのに人の髪を洗ったり、この世で一番会いたい人間に会わないと神に誓ってしまったり」

「……」

「待ってる。もし、本当に俺に会いたくないなら、携帯に電話をくれればいい。あさって、10時に。メール連絡はなし。俺、転送を切ったから。送ってくれても見られない」


 祥一は、ホテルの電話の受話器を置いた。

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