第6話 幸せにできる人
「北林先生、新学期開校おめでとうございます」
助手の女性の音頭に合わせ、パンツスーツに身を包んだゆうは会場の片隅でシャンパングラスを持ち上げた。
ビーハウス・クッキングスタジオ、新学期開校パーティーの真最中である。白いクロスで覆った調理台の上に色とりどりの料理が並んでいる。卒業生、新入生たちに囲まれていた北林が人垣から抜け出てきた。
「平里さん、おかげ様で定員が埋まったわ。どう?ボーナスもらった?」
幸いにもホームページによる宣伝が功を奏したのだ。
「いえ。林章堂との間にそういう約束はなかったし。でも、もしよろしければ今後のメンテナンスはストレイトトラックにやらせてください。私、もう柳田さんとは仕事しないと思うので」
ぬけぬけと請負先を裏切ったゆうに、北林はにやりと笑って頷いた。その時、突然目の前を鮮やかな色彩がさえぎり、
「新学期、おめでとうございます」
聞きなれた声にぎょっとして顔を上げると、関口が大きな花束を差し出していた。
「ありがとう」
北林と関口は無言で視線を交わした。まるで引き合う磁石が必死に抗っているようで、ゆうの目は疑問符でいっぱいになった。
「お花、置いてくるわ」
北林は唐突に社長室に向かい、ゆうにひじで小突かれた関口は、「何も言うな!武士の情けと思って見逃してくれ」しかめっ面をしながら片手で拝んでいる。
思い起こせば関口が無謀なほどの条件でここに営業をかけたことも、ゆうを雇いたいという理由で北林を再訪したことも、北林の真似をしていたゆうに、彼氏はいないのかなどと聞いたくせに、その後そんなそぶりはみじんもないことも、関口が北林を好いていたのだと思えば、すべて合点がいく。
でも、それって不倫じゃないの?口を開きかけた時、戻ってきた北林が赤ワインを口に運びながらささやいた。
「平里さん、今日、私の家に泊まりに来ない?うち、大きなジャグジーがあるのよ」
「は、はい」
とまどいながらも興味と嬉しさが勝って、すぐさま頷いた。関口は一瞬けげんな顔をしたが、まるでそれが目的だったように料理をつつき始め、北林は料理をほおばる関口の横顔に暖かな視線を投げかけた。
パーティーが終わり、駅三つ離れた北林のマンションに着いたのは十一時過ぎである。北林は独身なのだ。その明らかさに唖然とした。二十畳はあるリビングを中心に、料理家らしい個性的で大きなキッチン、書斎、寝室、そしてジャグジーのついた風呂が配する豪華なフロアは、まさに成功した女一人の城。整然として、女らしくて、それでいて生活臭が無い。
「平里さんて、胸が大きい?」
北林が湯気の向こうから言い、ゆうは胸を両腕で包んで顎まで沈んだ。人が五人は入れそうな円形のジャグジー。泡の音が充満し、空気まで泡立っているようだ。
「もう、そういうとこ、相変わらずね。大丈夫。私も近眼だから、良く見えない」
北林はジャグジーのふちに頭を預け、細長い足がゆうの目の前にひょっこりと顔を出した。
「あなたって不思議な人ね。気が小さそうなのにひとりで東京に出てきて自営業をやっているなんて」
「私の家、床屋なんです。町の男の人の雑談の場所みたいなところ。それで常連の人たちは私を話のネタみたいに思っていて、自分の子供とか孫から聞いた、私の学校での失敗談とか、友達と喧嘩したこと、男の子に泣かされたこと、全部両親にバラすんです。隠しておけることなんてひとつもなかった。中学高校になると、ほとんど店に足を踏み入れなかったけど、店の声は私の部屋に筒抜けで。毎日なんかしら私に関する話題が聞こえてきました」
思い出しても腹が立つ、というように、ふざけて北林の足に湯をひっかけながら続けた。
「ゆうちゃんはすげえボインになったなあ。ちょっと足はふてえなあ。あのくせっ毛はおやじの腕で何とかならんのかねえ。でもちょっと暗いねえ。もう少し愛嬌があるとねえ」
「うわー、最低!私だったらその客たちと大喧嘩してるな。なるほど、あなたの原動力はそこから逃れるためのエネルギーか」
口にできたことにほっとして、それでいて、この話を最初にするはずだった男の記憶が首をもたげそうになり、慌てて泡の心地よさに心を漂わせた。
北林が泳いで隣にやってきて、近眼のふたりが密談のように顔を近づけると、ゆうは純和風の雛人形に似た北林の頬に自分と同じそばかすを認めて嬉しくなった。
「でも、何かきっかけがあったのでしょ?」
「きっかけ?」
「あなたが髪を切って、人が変わったみたいに社交的になったこと。男と何かあったの?」
たじろぎながらも今はその率直さが嬉しいと思った。北林のような豪快さに憧れていた。
「別に何もありません。好きになりかけた人はいたけれど、縁が無かったみたいで」
「ふうん。それって、関口君のことじゃ、ないわよね」
え?と、北林を見つめ、切れ長の瞳に女性らしい優しさと憂いを見つけてどきりとした。こんな完璧な女性でも恋に悩むことがあるの?それも関口さんを相手に?
ふと、教室で見つめ合っていた二人を思い出した。明るくて前向きで、年の割には落ち着き払った関口が、どちらかと言えば偏屈で我ままな北林を、あの大きな体で包み込むように愛するのだと思えば、不思議なほどしっくりとして、その想像に笑みを抑えきれなくなった。
「違います。どうして私なんかに遠慮する必要があるのですか。関口さんは北林さんを好きなんですよね。だいたい私のことを雇いたいっていうのだって、北林さんに近づくための口実だったのかも。それに、北林さんには年下の男がすごく似合います。大人の魅力がありますもの」
勢いこんでまくし立てると、北林は片手でゆうを制した。
「彼の気持ちは知っているわ。あなたを雇いたいって話は別だってことも確認してある。だから紹介したの。でも」
「私が片思いしているなら譲ってくださる?」
北林はまいったな、という顔でゆうを見た。
「そんなことしたくない。できないけど……」
長い髪を胸の前でもて遊んだ。
「がんばって手に入れたものが多すぎて、今更失いがたいものを手に入れるのが怖いのよ」
北林の躊躇に驚き、そして失いがたいもの、という言葉の響きに胸がきゅんとした。
「ずっと独身でいらしたのですか?」
「うん。料理を仕事にしているから誤解されるけど、私は男の料理人と同じ。特定の人のための料理を作る人間じゃなかったの。ねえ、料理を作るとき、何を考えている?いろいろな工夫や、手順、どんな調味料の組み合わせや量の加減がその料理の一番の完成形だろうか、って考えない?」
「はい」
「でも、誰かのために料理をするとき、料理の完成度より、その人の好みを考えながら作るのね。それは全く違う料理。私、恥ずかしながら、最近それに気づいたわ。気づかせてくれたのは、彼なの」
北林の素直な告白が、ゆうの封印を解き放った。想いが膨張し体に満ち、吐き出さなければ体が泡となってはじけてしまいそうになった。
「私も期待していました。もう一度彼に会えたら、何かがわかるかもしれない。何かが変わるかもしれないって」
唐突に、はじける泡を凝視しながらつぶやいた。
「でも、会えなかった。私には運を天にまかせるような中途半端な勇気しかなかったから。彼を一日待つうちにわかったんです。誰かがもたらしてくれる幸運を待つだけの自分、求めてもらおうとするばかりで自分からは求めていない自分に。だからもう、私、そんな自分は捨て去りたくて」
北林は目を細めただけで何も聞かず、湯気のただよう天井を見上げた。
「それで、あなたはその男のこと、諦めたの?」
「え?ええ……」
「私はどうしようかな。これからも一人で生きていったほうが賢明なのかな」
ゆうは息を呑み、本当に迷っているらしい北林のぼんやりした横顔を食い入るように見た。
「いいえ。関口さんに、答えてあげて欲しいと思います。賢明なんて、つまらないです」
すると北林はすがすがしい微笑をゆうに向け、まるで、じゃああなたもがんばりなさいよと言っているように鼻をつついた。
二時間以上電話し続けた耳がずきずきする。祥一はもう何度目か、右から左に受話器を持ち変えた。夜十二時、仙台のビジネスホテル。相手は長野に行っている入社二年目の相馬だ。もう一週間、性能の出ない装置と格闘しており、祥一のアドバイスを必死に聞いている。
「了解です。佐野さん、明日はその線をあたってみます」
電話を切りそうになった相馬を、あっ!とさえぎった。
「ちょっと待て。そっちのは一九九八年導入の奴だったよな。その年のマシンにはしかけがあったような……」
「しかけ?」
「調整のこつみたいなもんだよ」
自分にいらついて声にとげが出た。相馬は縮み上がっているかもしれない。これまで無意識に整理し、装置に向き合えばスルスルと引き出されていた情報が、あまりの忙しさと遠隔操作の難しさから、頭の中でガタピシとつかえている。祥一の仙台での仕事も今日で三日目。経過は芳しくなく、長野に駆けつけることもできない。
山田が去ってもうすぐひと月になる。
実はその後一日も休んでいなかった。いつもどこかで休日返上で修理にあたる部員がおり、勢い応援に行かずにはいられない。なにより祥一は一番腕が立ち、そして独身だった。
「悪い。ちょっと待ってくれよな。思い出すから……」
どうしてそれらの"コツ"を記録しておかなかったのかと後悔するが、そんな面倒なことをしていたら、これまでの祥一の仕事量はこなされていなかったろう。
結局、"コツ"を自ら習得した部員を少しずつ増やしていくしかない。それを手助けするのが俺に課せられた新たな責務なのだ。もしかしたら最強のサービス部隊なんて呼べるようなやつができて、ラティステクノロジーの装置の稼働率が目に見えて上がる日が来るかもしれない。そう想像するとぞくぞくする。
ようやくいくつかの"しかけ"を相馬に伝えて電話を切った。疲れきっていて風呂に入る気力がない。明日の朝、シャワーを浴びよう。裸になってベッドにもぐりこんだ。暗い、何も無い闇の中に落ちていくような眠り。何かを考える時間も、思い出す時間も無いうちに……
十月はまたたくまに過ぎようとしていた。東京のオフィスで事務仕事をこなしていると、人事の女子社員が机の横に立った。祥一の机はいかにも管理職らしく、他の机に顔を向けている。出張ばかりの仕事なのは救いだった。プレッシャーに苛まれずにすむ。今日も加藤が机に向かっているだけだ。
「佐野さん。先週はお休みを取りましたか」
優しい丸顔をした彼女は、わざと威勢をはっているように聞いた。
「あ?いや、M社の仕事が長引いて、結局終わったのが日曜の午前中で……」
「心配です」
「ええーと、何か規定にひっかかるんだったけ?管理職でも?」
「違います。佐野さんの体が心配なんです。山田リーダーが辞めてから、ずっと働きづめですね。できるからといって全てを背負っていては体を壊します」
人事って確か、二フロアも上の階にあるんだったな。てことは、この人は個人的に俺のことを心配してくれているってことか。ああ、そういえば頬が赤い。
「俺、体力あるし、三年前だったか、S社の納品トラブルで二ヶ月休みなしってのも経験してるから、大丈夫。人事のやっかいになるような事はない」
おもいきりそっけなく言うと、彼女は落胆をあらわにして、小さく頭を下げて帰っていた。加藤と目が合い、椅子ごとやってくる中年男にばつ悪く肩をすくめた。
「おまえに気があるんだろ」
「でしょうね。迷惑です」
「うえ!そんなこと言う奴だったのか、おまえ!」
「人の仕事に口を出して欲しくないだけです」
「そりゃそうだが、あの子は……」
「俺は彼女のこと顔しか知りませんし、どうと思ったこともないんで。変なそぶりは見せたくなかったんです」
腕を組んで厳然とした口調で言うと、加藤はぽかんとしてのけぞった。
「あの、携帯メールの彼女に焼きもちやかれたんか」
「そんな彼女はいません」
「だったら……」
サービス部門の代表電話が鳴り、祥一は受話器を取った。加藤は口をとんがらせたまま引き下がる。電話は新たな修理の依頼だった。
「加藤さん、T社の東海工場、定期メンテナンス後の経過が思わしくないんです。ちょっと見てきていただけますか。早いほうがいいそうですけど、都合があれば掛け合います」
「了解。いいよ、今日入って明日の朝一で始める」
その旨客先に告げて電話を切る。加藤は顔を引き締めてT社のファイルの入ったキャビネットに向かった。祥一は彼の後ろまで行って遠慮がちに話しかけた。
「加藤さんのご家族は、突然出張されても何もおっしゃらないのですか」
「ああ、うちは亭主元気で留守がいいってかんじかな」
「そういう意味で、気をつけたほうがいい部員はいるのでしょうか」
「なんで俺にそんなこと聞くんだ」
「いや、いろいろご存知かなと思って」
加藤はちらりと祥一を振り向き、またファイルに目を戻した。
「俺が今一番心配なのは佐野、おまえのことだよ。リーダーになってはりきっているのはわかる。だが、度を越すとどこかでがっくりくるんじゃないか。覚えてるだろ、T社北陸工場の事故。俺たちの職場にはああいう危険性があるんだから」
思わず近くにあった椅子を引き寄せてどすん、と座り込んだ。
忘れていた。
田所青年の死。絶対に忘れまいと思っていた。一ヶ月前の山頂で彼女のことを想っていた時にも、表裏一体となって心に留まっていた。もし彼女の床屋に行くとすれば、田所の線香をあげに行こうとも思っていた。それが……
山から降りてメールに気づいたのは、携帯の電源を入れた月曜日の朝だった。落胆、絶望、怒り、なんだかわかない感情に大声で叫んだ。何かの用で東京に来て、この町のどこかにいるであろう祥一と会おうとしてくれた。それを裏切ってしまったという事実。朝から晩までうだるような暑さの公園で待ち、彼女の期待は、失望へそして諦めへと変わっていったのに違いない。
同時に二人の間に運命的なつながりなんて無いことを勝手に証明してしまった彼女の身勝手さに腹が立った。彼女の言う奇遇とか偶然とかいうものの幸運にあやかれなかった絶望に屈して、あの日、東京を遠く離れた山頂で彼女を想って彼女のいない町を見つめていたこと、そんなことを言い訳する気力が失せてしまった。
おりしも仕事は加速度的に忙しくなり、それで忘れてしまおうとし、ほとんど成功しかけていた。
しかし田所のことまで忘れていた自分を振り返ったとき、この一ヶ月がいかに異常だったかがわかる。精神的な自殺行為だ。
「俺、今週末は必ず休みを取ります」
「お、おう」
大声で宣言した祥一に加藤はめんくらってファイルから顔を上げ、目をしばたいた。
ストレイトトラックの事務所は関口が両親と妹と暮らす彼の家の一部を改造した一角である。狭くはないが、丸い会議机と事務机が二つ並ぶだけのシンプルな部屋で、ブラインドから透かして見える窓の外には、昔の家らしい広い庭が垣根に囲まれてたたずんでいる。ずいぶん古そうな柿の木が大きな実をつけ、十一月を前にしたくすんだ色の空気に、かろうじて明るい彩を添えていた。
すました顔で打ち合わせをしている関口を、ゆうはにやにや笑いで見つめてやった。
「なんだよ」
「どうだった?昨日のデート」
数日前、関口は北林とデートだと舞い上がっていて、ゆうだの、時々ここに顔をだす妹の夏子だのに、言いふらしまくっていたのである。
「あああ!俺、どうして君たちにばらしちまったんだろう。秘密にしておくべきだった」
頭に手をつっこんで机につっぷした。
「なんでよ」
「話したくないんだよ」
「なんで?」
「減る。幸せが減る!一緒に歩いた銀座の町がどんなにきれいだったか!彼女が俺のために作ってくれた料理がどんなに美味かったか!彼女の体がどんなに…… だめだ!俺のボキャブラリーじゃ、言い表せん!」
関口は目をひんむいて、ゆうに手を合わせた。
「頼むから、聞かないでくれ。俺、頭の中で言葉で反芻するのもつらいんだ」
滑稽なのになんだか笑えなくて、ゆうは「わかったわよ」とつぶやき、ため息をついた。それを見た関口が今度はにやにや笑いを返して、椅子にふんぞりかえり、腕を組んだ。
「ところでそっちはどうなんだ。前に好きな人がいるって言ってただろ」
「ただの片思いだもん」
そっけなく言うと、関口はとぼけた顔で宙を見上げた。
「この世界のどっかに平里さんに会うことで、俺みたいに幸せになれる男がいるのに、そいつがまだ君に会っていないのだとしたら、かわいそうだなあ」
「私、だれかを幸せになんてできないもん」
「できるに決まってるじゃん。俺は藍さんが隣にいてくれるだけで幸せだけど」
「藍さん?」
「北林さんの名前だよ。名刺もらわなかったのか?俺、彼女に会ったときから、藍って字を見ただけでどきどきするようになっちまった」
呆れてそっぽを向いたが、ふと、日本中を飛び回っている彼が、いったい、どうやって幸せを享受しているのだろうと考えたとたん、ひどい間違いを犯しているような気がした。彼の言葉や、メールの文句が次々に記憶の底から浮かび上がる。
大きくて重そうな黒い鞄。 ずいぶんこっていた肩。 旅先で床屋に行くのが趣味なんで。 俺も人と話すのはあまりうまくない。 今日、結構早く仕事が終わったから、海まで歩いて行ってみたんだ。 修理がなかなか進まないと落ち込んで来るんだよな。 俺も台風にくっついてそっちに行きたいくらいなんだが。
「
「ああ?」
「っていうメールアドレスをつける人。なんていう名前なんだろう」
「うーん。笹野?ちょっと変だな。だったらSASANOにしそうだ。最初のSは名前で、後が苗字で」
「佐野……さん?」
「だろうね」
たくさんの彼のかけらが目の前にころがっていた。名前もわからない、素性も良く知らない、そんな男にうかうか近づくのを恐れていたのはいつのことだったろうか。けれど名前ひとつ取っても、ほとんど明らかな証拠があり、彼が半導体製造装置のサービスマンをしていること、その仕事ぶり、仕事の合間に何をしたかということ、ひとりが好きなくせに、ときどき人恋しくて床屋に入ってしまうこと。いろいろなかけらをゆうはすでに持っていた。それなのに、そのピースを組み合わせもせずに、難しいといって投げ出していた。
もし、彼が、あの日メールを見ていなくて、後になって私が彼を待っていたことを知ったなら?どう思う?どう思っただろう?あの孤独が好きで仕事人間で、少し皮肉屋の彼。佐野さんは?
なぜか飛行機で一足飛びに行く気がせず、電車を乗り継いで行ったから、田所の家のもより駅に着いたのは土曜も夕方になっていた。昨日田所の上司、伊藤に電話して、線香をあげたいから家を教えて欲しいと言うと、彼は少し驚いたようだったが丁寧に道順まで教えてくれた。今おたくの装置はまるで田所が守り神についてるみたいに、歩留まりが抜群に良いんだよ、などと軽口を言う伊藤の声に、部下を亡くした上司のつらさを感じ取って、祥一は涙が落ちてくる前に電話を切らねばならなかった。
タクシーで十分ほど、田所の家の前に着き、躊躇無く呼び鈴を押した。二世帯住宅らしい大きな家で今は田所の両親と、彼の未亡人と息子が暮らしている。電話で連絡してあったから、ほどなく小柄な若い女性が赤ん坊を抱いて姿を現した。ふっくらしてかわいらしい赤ん坊は祥一を見て掴みかかるように片手を伸ばした。
その姿は事故の後、祥一を悩ませた悪夢と寸分たがわず、胸苦しさにあえいだ。
「いらっしゃいませ。この度は、わざわざどうもありがとうございます」
「突然申し訳ありません。田所さんには生前ずいぶんお世話になったものですから、どうしても寄らせていただきたくて。と言っても、もう三ヶ月も経ってしまっていて、申し訳ないのですが」
「いいえ。東京からいらっしゃったとか」
「それは、あの、別の用件もあったもので」
奥に通され、いかにも田所青年、という明るい笑顔の写真のかかった仏壇に、香典を置き、線香をあげて、手を合わせた。田所の未亡人は、神妙に後ろに座っていたが、時折声を上げる赤ん坊に優しい声で話しかけている。祥一は振り向いて、正座したまま彼女に向き合った。
「私は、奥様に謝りたいことがあって、それもあって、ここに来ました」
「は?」
「田所さんが事故にあう一週間ほど前、私は田所さんと一緒に仕事をしました。クリーンルーム内の仕事で。その時、田所さんは以前と非常に違う様子でした」
何を言われるのかと、彼女は顔をこわばらせ、赤ん坊をひきよせて正座を組みなおした。
「私はああいう環境でノイローゼになったり、過労のために集中力が散漫になって事故を起こした人の話をいくつも聞いたことがありました。田所さんも、そんな危険があるなと、うすうす感じ、彼の上司に進言しようか、と思いました」
ひかれたカーテンに夕焼けが映りこんで、部屋をうす赤く染めていた。八畳ほどの和室の空気は冷え切っていて、祥一の声は一段と響いた。
「けれど、結局私はそれを怠り、みすみす田所さんが事故を起こすのを許してしまいました。申し訳ございませんでした」
祥一は畳に額が付かんばかりに頭を下げた。
「ば!」
突然、赤ん坊が笑うような叫びを上げ、祥一の髪を小さな指先で叩いた。
「そうね。おかしいわね。そんな事で謝るなんて」
未亡人は息子に話しかけるように言い、祥一はどきりとして顔を上げた。彼女は眉間に皺を寄せ、祥一を睨みつけていた。
「佐野さん、あなたに謝られても、私、自分を責められているようにしか取れません」
「は…」
「私が…田所の妻である私が、彼の様子がだんだん違ってきていたことに気づかなかったはずはあるでしょうか。もし、誰かが彼の心の病に気づいて医者に連れて行くなり、仕事を休ませるなりしなければならなかったなら、それは妻である私の責任だったと、私が思わなかったとでも言うのですか」
「でも、それは…」
「あの頃の私は、この子が生まれたばかりで、子育てに必死。時間が経てば元に戻るだろうと高をくくっていました。でも、あなたのような他人に謝られると、私の罪を思い知らされます。たった一日会っただけの人にもわかった異常を、どうしてもっと心配してあげなかったのかと」
確かに、そうだ。祥一は自分の罪悪感だけを考えていた。この罪悪感を和らげるためにここで謝りたいと思っていた。けれど、彼にもっと近い人間、伴侶であるこの女性は比べ物にならない罪悪感を背負っていたのだ。祥一はズボンの縫い目につめを食い込ませた。
「私、夫を亡くして、自分の不幸を嘆きました。悲しくて、かなしくって。こんなふうに普通に話せるようになったのも、最近です。そういう意味では佐野さんが三ヶ月後にいらしたのは正解ね。もっと前なら、きっと、泣き崩れて、ご迷惑をおかけしたかもしれない」
ちゃめっけを交えて言う彼女を祥一はぽかんと眺めた。
「たくさんの方におくやみを言われます。特に赤ん坊が生まれたばかりだということに同情する人がたくさんいます。でも、私、田所と結婚したことも、この子を産んだことも、ひとつも後悔していないことに気づいたんです」
そう、彼女の腕の中の田所の息子は、田所の童顔の元であったつぶらなくっきりしたふたえの瞳を受け継ぎ、嘆くでもなく、寂しがるでもなく、ただ生きることを謳歌しているように、にこにこと笑っていた。祥一が悪夢で見た、父親の死を悲しみ、祥一を責める母子の姿とは全く違っていた。
「それから、田所にとって、私がいたこと。もし彼がいずれにしろ若くして死ぬ運命にあったなら、その前に私と出会い、結婚して、この子の顔を見たこと。それはきっと悪いことじゃなかっただろうと思うのです」
「もちろんです」
思わず力んで言った祥一に、彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。
田所の家を出る時、「これからどちらへ?」と聞かれ、何を取り繕うことも考えず、「バーバーサトという床屋です」と答えた。すると、
「ああ、知ってるわ。その床屋さん。まあ、じゃあ一旦駅に戻って行くの?それはすごい遠回りだわ。私が車で送ってあげる」
と言われたのには閉口した。しかし断ることもできず、息子をチャイルドシードにくくりつけた彼女のまるっこい赤い車で、祥一はあっという間にバーバーサトの前に下ろされていた。
数秒して年取った店主らしき理容師が勢い良く店から飛び出してきた。すでに田所の妻の車は走り出しており、男は「今の、田所さんとこの嫁さんじゃなかったかなあ」とつぶやき、そして突っ立っている祥一に尋ねるような視線を向けた。
「ああ、そうです。ちょっと送っていただいて」
それ以上何も言えない祥一に、前掛けをした理容師は首をかしげて黙っている。祥一より少し背は低いが、腕が太くがっちりした体格の
「うちに用かい?」
「髪を刈ってもらいに・・・」
「そりゃどうも。さ、どうぞ、すぐやれますよ」
ドアを押し開けて通されると、祥一はすぐさま店の中を見回した。けれども彼女の姿はどこにも無かった。客も、他の理容師もいない。祥一はいつか座ったのとは別の散髪椅子に座らされた。
「どういたしますか」
「適当に・・・短く」
「りょーかい」
親父は祥一の髪を確かめるように手ですいた。
「このあたりの方ですか」
「いえ、T社と取引のある会社に勤めておりまして、さっきの田所さんのご主人と生前仕事上の付き合いがあったもので、今日は線香をあげに来させてもらったんです」
ひどいデジャブにくらくらしながら、ようやく答えた。
「ほう、そうでしたか。本当にね。あそこの嫁さんには可哀相なことでした。うちも田所さんとは町内会でつきあいがあってね。まあ、しっかりした嫁さんだからよかったものの」
しんみり言うのに目だけで頷いた。
店の奥で何かの物音がしている。だれかがいるのだろう。彼女だろうか。突然、ひょっこりと顔を出すだろうか。祥一は住居部分に続くらしい暖簾のかかったドアをちらちらと見た。胸が苦しい。鏡の中の顔は無表情に引きつっている。
「それで、ここは田所さんに聞いて来てもらったんで?」
「いえ」ごくりとつばを飲み込んだ。
「以前出張で来た時にも寄らせていただいたことがあって、その時に…」
プルル!プルル!
店の電話が大音量で鳴り響いた。
「おおーい!電話だ!出てくれ!」
親父が大声で叫び、元気のいい足音が響いて、暖簾をはためかせてドアが開いた。彼女か、とびくりとしたが、それは親父のつれあいらしい年取った女性だった。茶色くてウェーブのかかった短い髪を後ろに撫で付けた若々しい婦人である。店に飛び込んでくるなり、サンダルをひっかけながら祥一に軽く会釈をして、鳴り続いている電話を勢い良く取った。
「はい!バーバーサトでございます!…あ、なんだ、ゆう?!どうしたん?え?携帯電話買った?なあに、あんたまだケータイも持ってなかったの!それで、どうやって商売してたんかね。もう、いつ飢えて帰ってくるかとこっちは気が気じゃないのよ。……はいはい。わかったって」
「ゆうか?」
親父が嬉しそうに聞いた。
「そ。携帯電話買って、試したいから電話して欲しいって。で、番号は? ……うん。うん。よし、じゃあ、こっちからかけるから、ちょっと待ってて」
「今度帰ってくるのは正月かあって、聞いとけよ!」
ゆう?女性の名前だろうか。女性はいったん受話器を置いて、メモを見ながらプッシュホンを押し始めた。
「お子さんですか?」
「ああ。東京にいる娘でね。コンピュータ関係の仕事をしてるんですよ。めったにこっちにゃあ帰って来やしねえ。この前はええーと、七月だったかな」
祥一は息を呑んだ。
「じゃ、髪洗いますんで」
目の前の鏡が開いて、中から洗面台が出てくる。そこに頭ごとつっこんで、親父がシャワーをかけるのにまかせたが、耳だけは女性が電話する会話を聞き漏らすまいとした。
「ゆう?うん。良く聞こえるよ。……え?ならいいって、ちょっとあんた、お父さんが次はいつ帰ってくるかって!正月すぎ? ……たまには親戚に顔見せないさいよ。髪は?え?東京で切ったからいい?まあ、もったいない。もう! ……切られた。まいっか、あの子のアパートいつ電話しても留守電だったけど、携帯ならいつでもつながるだろうし。ねえ、お父さん」
「ああ、そうだな」
「なんだか、ずいぶんはきはきしゃべるようになったわよ、あの子。前はもう、声が小さくって小さくって」
「それはおまえの声が大きすぎるから、その反動だろ」
「失礼ねえ。だいたいあの子が出て行ったのは、あなたが客にゆうの噂話をさせっぱなしにしといたのがいけないんでしょ。客だろうがなんだろうがガツンと言ってくれればよかったのよ!うちの娘は繊細なんですからって!」
「もう、その話はいいってことになっただろう。ここが床屋だろうが、なんだろうが、人の口に戸は立てられないんだから。そういう狭っくるしい田舎暮らしが嫌なら、東京に行く、いいじゃねえか。なあ、お客さん」
「……」
いったい、その東京にいる"ゆう"という娘が彼女なのかどうなのか、知りたくてたまらなかった。「私は東京にいます」「私は髪型を変えて」一ヶ月前のメールのフレーズが蘇る。髪を洗い終わり、顔を上げる。親父は早速祥一の髪を手際よく刈り始めた。
「娘さんも理容師なんですか?」
「いや、だからコンピュータ関係の仕事」
「免許は持ってらっしゃるとか」
「いやあ。どうも、床屋って職業をずいぶん嫌っててね。いろいろあったもんで」
「このお店に、だんなさんとおくさん以外の理容師さんが働いていたこと、ありますか?」
言ったとたん、親父は手を止め、はた、と鏡の中の祥一を見た。
「お客さん、もしかして、いなか床屋ウォッチャー?」
祥一もぽかんと口を開いて、その、ふたりだけしか知らないはずの呼び名が親父の口から出たことに呆然とした。
その時である。祥一のポケットに入れた携帯電話が軽快なリズムを奏で、メールの到着を告げた。親父に答える言葉も見つからず、何かを聞く言葉も見つからず、他にどうしようもなく、茶を濁すように祥一はもそもそと口の中で言い訳をしながら携帯を取り出して、メールを表示した。
いなか床屋ウォッチャーさん
おひさしぶりです。この前はお会いできなかったけど、もう一度トライしてみたくなっちゃって、メールしています。
今度は、運だめしに一日待っているなんて馬鹿なことはしません。
まず、お返事を待ちます。
もしよろしければまた日比谷公園で。
ところで私の名前は、平里ゆう といいます。
それから、私の携帯電話の番号をお教えします。TEL 090-XXXX-XXXX
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