第5話 あなたがいない

 もしかしたら、彼は出張先でガールフレンドを作りまくる女たらしで、目新しい田舎娘をひっかけようとしているのかもしれない。

 もしかしたら、彼はメールマニアかインターネットマニアで、ネット上の知り合いを作ることだけが目的なのかもしれない。

 もしかしたら、彼はすごい酔っ払いで、あのメールを出したことも、その内容もすっかり忘れているかもしれない。


 四国から日本海へと日本を縦断した台風は、東京を掠めもせずに北海道の向こうに去った。

 9月。東京に秋はまだ来ない。

 今日二件目のクライアントまわりを終えて、ゆうは関口の赤い奥様カー(ゆうの命名だ)の助手席に滑りこんだ。社員の話は保留のまま関口の仕事を手伝っている。試しに、と依頼してきた仕事を一つこなしただけで、関口がゆうの仕事の効率を何倍にも上げられることを証明してしまったからだ。

 林章堂の柳田が「ごはん作ってお母さん」と言ったきりじっと待っている子供だとすれば、関口は自分も手を動かしながら隣のコックの下ごしらえと味の確認まで行う料理長なのである。悔しいが仕事に行き詰っていたゆうの救世主と言わざるをえない。

「私、あのツリー構造はどうかと思うけど」

「いや、パーツ会社のお堅い内容にはあれでいいんだ」

 打ち合わせ中に抑えていた意見の相違が噴出して、狭い車内で議論の続きが始まった。実はこんな議論も新鮮で、仕事の楽しさを再認識しつつある。ゆうが理論だてて自分のアイデアを説明すると、関口は小首をかしげた。

「なるほど。それは言える。で、何でそれを客に言わなかったわけ?」

 ぐっと詰まって、うらめしく関口を見た。

「だって、怒らせちゃったら嫌だなと思って」

「変な遠慮するなよ。なに、昔いじめにでもあったわけ?トラウマ?」

 ゆうが顔を歪めると、関口はおろおろして、「ごめん、悪いこと聞いたかな」と口の中で謝った。

 違う。思い出してしまったんだもの。あのメールに返事を出せないでいること。

 誤解している関口に言い訳もできない。諦めたはずなのに。人並に恋できても、人並に恋人とつきあえるとは限らない。結局はこうして誤解されたり、あきれられたり、すれちがったりするなら、一人でいたほうが賢いって。がんばって手に入れた東京の一人暮らし。ようやく仕事もうまくいきかけているんだから、それで満足じゃないのって。


「だいたいヤクザと商売する度胸があるくせに、どうして工具屋のおっちゃんが怖いのかわからん」

 今日最後の訪問先である八千代組に到着し、関口は後部座席から鞄を取りながら言った。

「ほんと、ついてこなくていいのに。今までだって、私一人で大丈夫だったんだから」

「いや、やっぱり危ないよ。その担当の女性?その人が留守で、変な男が出てきたらどうするんだ」

「そんなこと今まで無かったし……」

 五階建ての八千代ビルの一階にはエレベーターの扉だけがある。エレベーターの、二~四階のボタンは働かず、強制的に五階に向かわせるしくみだ。関口が隣で顔をしかめている。

 インターホンで来意を告げ、防火扉のような金属ドアの鍵が開いた。一歩入れば高級エステサロンのような広いフロアには、成金趣味な調度品が溢れている。

「平里さーん、おひさしぶりい!」

「こんにちは!美津子さん!」

 八千代美津子が小型犬みたいな愛想の良さで奥から飛び出してきて、ゆうは道で友達に出くわしたように手を振った。こげ茶の短い髪にブランド物のスーツ。大学を出たての年に見えるが、八千代組の社長令嬢でかつ、運営の一翼を担う重役の彼女には不思議な貫禄が備わっている。

「この方は?」

「ストレイトトラックの関口陽一と申します。平里さんと今後一緒に仕事をしていくことになったので、今日はご挨拶に」

 関口は名刺を出してずうずうしく言い、ゆうは親友にボーイフレンドを紹介したかのような罪悪感に襲われた。美津子は関口を見たことも無い鋭い視線でねめつけ、無言で彼女のオフィスに導いた。

 美津子とはじめて会ったのも、この狂人的な部屋だった。本や資料がうず高く積まれ、数台のコンピュータが低い唸りを上げている。ここで居心地よさそうにしている彼女に向き合ったとたん不思議な親近感が沸いたのだった。建築会社である八千代組の裏稼業がヤクザなのかと聞いたことは無い。けれど美津子の夢は知っている。間違った情報の為に、争い、いがみ合い、愚かな結論に達して罪を犯す男たちに、正しい情報を伝えること。本質的に愚かでありながらも、愚かではない組織を作ることだ。

 ゆうの仕事は、セキュリティを施したインターネット情報網を構築することだったのだが、請け負った仕事は終わりメンテナンスを続けるかを話し合いに来た。

 しかし関口が得意の営業トークをすると、美津子は落胆を押し隠すようにため息をついた。

「実際、残念だわ。平里さんはずっとフリーで仕事していくのだと思っていたから」

「まだ入社するって決めたわけじゃないの。でも今は一緒に仕事しているし、ひとりじゃできないことがたくさんあるって気づいて……」

「わかってる。だから私も平里さんに手伝ってもらったんだし」

 美津子が、この仕事をごく少数の人間で完結させたいのもわかる。けれどゆうにも、いま関口との仕事を止めたくないという意思があって、何も言い出せなかった。

「もう、いいの。あとは自分でやるわ。平里さんにいろいろ教えてもらったから、大丈夫。残りのお支払いは済んでいる?そう。よかった。」

 美津子はすくと立ち上がり、二人に出て行ってほしいというしぐさをした。喪失感に足が重くなり、さっさと出て行く関口の背中が遠くなる。その時、美津子がゆうの腕を掴んで引き寄せた。振り向いた目の前に、寂しげな微笑みがあった。

「平里さん、ありがとう。あなたといろいろたくらんで仕事するの、楽しかったわ」

 目が熱い。なにかがこみあげてくる。ふたりで頭を寄せ合って、インターネットの上に秘密基地を作った数ヶ月。ふたりは互いに孤独で、ふたつの空虚さはすこしの反発も無く一瞬で混じり合っていた。

「ちょっとだけ夢見てたの。ほら、アクション映画の主人公の横には、必ずくるくるメガネをかけた天才エンジニアがいて、秘密兵器を作ったり、敵のコンピュータに侵入してくれたりするでしょ。平里さんと私、そんな関係になれるんじゃないかって」

 自分を馬鹿にしたように皮肉に笑う美津子。ゆうは、そのくるくるメガネのエンジニアになれないことが本当に残念だった。

「必要な時にはいつでも飛んでくるわ」

 眼鏡を持ち上げ、ウィンクして見せた。

「そのときはよろしくね」

 美津子もウィンクで答えた。

 金属ドアがふたりを隔て、それでも美津子との友情が残ったことを自分の中に確認した時、ゆうは悟った。会って、向き合って、話して、初めて得ることができる確かなもの。その確かさの前にはどんな偏見も恐れも太刀打ちすることはできないと。


「なんか、おっかない女の子だったなあ」

 車に乗り込んで関口が言った。

「彼女は悪の帝王、私はその横でパソコン叩いてるクルクルめがねのハッカー」

「なに!それ!?」

「ていうイメージだったの、私たち」

「おおおー!まさに!そんな風に楽しんでたとは、すげえ度胸だな。尊敬する」

 度胸がある?メール一本出せない私に?

 走り出した車の窓外を東京の雑踏が流れていく。賢いって何?正しいって何?自分に合っているって何?私は特別な人間じゃない。人一倍度胸があるわけでもない。もしかしたら、孤独を気取るのこそ愚かなのかもしれない。

「さびしいな。恋人、欲しい。」

 関口に聞こえないほどの小さな声で、窓から吹き込む風の中につぶやいてみた。



 ラティステクノロジー東京事業所は立川市のはずれにある。天気の良い日は北に多摩の山並が、南に富士山が見えて、祥一の心を騒がせる。埼玉の住宅地で育った祥一は、山の見える場所に憧憬を感じていたから、入社試験でこの地を訪れたとき、それだけで印象が良くなったのを覚えている。今考えれば山の見える場所など日本中どこにでもあり、むしろ見えない場所のほうが珍しい。

 長男としておかしな使命感を持っていた祥一は、両親から遠く離れた場所に就職することに罪悪感を覚え、立川という遠くも近くも無い、そして山の見える場所を選んだわけだが、始終日本中を飛び回ることになった今の状況を考えれば、本末転倒な話である。だいたいもう何ヶ月も実家に電話もしていない。

 俺の責任感なんてそんなものさ。

 いくつかの仕事をほっぽり出して山に行こう。今日、社員食堂から見える多摩の山並の青い輝きを見てそう決心した。

 俺は振られたのだ。いや、恋人でもないのだから、振られたなんて言うのもずうずうしい。酔っぱらって、あんな自分勝手なメールを出して、二人の間につながりかけていた心地よいメール通信という関係をぶち壊した。

「山田さん、S社に行っている徳本の様子はどうですか。連絡入りましたか」

「ああ、まだちょっとかかるらしい。イオンビームの出力が上がらんそうだ。そっちはあちらさんの問題だから待つしかないしな」

「いったん、帰らせてはどうですか」

「だなあ。佐野、一度電話して様子を聞いて、おまえが判断してくれないか」

「はい」

 三日前、山田の退職と、その後任に祥一がつくという正式なアナウンスがなされ、二人はおおっぴらに引き継ぎを始めた。山田が最初に言ったのは、「最後の瞬間まで、自分がやった方が早いという判断をするな」ということだった。それは決定的に祥一の立場の変化を表す言葉だったから、ひどく動揺させられたものだ。ただ、半分の動揺の種は彼女からのメールが途絶えてしまったことにあり、不思議と思い悩みもしなかった。マイナス掛けるマイナスはプラスだな、なんて自嘲したものだ。

 徳本という祥一と同年代のサービスマンに電話すると、もうすぐ作業ができそうだから待機すると言う。実際S社の工場は愛媛県のひどく辺鄙な場所にあり、いったん東京に戻ったらまた出かけるのは面倒である。祥一も経験者だ。

「じゃあ明日まだイオンビームが立ち上がらなければ俺からそっちの斉藤部長に電話するよ。先方の意向と緊急度も聞きたいし」

「了解。…佐野、リーダーの仕事、大変だろうけどがんばってくれよ。おまえに辞められるのが俺たち一番怖いんだ」

「ああ。あんまりがんばりすぎないようにする。今週後半から休みを取って山に登ろうかと思ってるんだ。山田さんがいるうちにさ」

「お、おお。楽しんできてくれよ。こっちはなんとかなるからさ」

 困ったような声を抑えて言う徳本に祥一は少し笑い、「ところで、携帯の通じるとこか?」との問いに、「携帯は非常時以外は電源を切っておくんだ。遭難したときに使うためにさ」と答えると、徳本は露骨にため息をつき、祥一はまた少し笑った。



 東京で髪を切るのは何年ぶりだろう。実家の床屋とは違う活気に気おされながら、ゆうは鏡の中の自分をにらみつけていた。くせのある長い髪。はかなく可憐に見えるのは近眼で輪郭がぼやけているせいだろうか。いずれにしろ自分のそんな雰囲気に安住していたことは否めない。

 担当になったのは鼻にピアスをして髪をアンシンメトリーに染めた若い美容師だった。せめて女の人が良かったのに。気弱になりかけて、背筋を伸ばし、鏡に微笑みかける。

「どうなさいますか?」

「短く」

「短く?」

 彼のきょとんとした顔に、緊張が和らいだ。

「イメージチェンジ、ですか」

「そう、それです」

「嬉しいな。そういうの、俺、大好きなんです」

 美容師はにこりとして鏡の中のゆうを背中からのぞきこんだ。

「どんなイメージにしましょっか。そうだなあ。お客様は今オトメチックなかんじだから、大人っぽくしたらどうでしょう?」

「はい、そうしてください」

 勢いこんで答えて、赤くなった。一方、美容師はゆうの髪と顔に集中している。その真剣さに、とつぜん感動してしまった。

 髪を切るって、一発勝負よね。短く切ったら戻せない。不定形な曲線の集合体で立体を形作る。それが人の外見を変えてしまう。なんて難しくて、面白そうな仕事だろう。お父さんとお母さんの仕事をそんなふうに考えたこと、一度も無かったな。ただ、人と話すのが嫌だっていうだけで、床屋なんて嫌だって思ってた。

 反省すると同時に、両親の職業が子供に勇気を授ける瞬間を知った。

 シャキン…… シャキン……

 思いきりのいい美容師のはさみが大きな束を切り落とすたびに、何かが剥がれ落ちる。

 シャキン…… 

 床屋ウォッチャーさんへの恋心も? 違う、今落ちていったのは…… たぶん。



 北アルプス。

 水曜の夜、仕事を終えてから松本まで移動し、木曜の朝ふもとの駅から歩き始めた。秋の紅葉シーズンで、周辺の駅は中高年の登山者でにぎわっている。来月には冬季となり、ほとんどの山荘が閉ざされるのだ。

 祥一が選んだのは初級者用下りコースを逆行して登り、中級者用コースに出るルートである。全4日の行程。日曜の昼には駅6つぶん戻った場所に下山する。一年に一度と思えばゆっくり楽しみたいと思ってここを選んだ。(本当にそうかよ?)頭の隅が異を唱えているが無視して土と石を踏む感触を楽しむことにする。

 午後にかかると下山してくる人々と次々にすれ違うようになった。一人で勢いよく登っていく祥一に、皆があいさつし、がんばって!などと声をかけてくる中年女性もいた。愛想よくあいさつを返していたら、口の中が乾いてしまった。

 それでも、二日目に中級者コースに入り、黙々と登り続ける山男たちの列に加わると、あの喧騒が少し恋しくなった。なぜだろう、人を見て楽しむことなんて無かったのに、助け合う中年の夫婦、息子を叱咤激励しながらたくましくサポートする父親、互いにしっかりした足取りの時々目を見交わす恋人らしい男女の登山者、すれ違った彼らのいくつかの印象的な姿が、頭に焼き付いている。

 そしてそんなエピソードを誰かに伝えるために言葉に置き換えようとしている。

 だれに?

 伝える人などいない。

 はっとして足元に神経を引き戻した。難しい岩場だ。考え事をしていては危ない。

 学生の頃は何人ものパーティーで登り、3年と4年の2年間はリーダーとして皆をひっぱる役目を果たしたものだ。社会人になってひとりで登るようになると、自分で自分を律するようになった。

 いつのまにか自分の中のリーダーが自分に注意を促している。ペースが速すぎるだの、バランスが悪くなってるぞだの、ここでアイゼンをつけろだの。

 山に登れば頭が真っ白になりそうな気がしていたが、実際登ってみれば、歩いている間自分の頭の中には自分に対する言葉が始終飛び交っていることに気づくのである。地上にいるときとなんら変わりは無い。

 整然とした考え、混沌とした考え、阿呆らしい思い付き、自分への罵倒。

 右も左も何も無いだだっぴろい空間、見上げれば空が宇宙までつながっていることをはっきり感じられるような稜線の上では、自分が考える存在であることを、ことさら実感する。そしてその考えを分かち合う人を必要とする存在だということも。

 

 このルートの最も高い峰の頂に着いたのは三日目の朝だった。つづれ織りなす山々とその窪みに見える日本海の青黒い輝き。空気は冷たく乾いている。

 山の向こうに彼女の住む町がある。

 つまり、そういうことだ。

 だから、この山に登った。

 彼女のいる町が見えそうな山。高い山が隔てて向こう側に渡ることはできないルート。

 彼女との距離を実感するために、ここに来た。

 それで、地上に降りて、俺はどうしようというのだろう。頭の中には彼女への言葉がたくさんつまっていて、きっと下りの間にも消えやしないのだろう。

 また酒を飲んで、恥ずかしげも無く彼女にメールを出すのだろうか。

 その峰からの景色は360度、どちらを見ても美しかった。それでも祥一は日本海の方向ばかりを見ていた。

 地上では味わうことのできない冷たい風、山肌を駆け上っていく雲の切れ端、岩登りで額にこぶを作ったこと、まだらに染まった紅葉の異様な美しさ。

 目を瞑って想像した。あの町に行き、ただの客のように店に入り、彼女がどんな顔をしようが、世間話みたいにこの山の話をする。

 そんなこと、できるだろうか。

 どうしてできないと思うのだろうか。

 雲を下に見る3千メートルに近い頂の上では、そんな簡単なことができない理由がまったく見当たらないのだった。


 そのころ、東京に残してきたパソコンに一通のメールが届いていた。それを読む手立ては今の祥一には無い。




床屋ウォッチャーさん


今日はどこにいますか?

土日は東京に戻っていることが多いって、以前のメールに書いてありましたよね。

私は今、東京にいます…… びっくりした?


明日の日曜日は、日比谷公園に行こうと思うのです。

図書館に寄ったり、花屋さんを見たり、噴水のイベントを待ってみたり。一日中そこで過ごすつもりです。


もし明日お時間があったら、出かけてみませんか?私を探してくださいませんか?


二週間も音信不通でなにを今更って思ってるかもしれません。

でも、バーチャルとリアルの接点はメールでは作り出せない。そう思ったの。

奇遇とか偶然の力を借りることで、私たちの不思議なつながりを試してみたかったのです。


もし会えたら、私が東京にいる訳も、いつかの質問への答えもお教えします。


ひとつだけご注意します。

私は髪型を変えて、メガネを変えて、店であなたに会った時とは違う姿になっています。

目の前を通り過ぎるあなたをそっと観察してほくそえんでいるかもしれません。


やどかり理容室店員より

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