第2話 もし、あの時

 大手電気メーカーT社の北陸工場を訪ねた祥一は、いきなり部門長伊藤との面会を求められてゾッとした。サービスマンが先方の上司から「ヨビダシ」をくらう時といったら、装置の故障が深刻か、その影響が深刻かで、早く直してくれないと大変なことになる、などと脅しをかけられるのに決まっている。

 彼女が整えた髪を無意識になでていると、「いやあ、佐野君、ひさしぶり!」小柄できびきびとした中年男は意外にも明るい顔で応接室へ現れた。ひとしきり不具合の文句は言ってきたが、それほど深刻そうでも無い。それどころか笑みを浮かべている。どうも不気味だ。

「今回は君なら安心だな。うちの田所なんて佐野さんは機械の心が読めるみたいです、なんて感動していたからね」

「いや、私も手こずることが無いわけではないので」

 祥一はぼそぼそと答えた。複雑な装置の修理は、いつなんどきとにかく直らない、という泥沼に入り込むか知れない。幸い泥沼に入った同僚を助けるほうが多かったが、今日その泥沼に落ちない保障は無いのだ。修理前はなるべく安請け合いをしたくない。

「ところで今日は東京に戻るのかね」

「いや、少なくとも今晩はこちらに泊まるつもりです。動作確認までしたいですし」

「そうか!実は僕たちの部門の暑気払いがあってね。ビアガーテンに行くんだ。君も一緒にどうかと思って」

「はあ?」

 部門長に、それも仕事前に誘われるなど初めてである。思わず呆れた声を出していた。

「しかし何時までかかるかわかりませんし」

「いやいや、そういうわけで田所も出るんだから、君だけ作業させるわけにもいかんだろう。それからなあ」

 伊藤は抑えた笑いに口元をゆがめた。

「君はうちの女子社員の間でずいぶん人気があるってこと、知っているかね」

 今度はのけぞって目をしばたいた。この工場で女性の姿を見た記憶も無い。

「ラティステクノロジーの佐野さんが来たら、ぜひとも誘ってくださいってせがまれてなあ。飲み会のある今日君が来たってのは、まるで彼女らの執念が招いたようなもんだよ。願いを聞いてやらないと、またおたくの装置が壊れるかもしれんよ」

 伊藤は愉快そうにがははと笑い、祥一はむっつりしそうになる頬を必死で支えた。

 装置の故障の原因を誰かの呪いみたいに言われるのは、自分の仕事に対する侮辱に思えたし、そんなふうに取れるのは自分が冗談の通じない根暗男だからなのだとわかっているし、じゃあどうしてこんな根暗男を、外見だけでもてはやす暇な女子社員がいて、一緒に面白がっている管理職がいるのか、というのがまた理解しがたいのであった。

「わかりました。参加させていただきます」

 無表情に答えた。ここで断りを入れたら角が立つことぐらいはわかる。せいぜい一生懸命仕事をして、散々疲れた顔をして、田所青年に断ってこっそり帰ってしまおう。心の中で算段した。

 祥一の会社の半導体製造装置があるのは厳重に管理されたクリーンルームで、修理にも宇宙服並みの防塵服を着なければならない。その着脱は面倒極まり、祥一が準備を終えると、担当の田所青年はとっくに用意を終えて祥一を待ちわびていた。田所は祥一と同い年の二十七歳だが少し童顔の好人物で、祥一は心の中でいつも田所「青年」と呼んでいる。

「田所さん、デフェクトの場所は定まっていますか」

「ああ……ええ、だいたい」

「だいたいっていうのは、ランダムだってことでしょうか」

「うーん、よく覚えてないんです」

 ウエハの不良が一箇所だけに出るのか、散発するのかで、疑わしい場所が変わってくる。それは田所も知っているはずで、しかし返事はうつろ、まるで酔っ払っているようだ。前回は彼の目星が役立ったのだが、今回は一から始めるしかなさそうだ。客の話が故障箇所を見誤らせることもあって、あやふやな情報なら聞かないほうがいい。

 クリーンルームで作業を始めると、それが防塵服の中だからなのか、脳みそだけをロボットに詰め込まれ機械の一部になって作業している気がする。そして、装置の不調が自分の手足の不調のように感じられ、その神経の一本一本を辿っていくことで、故障箇所がおのずと見つかるような具合なのである。

 同僚にそう話すと、佐野は機械人間だの、お前みたいな奴を基準にされるから俺たちが無能扱いされるんだ、だのさんざんに言われる。

 元来機械と向き合うのが好きなのだ。それもひたすら複雑で、全神経を集中しなければ絶対に直らないような奴に。


 幸い、修理は順調に終了した。明日装置の稼動に立会い結果を確認すれば終了である。

 飲み会を断るために、わざとのろのろ防塵服を脱いでいると、田所青年は悄然とした目つきで更衣室の椅子に腰掛けていた。

 おかしい。以前は修理を終えた祥一に、原因は何ですか?とか、僕ももっと装置のこと良く知りたいんです、とか、うっとうしいほどまとわりついてきた明るい男である。

 不吉な考えが脳裏をよぎった。

 スーパークリーンルームの作業はしばしば長時間に渡る肉体労働であり、防塵服を着ているためにストレスが多く、さらに窓も無く温度と湿度を完璧に制御された部屋は、非人間的な作業環境だ。そんな理由でノイローゼになった作業員の話をいくつも聞いたことがあった。

 飲み会に行って、冗談めかしてでも伊藤に忠告すべきだろうか。

 ふと考えたものの、飲み会特有の空虚な大騒ぎ、部外者ゆえの疎外感、酒の注ぎ合い、祥一を話のネタにしている女子社員、想像しただけでげんなりして、おせっかい心など吹き飛んでしまった。

「田所さん、今日暑気払いに誘われているのですが、私はどうも疲れたので遠慮させてもらおうと思うんです」

「はあ、そうですか。わかりました。言っておきます。僕も本当は出たくないんだよなあ」

 しみじみとつぶやくのに心底同情した。

 伊藤は、田所青年の不調に気づいているのだろうか。

 気づいていないのではないだろうか。

 重い工具バックとビジネスバックを両手に、廊下を出口に向かって歩きながら、妙に後ろ髪をひかれていた。しかし部外者で口下手な自分にどうこうできる話でもないと、心を無にして勘ぐりを打ち消す努力をした。


 そんな顛末が疲れを数割増しにし、帰りのタクシーが閉店した「バーバーサト」を通り過ぎるとき、住居部分にともった明るい灯にひどい羨望を覚えた。あの悩ましい指先を持ち、澄んだらくだの目をした若い女理容師は、家族とテーブルを囲んで食事をしているのだろう。店の主人、と彼女の言った男は本当に「主人」であって、人妻だという可能性もある。床屋に嫁いで家業を手伝うために理容師の免許をとったのかもしれない。

 俺って救いようがない奴だなあ、とごちた。

 身の程を知った独身男なら、今頃飲み会でどんちゃん騒ぎをしているはずなのだった。それができないくせに、今日会ったばかりの名前も素性も知らない女性を思ってわびしさをつのらせているとは。

 彼女の指先が辿った軌跡。ひとつひとつの会話。眼鏡をかける前に突然近づいてきた顔とふんわりした吐息。祥一を見送った眼鏡の奥の別れを惜しんでいたような瞳。どれもが鮮明に記憶に刻み込まれている。さしずめエッチングが深すぎたってとこだな!…笑えねえ…冗談か、これ?

 もし、明日、明るいうちにここを通ることがあれば、もう一度だけあの店を覗いて、あわよくば彼女に目で挨拶をするくらいはできるかもしれない。

 そのくらいの阿呆にならなれるさ。

 祥一はバックミラーの中の「バーバーサト」がしだいに小さくなっていくのを、いつまでも未練たらしく目で追っていた。


 旅から旅。工場から工場。トラブルからトラブル。それが祥一の日常である。年の半分以上は出張で、ビジネスホテルに暮らしているようなものだ。それを大変だとも、ひどいとも思ったことは無かった。その夜上司の山田からの電話で、別の仕事の応援に、すぐ九州へ飛べと言われるまでは。こちらの動作確認はどうするのです、と言うと、切羽詰っている山田に「それは俺がこれから行って見ておくから!しのごの言わず行ってくれ!」と泣きつかれた。

 すでに二人の同僚が泥沼に首まで漬かってもがいているらしい。客の製造がつまっていて矢の催促なのだという。

 次の朝、ひろびろとして明るい空港の待合でフライトを待ちながら、ふてくされてホームレスみたいに寝転んでしまいたくなった。

 彼女を一目見てから帰るのだ、というあさはかな思いつきが水泡と帰したことがこんなにも自分を落ち込ませるなんて。急な仕事を憎く思うより、そんなことを思いついて浮ついていた昨日の自分が憎くなる。

 彼女にはもう会えない運命なのだろう。

 運命なんて言葉にはなじみがないが、そんな言葉でしか今の絶望の元を表現できない。早く忘れちまえよ。自分で自分にあきれ声で忠告した。



 月曜日の昼過ぎ、東京のはずれにある古アパートへ帰った平里ゆうは、小さな、自分だけの部屋に入ってほっとため息をついた。

 ひとりっていい!

 目の隅に映る留守電の赤い点滅を無視して、帰り道で調達した食材を冷蔵庫にきっちりと収めた。料理好きなのは母の料理嫌いの反動かもしれない。手料理をゆっくり味わって、東京で一人暮らしをしているのだと実感すると幸せになる。

 窓を開けようと日の光に温まったサテンのカーテンに手をかけたとき、ふと体が動かなくなり、視線が宙を泳いだ。指先に蘇っていた。あの男の背中の感触が……

 どうしてあんなこと、しちゃったんだろう。もしあの時我に返らなければ、通りすがりのサラリーマンを血まみれにしていたかもしれないわ。

 「また来ます」帰り際の言葉が耳にこびりついて、昨日も、おとといも、両親に不思議な顔をされながら店の待合で過ごしてしまった。「今日は、髪を切ってもらえるかと思って」そう言って彼がやってくるような気がして。けれど地元の客たちにあれこれ話しかけられ、辟易へきえきさせられただけだった。

 だいたい彼は「あまりすぐなのは困るけど」と言ったのだ。次の日に来るわけがない。いつか次の仕事のためにあの町を訪れ、「バーバーサト」に寄った時には、腕のいい理容師の夫婦に安心して散髪され、ニコニコ帰っていくのに違いない。

 ううん、あの人の笑顔はニコニコって感じじゃなかったな。「(ニコッ)しーん」って感じだった。

 彼の笑顔を思い浮かべたとたん、きゃあ、と叫びたくなって頭をぶんぶん振った。

 電話が鳴った。嫌というほど、どきりとして、胸に手を置きながら、のろのろと受話器を取った。

「平里さん!とうとうつかまったあ、良かったあ!」

 案の定、林章堂りんしょうどうの柳田だった。ゆうにウェブ製作の仕事をくれる「総合文具店」の営業マンだ。

「お得意さんからの仕事なんですよう、またお願いできないかなあ」

 ここで断っては生活できないから、はあ、と頷いた。ゆうはくだんのひっこみじあんのせいで営業を自分でするなどもってのほか、ウェブ製作を事業のひとつに謳いながら実情が伴わない会社の下請けをしているのだ。問題は特にこの柳田の場合、取次ぎの内容がお粗末で、製作はトライアンドエラーの連続。クライアントの意に沿うまで作り直さなければならないことだ。

 つい先週終わったばかりの仕事も予想の三倍時間がかかって、結局ゆうの時給はファーストフードのアルバイト並になっていた。嫌気がさして逃避したというのが、先週末の里帰りのもうひとつの理由だった。結局ひとりの生活が恋しくなって早々に戻ってきてしまったのであるが。

「今度のクライアントはお料理教室でして。まあ、花嫁修業をするところってとこですかね。そこの紹介ホームページで、料理のレシピとか、載せたいそうですよ」

「へえ、おもしろそう」

 興味を引かれ、思わずつぶやいた。

「いいですよね。今、他に仕事無いんでしょ。ささーっとお願いしますよ。十月から新学期なんですけど、定員割れだそうなんで。もしホームページ経由で生徒が来れば、ボーナスが出る約束なんです」

 (仕事が無い?そちらの仕事が長引いたから次を取れなかったんでしょ!ささーっとって何よ!ばかにしてる!ボーナスだって私にくれるつもりもないくせに!)

「じゃあ原稿もらいますから!よろしく!」

 無言の罵倒が頭をぐるぐる回るのと同時に、料理教室のウェブのアイデアがいくつもひらめいてしまった。それで無言の了承をしていたのである。

「それから携帯電話買ってください。お客さんと話しながら平里さんのスケジュール、確認できたらどんなにいいか」

 だって電話、大嫌いなんだもん。「携帯」したくないもん。

 今度は無言で抗議。柳田はいつものことと諦めていて「じゃ、お願いしますね」と通話を切った。

 なぜかじっとしていられなくなってスケッチブックを抱えて部屋を飛び出した。好きなイラストを描くことがゆうの精神安定剤なのである。


 いつものことだが、ウェブ製作が始まると、すっかり没頭して昼夜なく働いてしまう。要するに仕事が好きなのである。料理スタジオの仕事が始まって二週間が経とうとしていた。

 電話が鳴った。またしてもクライアントの方針変更を告げる相談かと戦々恐々として受話器を取ると、父の静かな声が響いてきた。

「お父さん、どうしたの?」

「ゆう、おまえ、このまえ帰ってきたとき、なんかやらかさなかったか?」

「え?」

 なにかと言えばアレしかない。

 もしや、彼がもうやって来たの?うわー、じゃあ正直に話すしかないじゃない。

 桜の木を切りましたと言うのは自分から、と決めているゆうはおずおずと事の次第を説明した。

「ばかもん!どうしてすぐ俺を呼ばなかったんだ!」

「だって、店をほっぽらかしてお祭りの準備なんかに行っちゃうのがいけないんでしょ」

「だからそういう時は帰ってもらったらいいじゃねえか、どうせ一見いちげんさんなんだから」

「だって、また来てくれたんでしょ、そのお客さん、で、何て言ってた?」

聞きながら、さらに鼓動が速くなった。

「来てやしねえよ」

「え?じゃあ何で……」

「メールだよ、お前が毎日見ろって言ったあれ、俺、ちゃんと見てるんだからな」

 メール!?混乱する頭の中で、店先に置いた紙をポケットに突っ込んだ彼のしぐさが蘇った。実家の床屋のホームページは、床屋の客というよりは、ゆうの客に見せるサンプル用に作っている奴で、そこに書かれたメールアドレスは父宛になっているのである。

「なんて書いてあるの?・・・ううん、読まなくていいから私に転送して!」

「転送ってなんだ?」

「説明するからパソコンとこ行って」

「俺は忙しいんだよ、これから葬式があるんだから」

「お葬式?誰の?」

「町内会会計の田所んとこの息子だよ。T社に入った出来のいい息子だったんだけどな。作業中の事故だと。仕事疲れでぼーっとしてたらしい。なんか小難しいもの作っててな」

「半導体?」

「ああ、そんなこと、言ってたっけな」

「それっていつのこと?大きな事故だったの?」

「いやあ、フカセイ?ガス?で窒息したとか、なんだとか」

 聞きながら耳を塞ぎたくなった。もし、もしあの人がそこにいたらどうしよう。それで、メールはその前に出されたもので、もう二度と彼に会えないなんて結末が待っていたら?

「そこにいたのはひとりでな。検死だなんだってずいぶん時間がかかって、事故があったのは四日も前なのに、やっと昨日通夜で今日、葬式よ。俺はもう田所さんの顔見るのつらくてさ。なんてったって、お前とおんなじくらいの年頃だろ、二年前結婚した嫁さんとまだ生まれたばかりの子供がいてな」

 電話の向こうの父は少し泣いているようだった。あの男は関わっていないと知って、ほっとしながらも、さっきのメールに話を戻すのはためらわれた。

「ほい、今パソコン、点けたぞ。どうすりゃいいんだ?」

 父は律儀な人なのである。

 ゆうは、メールの転送方法を説明し、電話を切った。自分のパソコンを立ち上げると、そこには、あの男からのメールがあった。

 差し出しは昨日の夜中。

 確かに、彼だった。



先日、新人の理容師さんにお世話になったものです。たまたまそちらのホームページを見ましたら、ふつうの床屋さんには不釣合いなほどの(失礼)豪華なホームページだったものでついメールしたくなった次第。ただそれだけですが。では、次回は髪を切っていただけることを楽しみにしております。

出張で立ち寄った、いなか床屋ウォッチャーのサラリーマンより

メールアドレス  ssano@XXX.XXX.ne.jp

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