始めの指先 最後の一行

古都瀬しゅう

第1話 初めの指先

 額の生え際から右の睫毛の上まで、汗がひとたれ落ちてきた。

 こんなにまでして床屋に行くなんて、俺は阿呆だろうか。佐野祥一さのしょういちはもう少しで引き返しそうになる足を、利口ばかりがいいってもんじゃない、と前に進め続けた。こめかみからはひっきりなしに汗がつたい、背中にもじんわりと湿り気を感じる。右手に下げた二十キロもある工具バックが肩をぎりぎりひっぱった。

 夏の日差しに熱く焼けた舗装道路の脇は、すとんと落ち込んで濃い緑の田んぼに繋がっている。せり出した山にそって曲がりくねった細長い田んぼだ。

 イナカだよなあ。

 なごもうとするそばから、これから向かう大企業の社名をつけたトラックが横を通り過ぎ、気分はだいなしになる。けれど目の前にめざす床屋が見えた時、無邪気に、見つけたぜ、とつぶやいていた。民家の一階部分を店舗にした田舎の床屋で、茶色い外壁の正面には「バーバーサト」と大きな文字が並んでいる。駅で聞いたところによれば、一番近い、けれど「歩けばずいぶんある」床屋である。

 硝子の扉を押し開けると冷房の風が体中をくるみ、心地よさに大きく息をついた。

 そしてふと店内のおかしさに気づいたのである。入ってすぐは待合スペース、店内との境にヘアクリーム等を置いた飾り棚、その向こうに黒い大型の散髪用椅子が二つ並んでいる。

 店員がいない。

 いや、いる。祥一は正面に並ぶ鏡の中の像に目を奪われた。

 若い女が眠っていた。散髪椅子の大きな背もたれに体を預け、首を横に傾けて、くったりと目を瞑っていた。ノースリーブで肌の大きく出た薄オレンジ色のワンピース。形からして卵のような白い顔と、うっすら開いた桃色の唇。その鏡は別世界をのぞくための窓で、映っているのは触れることのできない女だ。そんな錯覚に囚われ、祥一は足音を忍ばせ進み入り、鏡に映る実体が確かに背もたれの影にあるのを確かめずにはおられなかった。

 胸の前を横切る腕がグレープフルーツくらいの豊かな胸を押しつぶしながらその存在を強調している。フレアスカートの下で太ももが腕一本分くらいしどけなく開いているのがスカートの窪みでわかる。もちろん、生身の女だ。

 客じゃない。やわらかそうなウェーブのかかった長い髪を一つに縛って胸の上に垂らしているのは、とても髪を切っている最中には見えない。

 この女が、店員なのだ。暇で、居眠りをしているのだ。

 彼女を起こし慌てさせ、髪を切ってもらうのだと想像すると、普段の自分らしくもなく興奮して、足音をたてぬよう後ずさり息を吸い込んだ。

「すみません!」

 彼女は薄目をあけ、けぶった瞳で鏡ごしに祥一をながめた。寝起きの重たい瞼の下から、らくだを連想させる茶色い大きな瞳が姿を現し、腰のあたりがぞくりと緊張した。が、その一瞬後に彼女が小さく叫び声を上げながら椅子から立ち上がると、予測どおりの慌てぶりに緊張はたちまち楽しさに置き換わった。



 平里ひらさとゆうは、床屋の娘だが、床屋になりたいと思ったことは一度も無い。友人と話していてさえストレスを感じるほどのひっこみじあんだから、髪を切りながら客と会話をすると考えただけで縮み上がってしまう。煎じ詰めれば床屋に出入りする近所の男達が、床屋の愛らしい一人娘に茶々を入れ続けたからこそ、彼女の人嫌いは助長されたのであって、原因と結果は微妙な関係である。結局東京に出てデザインを学び、今はフリーでウェブデザイナーをしている。インターネットで公開するホームページを企業宣伝のために作成する職業で、仕事を請け負う段階以外はほとんど人と接する必要が無い。おかげで、なんとか社会人と自称できるのである。

 美容室で客として美容師に接するのも嫌いだから、最近は半年に一度ほど北陸にあるこの実家に帰ってきて、母にカットしてもらっている。今日から三日間の帰省もそんな目的がひとつだった。

 店は駅から遠く、客のほとんどは地元の人間で、一週間後に控えた夏祭りのための町内会の集まりがあると言って、父と母はいそいそと出かけてしまった。皆それを知っているから客など来やしない、と言い残して。

 でも、来ちゃったじゃないの。

 ゆうは既にドアの中に入ってしまっている男におろおろと向き合った。店で居眠りをしていたのは家の中で唯一冷房のきいている場所だからだが、留守番の意味も無くは無い。大人らしく対応しなければ、と思うと鼓動がどくどくと耳に響いた。二十六才はいい大人だとわかっている。けれど例えば隣近所の大人に会った時、世間話ひとつできず愛想笑いでごまかしてしまう自分は不出来この上ない大人だと思うのである。

 男は半袖のワイシャツに地味なネクタイを締め、妙に大きな黒い鞄を下げた若いサラリーマンだった。ゆうの返事を眉一つ動かさず待っている。視線がきっちりと結び合わされて、数秒。不思議なことに、心がしんと静まり返った。

 四角い額と一重の目。角張った顎を持ったいかめしい顔をしながらも、少しも人を威嚇しない、なかば無機質な顔。やさしそう、というのとは違う。簡単には他人の領域に踏み込まない、強く自分を律している人。

 もし、人見知りの自分が恋人を作れるとすれば、こんな男性に違いない。ぽっと浮かんだ考えに慌てながらも、今、彼を帰しちゃいけない、と心の中の誰かが叫んだ。

「どうぞ」

 自分でも信じられないままに座っていた散髪椅子を示していた。どうしようというの?理容師でもないのに。男は鞄を待合スペースにどすんと置いて、鏡の中のゆうをちらちら見ながら椅子に座り、小さく笑った。

 いつもはあまり笑わない人間にだけできる、はかない雪の結晶のような笑顔だった。どきりとして目をしばたくと、彼はもう一度口角を上げた。

「今日はずっとひまだったんですか」

 低くて静かな声で響いた彼の言葉が、ゆうの居眠りを茶化しているのだとわかって、顔が燃えるように熱くなった。寝顔、見られたんだわ。うつむいて鼓動を鎮め、ようやく顔を上げると、男は椅子の上で居心地悪そうに顔をひきつらせていた。



 椅子に腰掛けた時に残っていた彼女の体の温かさに体がよからぬ反応をしそうになり、軽口を交わしたいと思った。それが、よほど破廉恥なことでも言ったかのように恥じ入られたものだから、逆効果である。

 大学を出て就職したのは男ばかりの職場で、女とはとんと縁が無かった。

 自分は淡白な男なのだ、などとうそぶいて無視してきた何かが、突然目を覚ましてしまった。さかりがついた犬か、突然隣の女生徒を意識しだした中学生みたいに。

 彼女が確かめるように、指先で祥一の髪を梳かしながら、斜め前から背後へと移動する。目の前にあった丸い胸がなめるように通り過ぎていく。体がひきつれて背筋がぞくりとし、思わず目を瞑った。

「私、新米なので…」

「いいよ。適当に短くしてもらえれば」

 声がかすれた。

「まず洗髪いたします」

 そう言って、彼女は祥一の髪を洗いはじめた。彼女の指先がこめかみだの、首の生え際だのを通るたびに、その滑らかさが染み渡る。こんな仕事をしているのに、なんて滑らかで柔らかな指先をしているのだろう。

 そして冷たい。

 冷房のきいた場所で居眠りしていたからに違いない。冷たさは五感を刺激し、またしても背筋を振動が走った。その振動が彼女にも伝わったのに違いない。

「あの、寒いですか?」

「指が冷たい…… さっき寝てたからだろ」

 ついぶっきらぼうに言うと、彼女は消え入りそうな声で、ごめんなさい、と謝った。自己嫌悪にため息をつきそうになり、息を止めた。

 髪を洗い終わると、鏡の中の彼女と目が合った。湯を使って血の気の戻った頬が、優しくはにかみながらわずかに微笑んでいた。その頬に唇をあててみたいと思った。頬と頬をゆっくり摺り合わせた時のねっとりとはりつく感触を想像した。

「このあたりの方ですか?」

 いかん、いかん。慌てて頭の中の想像を凍結する。彼女はあまりに近くにいる。こんな想像を悟られたら恥ずかしさに悶死してしまいそうだ。

「いや。出張先で床屋に行くの、好きなもので」

「T社ですね。ここにはあそこしかありませんものね」

「そこに売った装置を直しに来たんです」

「どんな装置ですか」

「半導体ウエハの製造装置」

「ウエハって、CPUとかRAMになるものですよね」

 祥一は一瞬目をしばたいた。ずいぶん的を射た指摘だったからだ。女性にこの職業を言ってもハテナマークで終わることがほとんどなのに。



 宇宙人を見るような目で見つめられて、しまったと思った。床屋はそんなこと、知らないのかもしれない。

 変に言い訳するのは柄でもないから、しらん顔をして彼の髪をなでた。まさか髪を切るわけにはいかない。そろそろ種明かしをして帰ってもらわなければ。でも、もう少しだけ。ゆうはお茶を濁すように男の肩をもんだ。母の肩もみでずいぶん修行させられている。彼は気持ちよさそうに目を細めた。

 無骨で、あまり人に弱みなんか見せそうに無い男が、隙だらけの顔を垣間見せるのは快感だった。彼の肩は広くて、普通の男性より筋肉がついているようだ。この肩にしがみついてオンブして、なんてふざけてみたいな。

 うわ。何考えてるの?

 さっと手をひき、一歩下がる。

「次は髭剃りだったかしら…」

 彼の顎を覗き込んだ。数秒後、彼がうろたえたように顔をひくのを感じて、はっとした。眼鏡をかけていないから近すぎたのだ。ゆうは近眼なのである。

「忘れてました」

 棚から取った眼鏡をかけると、彼はろこつに不信を表した。

「新米ってどのくらい?」と聞く。

「一ヶ月です。不安…ですよね?」でまかせを言った。

げっ、と喉が鳴り、思わずくすりと笑った。

「いや。こういうのも面白いから」

 度胸良く言われて、反応をおもしろがっていただけの自分を反省した。

「ごめんなさい。やっぱり、やめておきます。今日は店の主人が留守なのでつい、始めてしまいましたけど、私まだお客様の髪を洗ったことしかないのです。お代はいただきませんから、これでドライヤーをかけて、終りにさせていただけますか。幸い、まだ十分短くてらっしゃるし」

 彼はほっとしたように、なぜか落胆もしたように、ため息をついた。

「じゃあ、また、いつか、出張に来た時に寄らせてもらいます」

「よくあるのですか?」

「来るのは装置が壊れたときです」

「じゃあ、無いほうが、いいのですね」

「まあね」



「洗髪代だけでも」

 祥一が言うと、彼女はいたずらっぽい顔で小首をかしげた。

「そんな料金、無いのです。いくらにしましょう?」

 彼女の指先の心地よさを思い出し値段などつけられないと思った。絶句している祥一を彼女は黙って待っている。

「君の指」

「え?」

 彼女は何事かと、自分の指を取り出して目の前に差し出した。白くて、先のとがった指だった。感じたとおり肌が滑らかである。その指先で他の部分に触れてくれるなら、全財産をなげうってもいい。

「やっぱり、いくらってものでもない」

 値段をつけたとたんに何かが終わってしまう。そんな気がして、踵を返した。レジスターの乗ったカウンターに名刺大の紙が重ねてあり、そこには電話番号と、ホームページアドレスが載っていた。一枚つかみ扉に向かう。

「また来ます。あまりすぐなのは困るけど」

 紙片をポケットに突っ込みながら振り返ると、彼女は吸い込まれそうな目で祥一を見つめていた。

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