第4話 堕天使神─玉枝ノ前─

今の時刻は昼過ぎの十三時半、まだ玉枝は帰って来ておらず暇な時間が過ぎていく。

ハルカゼは雫の部屋で寝ており、起きてくる気配はない。

雫は庭へと赴き、鞘から太刀を抜いて軽く振り下ろしたりしていた。

何もする事がない今、体を動かす以外やることがないのだ。

太刀なんて見た事しかない雫は太刀の扱いについて全くもって皆無であり、凶器だという事はハッキリしているが、どうにも実感がわかないというのが心の中で霧のように晴れない気持ちでいた。


(異世界に行った時、僕はこの太刀で斬れるのかな)


剣闘神でありアウルゼルは異世界に行く為の修行だと雫に言った。

その言葉は雫にとって異世界には危険が沢山あるという意味を持っていると思っている。

ファンタジー小説なんかでは魔物や魔獣、盗賊や野盗なんて危なっかしい輩が出てくるが、もしかしたらその類が常にいる世界なのかと不安になっていた。

だからこそ身を守る為の武器、そして身を守る為の修行なのかなと解釈する。

それに実力があれば自分の身だけではなく他人も守れるだろう。

そう考えながら太刀を振るっていると自然と体から汗が出てくる。

服を着たまま汗をかけば、ベタベタとして気持ち悪いと思った雫は服を脱ぎ、上半身だけ裸になった。

柄に力を入れ、力任せに振るう度に汗が周りへと零れ落ちる。

暫くそうやっていると聞き馴染んだ声が雫に向けられた。


「関心せんの。慣れるのに休んでいろと言った筈じゃが」

「はぁ、はぁ・・・アウルゼルさん?」

「何をしているか時間を作って来てみれば、太刀を振るいおって。まぁ少し嬉しいがの」


アウルゼルはニヤっと笑いながら庭に設けられた椅子に座り、雫を見つめている。

アウルゼルは太刀を振る雫の体を見ていた。

一つ一つの動作に無駄がある事。それ故に無駄な体力を消費している事。

それ等は剣を扱い実力がある者なら一目瞭然だった。

だが雫自身はそんな事はいざ知らず、ずっと太刀を振るい続けていた。


「まずは体作りから始めねばならん。太刀を振るうのはその後じゃ。じゃが、太刀自体に少し愛着でも湧いたじゃろ?」

「そうですね。何故か手に馴染むし、それに触れていると自然と落ち着きます」

「ふむ・・・そうか」


アウルゼルは雫を見ながら何か考えていた。

雫は太刀を鞘に仕舞い、自分を見つめるアウルゼルを横目にタオルを取りに行こうとした。


「シズクや、太刀を振るえる程には体に慣れたかの?」

「え、あ、はい。確かに体を動かしても大丈夫ですけど・・・」

「それならば夜まで時間がある。この場で良いから腕立て伏せ、上体起こし、スクワットを各二百回するのじゃ。もし余裕があるのならまたそれの繰り返しじゃ」

「いきなりですね。・・・でも分かりました」


雫は言われた通りにやり始めた。

まずは腕立て伏せをやる事にした雫は地面に手をついて腕の力で何度も伏せを繰り返す。

何回かやっている途中、急に背中に重たい物がのしかかった。


「っぐ・・・重い、うぅ・・・」

「当たり前じゃ、儂がシズクの背中に胡座で座っとるんじゃから」

「はぁ、はぁ、ふぅ、ぐっ、ふぃ・・・」

「うむ、その調子じゃ。あと百五十回、頑張るのじゃぞい」


雫は無我夢中でただ何も考えずに腕立て伏せを繰り返した。

キツい、辛い、重い、苦しい、辞めたいなんて事は思わず、寧ろ強くなれるならやってみせると内心そう思っていた。

弱い自分を変えたい。生前の弱い自分に戻りたくない。

そんな想いで腕立て伏せをやり続け、刻々と時間が過ぎていった。


それからどれだけ時間が経ったか分からない。

随分前に腕立て伏せは終わり、今はスクワットをしていた。

雫の体は汗で溢れており、放つ匂いは汗臭く、いい匂いではない。

そんな事は無視して只ひたすらに、言われた通りにやっていた。

しかし、雫には疲れを感じないのか表情は普通で、腕立て伏せをやっていた時よりも余裕の表情を見せていた。

時刻は既に八時五十分、アウルゼルは玉枝が用意したラーメンを食べながら雫を見ていた。


「腕立て伏せは八百回、上体起こしが千百回、お主は本当に元人間か?今でスクワットが八百五十回を超えたの」


雫にはアウルゼルの言葉は届いていない。

最初はアウルゼルから余裕があれば追加でやれと言われていたが、今はそんな事は聞かずに飽きたら次、という感じでやっている。


「爺さんや、もう止めさせるのじゃ。幾らなんでもやり過ぎじゃよ。今出来るからと言って、明日動けない状態だったらどうするのじゃ」


玉枝がやってきて、そうアウルゼルに告げた。

玉枝は晩御飯を作ったものの、雫が終わるまで待っていた。

晩御飯を作りながら偶に体を動かす雫を見て、最初はかっこいいと思っていたが、次第に心配するようになってしまった。

何せいきなりこんな風に体を動かすのだ。

体が壊れてしまうのを恐れ、アウルゼルに告げたが──


「何を言っておる。そんなの甘えじゃ、あの世界には天下七剣やドラゴジールの執行官達、四大戦姫などがおる。それ等に負ける程に弱くするつもりは儂にはない」

「そこまでして強くする必要はないじゃろ?力があればなんでも出来るという訳ではないのじゃ。それにまだ十五の歳でここまで追い込むのは酷じゃよ」


そう、雫の年齢はまだ十五歳。

神界に来てから身長が伸び、大人びた顔つきからは想像できない年齢だ。

しかし現実は十五歳である。故に体に負担を掛け過ぎれば、いつか壊れる。

成熟していない体は本人は知らずとも徐々に悲鳴をあげていた。

暫くして徐々に悲鳴をあげていた雫の体が限界に来たのか、スクワットでしゃがんだと同時に膝から崩れ落ちてその場で動かなくなった。


「シズクっ!大丈夫かえ!?しっかりするのじゃ!!」


玉枝は急いで雫に駆け寄り、肩を抱きながら声をあげるが雫からの応答は無い。

アウルゼルは顎髭を撫でながら、雫を観察するように観察するように言った。


「これが限界かの。玉枝、布団を用意するのじゃ。儂が運んでやる」

「もう──」


玉枝は雫を抱きしめながら、アウルゼルの方を向いた。

その眼差しには──瞳には涙が零れている。


「もう──帰っておくれ・・・。あとは妾が全てやるのじゃ。じゃから、今すぐ、帰っておくれ」

「・・・・・・・・・」


玉枝の帰ってくれという言葉に対して、アウルゼルは黙った。

玉枝の心の中では今、雫の事で頭がいっぱいで、そんな雫をここまで追い詰めるアウルゼルが許せなかった。

玉枝にとって剣闘神アウルゼルは上の存在。

そんな玉枝は世話をしたり、仕事を手伝ったりする天使だ。

最も現実的に言えばメイドなんかに近い。

そう考えるとアウルゼルという存在は玉枝にとって主様のような者である。

しかし、今この瞬間は違った。玉枝は大好きな雫が倒れ、その原因を作った主たるアウルゼルに怒りを覚えていた。


「・・・ふむ、ならば帰るとするかの。また明日来る」


そう言って雫と玉枝に背中を向けて歩き出した。


「──くて良いのじゃ」

「何じゃ、何か言ったかの?」


玉枝の言葉に振り向き、再度聞き直すアウルゼルに玉枝は涙を流しながら、そして笑いながら答えた。


「もう来なくて良いのじゃ」

「・・・玉枝──っ、何じゃ!?これは・・・待てっ!それ以上力を使うでない!戻れなくなるぞっ!」


何かを察したアウルゼルだったが、時は既に遅かった。

雫と自ら包み込むように、黒と紫色の何かが玉枝の体からゆらゆらと燃えるように現れていた。

しばらくすると一尾だった尻尾はやがて九尾になり、髪は伸びて長髪になった。

体自体にも変化が訪れ、子供のような体から大人びた女性の体へと変化していく。

黄金色に輝いていた髪や尻尾は真っ白な雪のように白くなり、瞳の色は血液のように真っ赤に染まった。

その光景を見てアウルゼルは顔を歪ませた。


「大天使になった瞬間に堕天したか。・・・大堕天使が正しいのかの」

「ふふっ、そうじゃな。妾の名は玉枝ノ前じゃ。契約上、堕天した場合は契約解除じゃろ?これで・・・これでようやく大好きな雫の元にずっと・・・」


契約という言葉にまたもや難色の顔色を浮かばせるアウルゼル。

天使は元々誰かに仕える存在というのではなく、ちゃんと個々で自分のやりたい事などはやっている。

そんな中、玉枝はアウルゼルから見出されて剣闘神の天使になると契約を結んだ。

しかし契約が破棄されるような事があった場合は余儀なくその場で自由が与えられる。

大天使に昇華した場合、堕天使に堕ちた場合は即契約破棄となる。

玉枝──玉枝ノ前はその二つを同時にやった。

その光景を見てアウルゼルは少しばかり驚いている。


(少なくとも儂が見た天使の中で、大天使になり堕天するのを同時に起こした天使は見た事がないの)

「雫やぁ、もう大丈夫ぇ。妾がずっとずっと守ってやるからの。んふぅ・・・雫の匂いが服に染み付きそうじゃぁ。愛しているのじゃ、雫──ちゅっ」


玉枝ノ前は雫の頬にキスをする。

その顔は正に恋する乙女そのもので、純粋に愛しているのだと誰もがそう思うだろう。

そんな光景を見ていたアウルゼルは心の中で、どうしたものかと考えていた。

堕天使という存在は周りから見て良い印象を与えない。

私利私欲の為には犠牲を出しても厭わないのが堕天使なのだ。


(儂が選んだ男を盗られる訳にはいかん。相手が儂が直々に選んだ天使だとしてもじゃ。堕天したとなれば尚更渡す訳にはいかんの)


何故、雫という男がこの神界に来て異世界にまで行くのか。それには深い事情があった。

異世界には魔術や魔物が存在する。物語なんかで出てくる勇者や魔王だって存在する世界。

しかし戦争なんてものはなく、小さな小競り合いやその他犯罪だけが起こっている。

そこだけ見れば雫が生きていた日本という国ある世界と差程変わらないだろう。

しかし、その世界には一つの脅威が襲おうとしていた。

それは神ですら危機感を覚える程の脅威。

比較的に平和な世界は神にとって都合の良い世界だ。──支配するには簡単な世界。

一つ一つの世界にそれを管理する神が存在する。

雫が生きていた世界にも、管理する神が勿論存在する。

しかし、雫がこれから行く予定の世界には神がいない。

何故いないのか、それは上位の神にしか知らぬ出来事があったからだ。


(あの世界を管理する神が死んでしまった。──否、殺されてしまったからの。あの世界を欲しがる神は・・・彼奴じゃろうな。彼奴に対抗出来るのは雫しかおらん。強靭な肉体、体内保有魔力量は元人間の癖に儂らと同じじゃ。あの世界と契約を交わし、世界契約守護者になってもらわないといかんのに。この狐女は・・・・・・)


アウルゼルは歯痒い思いで玉枝ノ前を睨んだ。

玉枝ノ前はそんな視線を無視して雫の頬に自らの頬を擦り付けたりしている。

動物がよくする自分の匂いを相手につける行動にそっくりであった。

アウルゼルの視線に気がついた玉枝ノ前はクスッと笑い、口を手で覆いながら妖艶な笑みを浮かべている。


「なんじゃぁ、まだ居ったのかえ?」

「儂は帰らんぞ。雫を返すのじゃ」

「妾から奪うでない。雫は妾のじゃ、そして妾は雫のじゃぁ。のぉ、雫?んふふっ」

「そうか・・・口で言って分からぬなら──実力行使じゃ!!」


アウルゼルは目の前に現れた剣を取り、常人なら見えない速度で合間を詰めた。

そして上から下へと玉枝ノ前を目掛けて振り下ろす──が既にそこには玉枝ノ前はいなかった。


「妾の大切な体を斬ろうとするとは、怖いのぉ。一つ言っておこうかのぉ。剣闘神アウルゼル、お主じゃ妾に傷をつけることは出来ぬのじゃ」


玉枝ノ前はいつの間にか、雫を抱きしめながらアウルゼルの後ろにいた。


「その言葉、儂は覆してやるからの!雫はこれから大切な時期じゃ。それをお前なんかに邪魔はさせん!」

「あぁ、世界契約守護者とか言うやつかの?あれならば妾でも手伝う事は出来る故、お主が出なくても良い」


玉枝ノ前のその言葉にアウルゼルは少し動揺した。

世界契約守護者──世界自体と契約を結び、世界の外から来る外敵に対して護る存在。

しかし契約には神が立ち会わなければ出来ず、元々は剣闘神であるアウルゼルが立ち会う予定だった。


「貴様の言う事は間違いじゃな。神なしで契約など出来ぬぞ」

「いつ妾が神でないと言ったのじゃ?」

「なに・・・まさかっ!天使から神に昇華したというか!?」

「ふふっ、剣闘神。少しばかり殺し合いをするのしようかの。来るが良い『稲荷守雷鳴時雨』」


玉枝ノ前は抱きしめていた雫をそっと寝かせ、黒いオーラを全身に纏わせ、そして・・・右手にはどこからともなく現れた一振の太刀を握っていた。

その目には殺意が・・・全てを飲み込む程の恐怖が宿っている。


「妾、堕天使神が玉枝ノ前じゃ。妾は雫が好きでのぉ。異世界でもイチャイチャしながら過ごしたいのじゃ。その為にはまず、剣闘神が邪魔じゃ。とっととどこかに行けばいいもの、先程から妾の雫を取ろうとするなんて、罪じゃな」


ニヤリと笑いながら太刀を下段に構え、脚に力を入れる玉枝ノ前。

正に神速と呼べる程の速度でアウルゼルの目の前に移動し、左脇下から斜めに太刀を振るった。

刹那、ドゴンッ!という音とともに爆風のような衝撃が辺りに広がる。


(辛うじて受け止めたが・・・右腕が折れた、かのぅ。この女狐、もしや・・・いや、それは儂が認めたくない)


先程の衝撃は玉枝ノ前が振るった太刀をアウルゼルが受け止めた時に起こったものだった。

そしてここは家の庭である。庭はそこまで広くはないため、先程の衝撃で庭が半壊状態となっていた。

そして家にまで多少の影響も及ぼしている。

そんな中で玉枝ノ前は太刀を剣で受け止めるアウルゼルに対して押し切ろうと力を徐々に込める。

アウルゼルは玉枝ノ前の意外な強さに、力に少しづつ圧倒されており、太刀を抑える剣はカタカタと震えていた。

それにアウルゼルには右腕が折れたかもしれない程の痛みが襲っていた。


「おや?右腕を庇いおるのぉ。もしや──」


玉枝ノ前は力を抜いて太刀から手を離し、アウルゼルの右腕を目掛けて回し蹴りをした。

そして骨が折れる鈍い音が玉枝ノ前の耳に入った時、満面の笑みを零す。


「ぐぅぅあぁ!・・・・・・はぁ、はぁ、ふぅ、この女狐めがっ!殺してくれるわ!!!」


完全に骨が折れ、握っていた剣をその場に落とし、右腕を抑えながらアウルゼルは膝を着いた。


「どうしたのじゃ?あぁ腕が痛むのじゃな?ならば痛まないようにしてやるのじゃ」


玉枝ノ前は太刀を拾い、鞘に納め、腰を落とし、体勢は前屈み、左手は鞘に当て、右手は柄の少し上に。

一つ深呼吸──静かなその場所に、ドサリと何かが落ちる音がした。

その瞬間──


「な、ぐぅ・・・ぐ、ぐぁぁぁぁぁぁぁああぁああぁぁああああぁあぁあああぁぁぁ!!!!」


アウルゼルの右肩から下がなく、腕はその場に落ちていた。

神ですら認識する事が不可能な居合切り。

それを受けてアウルゼルは右肩から大量の血を吹き出していた。


「あっはははは♪止まらんの!血が止まらんのぉ!」


その光景を見て高らかに笑う玉枝ノ前の太刀には一切の血が付着していなかった。

玉枝ノ前がアウルゼルの腕を切り落とした居合切り。


『稲荷ノ太刀 一尾 龍威』

超高速の居合切りによって生まれる空気振動が視覚出来ない刃を作り、森羅万象を断ち切る技。


そして『稲荷ノ太刀』には『一尾』だけではなく『二尾』や『三尾』と他にも技がある。

それぞれで数が増えていくにつれ、強力になっていき、玉枝ノ前の尻尾と同じ数『九尾』まで技が存在する。


「沢山血が出て痛そうじゃのぉ。そうじゃ!今から止血してやろう。勿論──火でじゃがの♪」


玉枝ノ前が指を鳴らすと、拳サイズの赤黒い炎がアウルゼルの肩に出現した。

メラメラと燃える赤黒い炎はどんどんとアウルゼルの傷口を燃やしていく。

アウルゼルの額からは汗が溢れていた。


「ふぐっ、あっ、熱くなどっ・・・ぐぐぅ」

「そうか、ならもっと火力を上げねばのぉ」

「・・・!?ぐっ、ぐぁぁぁぁぁあああ!!!」


轟轟と燃える炎を左手で抑え、口からはヨダレを垂らしながら叫ぶアウルゼル。

赤黒い炎は右肩だけでなく、抑えていた左手にも襲う。

叫びながらアウルゼルが痛みに耐えていると、玉枝ノ前はゆっくりとアウルゼルへと足を進めた。

消耗仕切っているアウルゼルとって、玉枝ノ前が踏み込む足が、まるで死ぬ直前のカウントダウンに感じてしまっている。


──もう終わりだ。再度立ち上がり、力を振るう事すら出来ぬ──


己が死を悟り、ゆっくりと瞼を閉じて、死の直前の痛みが来るのをアウルゼルは待った。

またもう一度、この痛みを味わうのかとそう思いながら。

かつて世界で英雄と呼ばれた男は、一つの後悔を残して──雫という男を神に匹敵する程の強さにしたかった。かつての自分のように。

アウルゼルは瞼を閉じているが、脳裏には今までの出会い、別れ、目に焼き付けた光景が浮かび上がる。


(これが・・・走馬灯という奴か。今思えば、永く生きたの。やっと、お前に会えそうじゃ・・・アイリィン)


かつての想い人の名を心の中で思い出す。

暖かな陽気にふんわりとした彼女はアウルゼルにとって、一つの生きる意味であった。

そんな彼女に会える。なら死んでもいいかと思った時、柔らかなでしっかりとした声がアウルゼルを呼んだ。


「アウルゼル様っ!大丈夫ですか!!」


アウルゼルには聞き覚えのある声──一番身近で世話をしてくれる天使の声。

瞼を開けると小柄な女の子が体に見合わない大きな剣を持ちながら、こちらを見ていた。


「シェリル・・・・・・ど、どうした、儂は留守を頼んだ・・・筈じゃ」

「そんな事どうでもいいでしょう!アウルゼル様が危険な状態なんです。助けに来たんですよ!」


そうアウルゼルに言い、大剣を正面に構えて一人の女を見る小柄な天使。

天使の名はシェリル──剣闘神アウルゼル筆頭天使として、常に神の隣にいる存在である。

そんなシェリルは怒りを露わにしていた。


「どうして・・・なぜ主たるアウルゼル様を傷つけるのですか!貴女はアウルゼル様の天──」

「天使ではないのぉ。妾はもう天使ではないのじゃ。シェリル、神の傍に何時もいるお前なら分かるじゃろ?妾が天使じゃないことぐらい」

「認めたくないですけど、確かに貴方は神です。でもそれでも貴女にとってアウルゼル様は恩人じゃなかったのですか?!」

「なら聞こう。恩人が妾の大切な人に負荷を掛けてまで、挙句の果て気絶するまで追い込む様な事をされて尚更、貴様は正気で知られるかのぉ?そうじゃなかろう?内なる憎悪が絶えず込み上げてきてのぉ。もう我慢ならんかったのじゃ」


太刀を構え、殺意をこれまでかと言うくらいに瞳に宿し、小柄な天使を見据える。

狙うは首──手っ取り早く、より確実に殺す。


「妾の邪魔をするのじゃろ?・・・なら殺す。抵抗するのじゃろ?・・・なら殺す。後ろにいるボロ雑巾の様な神を守るのじゃろ?・・・なら殺すのじゃ!!」


地面が抉れる程に脚に力を入れ、シェリルの懐へと一気に玉枝ノ前は入り込んだ。


「っ!?!?」


シェリルにとっては全く目にする事が出来なかった。

反応する事も、捉える事すら出来ない速度。

しかし、太刀は寸前で止まった。

スラリと綺麗な刀身はシェリルの首に当てられている。

シェリルは生きた中で初めて恐怖を覚えた。

額から溢れる冷や汗、カタカタと震える大剣を持った腕。


「妾が真に憎いのはアウルゼルじゃ。貴様を殺しても結果は変わらないのじゃよ」


冷たく、低く、でも確かな声で玉枝ノ前はそう言った。


「それにのぉ、貴様には大変世話になったからのぉ。シェリル・・・妾が料理上手になったのもお前のおかげじゃ。いつも褒めてくれてたからのぉ」

「あっ・・・あ・・・ぅあ、うぅ・・・・・・」

「じゃが、妾の邪魔はするでない。妾は好きじゃぞ?シェリルの事。殺したくはないからのぉ。じゃから、身を引いてくれるかのぉ?」


柔らかな声なのに恐怖の更に上を行く感情に、シェリルは言葉を失っていた。

だがシェリルには守らないといけないという思いもあった。

シェリルにとってアウルゼルは大切な神なのだから。


「ゆ、許して・・・ください・・・」

「ふふっ、何故謝るのじゃ?シェリルは何もしておらんじゃろ?」

「違います!アウルゼル様をお許しくださいっ!!」


意外な言葉にびっくりしたのか玉枝ノ前は目を見開いた。

シェリルの首に当てていた太刀を下ろし、鞘に納めて玉枝ノ前は雫の元へと歩いて行く。


「そんな可愛い顔で謝られては困るのぉ」

「・・・えっ??」

「馬鹿に言っておくのじゃ。雫は妾が強くすると・・・世界契約守護者にも妾が立ち会う。妾は雫の嫁になるのじゃ、一切邪魔をするなとそう伝えるのじゃ」


雫をお姫様抱っこで抱え、愛する人を見るような甘い表情を見せながら玉枝ノ前は家の中へと入っていった。

その後ろ姿が見えなくなった途端、シェリルは持っていた大剣をその場に落としてしまう。

恐怖、過去最高の恐怖を味わい震える体は収まることを知らない。

それでも主たる剣闘神アウルゼルを守らないとダメだと思ったシェリルはアウルゼルの元へと歩み、左肩を支えて歩き出した。


「ぐぅ、・・・いつか、殺してやる・・・」


アウルゼルのその言葉にシェリルはため息を吐いた。

ここまで完膚なきまでにやられ、ボロボロになってもまだ闘争本能があるのが凄いと呆れていた。


「アウルゼル様は今後、あの人の子には関わらないでください。それに素直だった玉枝をあそこまで変えたのは・・・貴方のせいです。私は玉枝を──妹のように可愛がっていたのに」


シェリルと玉枝ノ前の関係──同じ天使でありながら優秀なシェリル。努力を重ね、並ならぬ実力をつけた玉枝。

しかし、かつて天使であった玉枝はアウルゼルに振り回されていて不満ばかりであった。

今回、溜まりに溜まった不満、憎悪、それらが鍵となり神になってしまった。


暫く歩くと目の前に一人の男が立っている。

深くフードを被り、顔は伺えないがシェリルは誰だか知っている。


「運命神様。どうしてここに?」

「これもまた運命・・・天使は神になっていたか」

「あ、えっと・・・」

「あぁ、全てそういう運命だった。彼女の名前は玉枝ノ前──神としての実力は明らかに私より上だよ。何せ運命という色を塗り替えてくるからね。多分・・・創星神でも勝てるかどうか分からない」


その言葉と共に男はフードを脱ぎ、綺麗な顔を現す。

美形でイケメン、全く汚れを知らない肌。

そんな男はシェリルを見てニヤリと笑った。


「先に言っておこう。君もいずれ神になる。それからあの少年の力になろうと必死になるよ。大好きだった玉枝ノ前は近くにいるし、君にとっては嬉しい事じゃないか」

「私は・・・」

「さぁ、運ぶのを手伝おう。一人だと大変だろう?」


君もいずれ神になるという言葉が引っかかるシェリルは困惑した表情を浮かべた。


「君も随分ボロボロだね〜。あの英雄がここまでやられるとは・・・君って神の中で三番目に強いのに幾らなんでもこれはやられ過ぎだ」

「煩いのぉ・・・痛っ、そこを触るな!ぐぅっ・・・」

「もう関わらない事だね。運命がそう色付けしてるし、君はこの件から降りるべきだ」


真剣な顔でそう運命神は告げた。

アウルゼルは傷口が痛むのか話を聞いてない様子。

その事は運命神にも分かっていた。


「天使ちゃん、後で君もアウルゼルに言っておいてくれよ。暴走しかねないから」

「は、はい・・・」

「気持ちに迷いがあるね。なんなら私の天使になるかい?アウルゼルは休養しないとダメだし、その間暇だろう?世話なら他の天使に任せればいい」


そう言いながらアウルゼルを背負い、歩き出す運命神。

シェリルの腹の中では色々とぐちゃぐちゃになっていた。

玉枝ノ前──玉枝と共にまた過ごしたいという気持ち。

だがそれは同時に主であるアウルゼルを裏切る行為だ。


「まぁ、運命はもう決まってるけどね。この際、ハッキリ言った方がいい。溜めてても自分を心が小さくなるだけ。それならいっそ逃げたっていい」

「こいつの、言葉に・・・耳を貸す、でないわ。イライラ、するのぉ・・・」


そんな会話を続けながらアウルゼルがする住居へと歩みを進めた。

未だシェリルはどうしたらいいのか分からないままである。

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