第36話

「さよなら」


彼が勢いよくペンを振り下ろそうとした瞬間、

「あったぁ~~~~!!!!」

どこからか凄まじい大声が響き、その場にいた全員の動きが止まった。


(今だ……!!)


モチオは走ってリルの手からペンを叩き落とし、それを拾ってポーチの奥にしまった。


「あっ…………」

「これは使わせない……!!」


リルを睨みつけたモチオは、声がしたほうに視線をやるとハッと息をのんだ。


そこには、ぽつんと赤いキノコ――ではなく、人間の小さな女の子が立っていたからである。


(あれって駒……?なんでここに?)


「あった~!!あそこにあったよ!!こまちゃんのせんべい!!」

甲高い声で叫んだ駒は突如全速力で、モチオ達のいる花桃の木へと駆け出した。


「せんべい??」

「なんで人間がいるんだよ……」


怪訝な面持ちのモチオとニミコには目もくれず、リルは青ざめた顔でその場に立ち尽くしていた。


「こまちゃんのせんべい、ここにおちたの~」

「せんべい?落ちた?」


モチオは理解できずにいると、

「すみません!!」

美須乃が走って追ってきた。


「『おやつ!!おやつ!!』ってうるさいから、せんべい入った袋を投げたら遠くまで飛んでって……」

「ここにはどうやって来たの?」

「駒を追っかけてたら、急に景色変わったんよ」


「ここは橙ウキウクだよ」

「えっ?なんで……??」


「歪ができてたのかな。数十年に1度くらい、人間が迷い込むこともあるらしい」

「そうなんか……あ、あの人らは仲間のウクー?」

「うん」


美須乃はモチオの背後に見知らぬ人物が2人いることに気が付き、モチオは然り、容姿端麗なウクー達を目の前にし、気が遠くなりかけていた。


「うっ……なんか、美形の圧が恐ろしい……

これじゃあ、うち“月とスッポン”の“スッポン”どころじゃないやん。“ぺんぺん草”やん……はあ、帰りたい……」


ぶつぶつ独り言つ彼女は、傍に落ちていた透明の煎餅袋を拾った。


中身を確認すると、白い煎餅は大中小と3つに割れていた。


「あ~あ、割れとるやん。まあ、まだ食べられるか……はい」

「くっつけて!!」

「無理やって。全部食べたらええやん」


美須乃は中と小サイズの煎餅も駒に渡した。


「はい、これでおしまい」


しかし、駒は納得するはずがなく、

「もっとちょーだい」

右手を差し出した。


「やから、もうないの……!!」


美須乃の苛々感は次第に増していた。


「ウークー!!」

「ない」

「ウクウクウクウクー!!」

「うるさい!!」

「ウクーほしいの~!!」


腕にしがみつく駒を美須乃は、

「ないって言うとるやろ!!わかれよ、このクソが……!!」

ドン!!と肩を強く押すと、駒はゴロンと仰向けに倒れ込んだ。


「びえ~~ん!!ウクーぅぅぅ~~~~!!!!」


この世の終わりのような顔で足をじたばたさせて泣き喚く駒。


モチオとニミコは呆気に取られていたが、リルだけは両耳を塞いでぎゅっと目を閉じていた。


子供が苦手なウクーは珍しくないが、彼は特に駒くらいの幼児が苦手だった。


それは、昔、人間の恋人が連れていた子供の癇癪によって起きた事件で、メハトを半分失った苦い記憶を思い出してしまうからだった。


「もう……!!早よ帰るで!!」


痺れを切らした美須乃が駒の腕を掴んで引っ張ったが、

「いや~!!ウクーほしいの~!!」

断固としてその場から動こうとしなかった。


助けたほうがいいのかも……とモチオが思い、駒に声をかけようとした瞬間、

「はあぁぁぁ~~~~!!うるさいわねえ~~!!ゆっくり寝ていられないじゃないのアンタ達ぃ~~!!!!」


地響きのような声とともに、体長1mほどのずんぐりむっくりした灰色の獣が姿を現した。


獣は不機嫌そうにモチオ達を睨みつけながら、黄緑色の葉っぱをむしゃむしゃと齧っていた。


「橙さん……!!」


そう、彼女こそが橙ウキウクの主、“橙さん”である。

謎の動物の出現に駒はぴたりと泣き止み、口をポカンと開けていた。


「コアラ……!!」

「あたし、橙っていうのよ、おチビちゃん。コアラじゃないの」


人間でいえば、中年女性によく見られるやんわりした宥め方に対し、駒は聞き耳持たずで、すっかり目をキラキラさせ彼女を指差して立ち上がり、

「コアラコアラ~!!かわいいね~」

美須乃の上着の裾を引っ張って、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。


「コアラよりウォンバット似でしょ……!!全く、失礼しちゃうわね…………!!」


駒を尻目に憤慨していた橙さんは、

「ってあれ……?なんでここに人間がいるのよ?誰が連れてきたの!?」

重要なことに気が付き、あたふたし始めたが、


「いや、歩いてたら、偶然こっちに来てしまったらしくて……」

「なんだ、そうだったの。なら仕方ないわね。ほら、あそこから帰りなさい」


モチオの返答に落ち着きを取り戻し、短い指をすっと前に出した。


その方向には、トフシイ東側広場の見慣れた光景がうっすら映っていた。


「すみません……じゃあ行こか」

「いや~こわい~」


美須乃は駒に声をかけたものの、彼女はイヤイヤと首を振った。


「う~ん…………あ、あっちにプリン屋さんあるかも……

ドーナツ屋さんもあるかな~美味しそうやな~ママだけ食べに行くわ。じゃ」


と美須乃だけ1人先に行こうとすると、

「こまちゃんもいくの!!」

駒に引き止められた。


「よし、じゃあ立って。レッツゴー」

「ゴー!!」


まんまと“おやつ作戦”に乗せられた駒は、自分の右手を母の左手と繋ぐと、脇目もふらずに一目散に駆け出した。


美須乃は外世界に戻る前に、ウクー達に向かって一礼してから去って行った。

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