第35話
(美須乃に、結婚記念日の『お祝い何か考えとくよ』って言ってたのに……忘れるところだった)
記憶を失わずに済んだ安心感に浸っている暇もなく、モチオは花桃の木を目指して我武者羅に走り続けた。
数十分走り続けると、石塔の前を行ったり来たりしている全身黒づくめの女性の姿が目に入った。
モチオは荷物を持っていない方の手を大きく振った。
「お~い!!ニミコ~!!」
「…………!?」
名前を呼ばれて振り返ったニミコの顔は、みるみるうちに険しくなった。
髪の乱れた下着1枚の男が、首から得体の知れないどろどろの液体を流しながら、裸足で一心不乱に疾走して来る姿は恐怖そのものだったからである。
「ニミコ!!」
がしっと抱き着かれたニミコは、それがモチオと気付いても動揺していた。
「モ、モチオか!?な、な、なんで裸なんだよ…………!!」
「パンツ履いてるから裸じゃない……」
「同じようなもんだろ!!とっとと服を着ろ…………!!」
さっと突き戻されると、モチオはニミコに背を向けて手早く身なりを整えた。
「ご、ごめん……」
「はあ~気が狂って暴れてんのかと思ったぜ……」
赤面していたニミコはモチオの首元を見てぎょっとした。
「首、やばいことになってんじゃねえか!!」
「あっ、これ……?もう痛くはないよ。まだ、記憶あるから。失くさずに済んだ。エビフライで目が覚めて逃げてきたんだ」
「は?エビフライ??」
「いや、なんでもない。とにかく会えてよかった……」
「オレのほうこそ、お前を1人にするべきじゃなかったな……悪かった」
モチオは首を横に振り、
「橙さんは…………まだ起きてないのか」
傍の石塔がまだ躑躅色に変わりきっていないことを確認した。
「こうなったら、直接オレが奴と話をつけてくる」
「だめだよ。また……」
「なんだよ。親友がやられてるってのに、黙っていられるわけねえだろ」
制するモチオにニミコは拳をぎゅっと握りしめた。
「だって、どこにいるかわからないし……わたしはいいんだよ」
「よくねえよ!!」
と、揉めていると、
「ここにいるよ」
その声で2人はぴたりと止まった。
前方に視線を向けると、リルが冷ややかな表情で立っていた。
するとニミコはすぐさまモチオの前に出て、リルをキッと睨みつけた。
「こいつを巻き込むな」
「巻き込むなって、そもそも、僕とモッチーとの仲に君が勝手にキレて刺したんじゃないか」
「え……?どういうこと?事故じゃなかったの?」
モチオは話がつかめずニミコとリルを交互に見た。
ニミコは徐に口を開いた。
「もともといけ好かない奴だった。あの時――枯葉集めをしていた時に話しかけられた。
やたらお前のこと褒めて仲睦まじい話とかを得意げにされたら、だんだん憎らしくなってきて……それで刺した」
「全く、短気すぎるよ……」
「あれは挑発してたのか?」
「きっと、一発殴ってくるだろうって鎌かけたつもりだった。
そこで君のモッチーへの気持ちを確認できたらすっぱり諦められるって思ったから。
でも、まさかメハトを狙うとは……僕のこと、殺したい程憎かったんだね」
「そこまでは思ってねえよ」
「まあ、今更聞いてもどうしようもないけど……ここを離れる口実にはちょうど良かったよ。ハッカメソウを探しに行く目的があったからね。
長い年月かけてあちこち探し回って、ようやく見つけることができた。
その間、何人か引き寄せられてきたけど、モッチーみたいな子は誰もいなくて続かなかったよ。
体力もあまり残ってなかったし、目的も果たせたから戻ってきた」
「お前は、オレのこと嫌いじゃなかったのか?」
「疎ましいとは思ってたけど、何だかもうそんな感情すら薄れてきて……
むしろ、そのほうが嬉しかったかもしれない。モッチーが自然に僕の元を離れていってほしかったから」
「でもモチオはそれが完全にできなかったのか……」
「ご、ごめん……」
首を垂れるモチオにニミコは、
「謝ることじゃないだろ。面と向かって言われたわけじゃねえんだから」
と言うと自らの思いを口にした。
「オレだってモチオのこと好きだった。でもこいつがいつもうまいこといって連れ出してくから……
お互い好いてるなら、入り込む余地はねえなって諦めようとしてた。
でもああ言われて、弄ばれてるんだとばかり…………」
「ニミコ…………」
いつになくしおらしい態度のニミコにモチオは罪悪感に包まれた。
「わたしこそごめん……はっきりしないことばっかり話してたからだよな」
「お前は悪くない。オレの勘違いだ、情けねえ……」
ニミコは悔しそうに唇を噛みしめると、リルを見据えた。
「お前は、モチオのメハトを不能にして記憶をなくせば、自分のものにできるとでも思ったのか」
「ふふっ……失敗に終わっちゃったけど……モッチーと一緒になれても“抜け殻”じゃあ虚しいだけだね……」
寂しそうに笑うリルにモチオは胸が痛くなった。
「で、お前の望みは何だ?」
「望みか…………僕を殺してほしい」
「はあ……??何バカなこと言ってんだよ。そんな思い付きで『殺せ』なんて……」
声を荒げるニミコに対し、モチオは咄嗟に言葉が出て来ず固まっていた。
リルはニミコには構わずモチオに視線を向けた。
「思い付きじゃない。ここに戻る前からずっと決めてた……
モッチー、例のペン持ってるよね?それで一突きすればすぐに終わる」
「本気で言ってるの……?」
「うん……」
「なんで……?なんで、大好きな人を殺さないといけないの?そんなの……できるわけないだろ!!」
「このまま抜け殻となって彷徨うくらいなら、いっそのこと死んだ方がマシだ」
「そんなの間違ってるよ……リルはまだ生きてるじゃないか。きちんと記憶もある」
「いや、今はかろうじて理性を保てているだけ。君への思いを断ち切るには僕が消えることなんだ。でないと、また執着してしまう……キリがないんだよ」
「それが死ぬことだなんて……しかもメハトを刺す…………?
砂になって消えてしまったら、何も残らないじゃないか」
「だからだよ。跡形なく消えたほうが困らないだろう?」
「そんなの、わたしは絶対嫌だ…………!!」
モチオは自身のウエストポーチをぐっと押さえた。
「モッチー、お願いだ……」
「何を言われてもペンは出さない」
頑なに拒否するモチオにリルは、
「じゃあ、自分でやる……」
素早い身のこなしでモチオに詰め寄り、彼が押さえていた手を無理矢理払い除け、紺藍色のペンを抜き取った。
「やめて……!!」
「おい……!!」
リルは2人から距離をとると、鋭いペンの先端を自身のメハトに当てた。
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