第31話
翌朝、モチオは害虫駆除の仕事を終えると、花桃の木から1kmほど離れた広場で絵の練習をしていた。
昨日“とおし”でリルの居場所が微かにわかったので、もう少し鮮明に映して絵に描き表せないか試していたのである。
広場といっても四方八方に伸びきった雑草ばかりで、藻に覆われた石造りのベンチが4か所、中心にはひび割れた謎の巻貝のオブジェがあるくらいの寂れた空間だった。
けれども、集中するにはうってつけの場所で、モチオが黙々と練習している間、斜め向かいのベンチで談笑する初老の男女2人以外は誰も来ず、静かな時が流れていた。
ふと空を見上げると、薄い曇が広がっていた。
暑くも寒くもない過ごしやすい天気だ。
微かな風が吹くと、甘いフローラルにほんのりバニラがまざった香りにふわりと包まれた。
(あれ……?この匂いは…………)
きょろきょろとあたりを見回すモチオ。
いつの間にか男女2人はどこかへ行ってしまっていた。
そして、広場の出入口方向に視線を向けた彼は目を疑いそうになった。
「リル…………」
柔らかな風合いの白シャツに、藤色のストールを巻いた灰青色の髪の男性。
遠くからでも、吸い込まれるような瑠璃色の瞳は見紛えるはずがなかった。
2人の視線が合うと、リルはゆっくりとモチオの前まで歩いてきた。
微笑を湛えるその姿は50年前と比べて全く色褪せていなかった。
「ひ、久しぶり……」
モチオは思わず声が上ずった。
「元気だった……?」
我ながら間抜けな質問をしたものだと思った。
しかしリルは穏やかな笑みを浮かべたままだった。
髪型も顔つきも以前と変わらなかったが、晩秋のようなどこか寂寥感に包まれている印象を受けた。
「何とかね……そのペン、まだ使ってくれてるんだ」
「う、うん……描きやすいから。インク何本目かな……」
耳に心地よく響く声を聞くと何だか照れくさくなった。
描いている所を見られるのが恥ずかしかったモチオは、手にしていたペンを慌ててポーチにしまった。
「髪切ったの?」
「うん……だ、だいぶ前だけど……」
「似合ってるね」
「あ、ありがとう…………」
リルは昔と変わらず優しい口調で話しかけてくれているのに、モチオは1つ1つの言葉がぎこちなかった。
「もしかして、もっとやつれてるかと思ってた?」
「え、いや…………そんなことないよ……」
藤色のストールからは真っ黒に染まっているメハトがのぞいていた。
そういえば、少々痩せたようにも見える。
「わたしのこと覚えてる?皆、“抜け殻”って言ってたけど……」
「ああ、まだちょっとは橙色残ってるから……って、モッチーのこと忘れるわけないよ」
「そ、そうか……あ、どうしてここに?仕返しに来たの……?」
モチオは単刀直入に尋ねた。心臓がバクバクいっていた。
「仕返しってニミコに……?彼女に危害を加えるつもりないよ。
モッチーの大切な人だから。僕はこれを渡しに来たんだよ」
青磁色の四角いウエストポーチから取り出したのは、カードサイズのクラフト封筒だった。
封筒を開けると、清涼感のある強烈なニオイが鼻の奥まで届き爽快感に包まれた。
中には柚葉色の細長い葉と栗皮色の種が入っていた。
「パムズターの好物、ハッカメソウだよ」
「これが…………」
「ようやく探し当てて、種も採取できたんだ。これを橙でも育てれば、オドロシムシ駆除に上手く活用できると思うよ」
「すごい……そんなことやってのけたんだ」
「まだ始まりだけどね」
「わたしも一緒に行けばよかったのかな……」
「ううん。長期間とても冷たくて暗い地域にいたから、モッチーを連れていかなくて良かったよ」
「ごめん……辛かったよな…………」
「謝らなくていいんだよ。また、こうして君に会えて嬉しい」
ふわりとした笑みにモチオは何故か違和感を抱いた。
「わたしのこと嫌いになったんじゃなかったの……?」
「どうして?」
きょとんとしているリルに、
「あの時――最後に会った日、黙って出て行ったから怒ったんだろうなって。連絡もなかったし……」
「ああ……あれは、モッチーにもう付き合う気がないのに、追っかけても迷惑なだけだと思って。嫌いになんかならないよ」
「そうだったんだ……」
モチオはホッと胸を撫でおろした
「もしかして、ずっとそれを気に病んでたとか……?」
「えっ、あ、うん……」
「ごめんね、誤解させて」
リルはよしよしとモチオの頭を撫でた。
その大きな手にモチオはドキドキしていた。
「他の人達には会った?」
「うん。みんな表面上は喜んでたけど、気味が悪そうな目つきだったよ。
モッチーも怖いよね」
「怖い……怖いけど、驚いた方が強いかな」
嘘を言っても、きっと見抜かれてしまうとわかっていたモチオは正直な思いを伝えた。
「リルは怖くないの?」
「え?」
「何でニミコと言い争ってたかは知らないけど、刺された時はやっぱり痛かっただろうし、ここから離れた後は戻りづらかったんじゃなかったのかなって……」
「そんなことないよ。だって、あのままいたら迷惑かけるからね。
今はひとり自由気ままだけど、ちょっと寂しい時もあるかな」
「そっか……何もできなくてごめん。仲間なら痛みを分かち合うべきだったのに」
「相変わらずモッチーは優しいね……」
そっと頬に触れた指先は、まるで氷のように冷たかった。
モチオはリルの腕を掴んだまま俯いた。
懐かしい感覚が蘇り鼓動がどんどん速くなる。
(だめだ……また惹き込まれてしまう……)
ぐっと堪えていたモチオが、
「わたしは…………」
と言いかけて顔を上げた瞬間、彼の唇でふさがれた。
目をぱちくりさせるモチオにリルは顔を離して微笑んだ。
「本当は、待っていてくれたんじゃないのかな?」
「………………」
紫の瞳で見つめられると何も言い返せなくなってしまう。
「別に我慢することないよ……」
抱き寄せられ耳元で囁かれたモチオは、数十年ぶりの温もりに躊躇してしまい、身動きが取れなかった。
首筋にかかる吐息がくすぐったくて、ぶるりと震えた。
リルはモチオをまっすぐ見つめて言った。
「僕だけのモッチーになってくれないか……?」
「なんで今更…………もっと前に言ってくれれば…………」
泣きそうな声を上げたモチオはハッとした。
(いや、リルは前に言ってた……『庭園で仕事したら?』って誘ってくれたのに……それに、わたしがためらってた時も待っててくれたのに、無下にしたのは自分なんだ……)
「ううっ…………」
思わず涙が出てきて彼を正視できなかった。
「ごめん……わたしが悪いのに…………」
「ううん、こんな死にかけのヤツに言われても嫌だよね」
「違うよ。そうじゃない。リルのこと好きだけど、もう一緒にはなれない……」
「そうか……」
すんなり体が離れたと思った瞬間、モチオの首に鋭い痛みが走った。
「あっ…………」
ぐにゅっとメハトが潰される音とともに、じわじわと生温かいものが染み出す。
「ど、どうして……?」
「……だって、さっき言ってくれたじゃないか。『痛みを分かち合うべきだった』って。だからだよ」
冷淡な笑みにモチオは背筋が凍りついた。
リルにメハトを噛まれたモチオは頭の中がグルグルと周り、全身に毒がまわっていくような痛みにその場に崩れ落ちた。
負傷したメハトを触った手には、粘り気のある鮮やかな飴色をした液体が付いた。
(痛い……これ、どうなるの…………?)
リルはモチオの肩に手をかけたが、モチオは振り払って立ち上がり、一目散に走り出した。
(逃げなきゃ……!!彼の追って来ないところ…………外に行くしかない……)
メハトの半分を失ったリルが、人間の住まう外世界を訪れなくなったことを知っていたモチオは、一時的に外世界へ避難した。
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