第6話


「おはようございます、お兄さん」


 くああ、と眠そうにあくびをしながら、テーブルの上で猫らしく丸まった彼はそう言った。

 途端、手のひらから洗ったばかりのガラスのコップが滑り落ちていく。

 あ、割れる。

 そう思って思わず目を瞑ってしまったが数秒経ってもガラスが砕け散る音はしない。

 恐る恐る目を開けてみると、床に転がっているミケと目が合った。

 どうやらキャッチしてくれたらしく可愛らしい肉球でコップを挟むようにして持っている。


「にゃははぁ。驚かせてしまってすいやせん」


 出来事が重なりすぎて言葉も出せずに居るとミケは器用にコップを持ったままテーブルによじ登り、そっと置いた。


「ありゃ? おにいさーん?」


 目の前でぱたぱたと手……いや、前足を振られ、やっと思考が追いついてくる。


「あ、えと……ミケ、さん」

「"ミケさん"だなんてそんな。ミケでいいですよう。堅苦しいのはあんまり好きじゃなくってねえ。敬語もいりませんよ」


 そう言い、目を細めるミケ。


「ところでお兄さん、顔色が良くありませんねえ。あっしの登場、そんなに怖かったですかい?」

「いくらなんでも自分しかいないはずの空間で他人の声が急にしたらびっくりするよ……」

「にゃは。そりゃ失礼しました。でもお兄さん、妖怪相手にアポを取れってのもそれはそれで暴君じゃないですか?」


 そうかもしれないけど……。

 でも、正直心臓に悪いのでやめてもらいたいものだ。


「ところで……えっと、どうしてうちに?」


 すると彼は毛づくろいをしながら耳を揺らす。


「そうそう、迎えに来たんですよう。旦那からお兄さんを連れてくるよう言われたもんで」

「そ、そうなんだ。何の用だろう」

「さあ。でも昨日ずっと調べていたようですからきっと弟さんのことじゃないですかい?」


 え……昨日の今日で、もうなにかわかったってこと……?


「とりあえず向かいたいところですが……お兄さん、なにやら顔色が優れませんねえ。大丈夫ですかい?」

「え?」

「目の下、ひどい隈ですえ。体調が良くないのならまた後日に……」


 ミケの言葉に僕は慌てて首を振り、大丈夫、と添えた。

 しかしミケは納得していないようで少し怪訝そうな表情を浮かべる。


「大丈夫ったって……そんな真っ青な顔で嘘はいけませんよ、お兄さん」


 どこか真剣な面持ちの彼。

 心配してくれるのは有り難いが、自分には休んでいる時間なんてない。


「眠れないのはいつものことなんだ。あいつがいなくなったあの日から」


 するとミケはまたなにか言いかけたが……飲み込んだらしく、そうですか、と零した。


「お兄さん、一つだけ約束してほしいんですが」

「ん?」

「人間ってぇのは案外簡単にぽっくりと死んじまうもんなんです。だから……自分のことも大事にしてやってくだせえ」


 二又の尾がゆらりと揺れる。

 彼のその声色は、無理やり"普通"を装っているような気がしたけれど、結局彼に返す言葉は見つからずただ小さくそっと頷いた。


 ◆ ◇ ◆ ◇


「さて、そんじゃあ旦那のとこに行くとしますか。ちゃんとついてきてくださいね、お兄さん」


 そう言いながらミケは脇にあった路地裏にするりと入っていく。

 人一人がギリギリ入れるくらいの狭さに一瞬戸惑ったが、意を決して体をそっと路地裏に滑り込ませた。


「あの……ほ、本当にこんなところ通れば着くの? 昨日はこんなところ通ってないんだけど……」


 昨日はずっと俯いていたので記憶が定かではないけれど、時折こちらを振り向きながら意気揚々と前を行くミケの背にそう問いかける。


「彼方には同じ道を行けばたどり着くというわけじゃあ無いんですよ。今日はどこで口を開けているかわからないんです」

「え? じゃあどうやって……」

「あっし等は元々あっちの住人なんで、なんとなくわかるんですよ。ま、とりあえずあっしに着いてきてくれれば大丈夫ですえ」


 本当かなぁ……。

 それにしても段々ミケと会話をすることに違和感を感じなくなっている自分が怖い。

 慣れってすごいなあ。


「まあ普通の人間はあっしを追いかけたとしても彼方には辿り着けないですがね。まあでもお兄さんなら大丈夫でしょう。一度自力で来ているわけですし」


 と、やや不安なことを言われてから約数十分後。

 やっぱりどうやって辿り着いたのか定かではないが、気がついたときには目の前にはあの探偵事務所があった。

 ふいと振り向くと、昨日も見たばかりの特徴のない十字路がいくつも並んでいる。


「ほい到着っと」


 言うが早いか、ミケは事務所のドアノブに飛びつき、器用に扉を開けた。

 すたすたと中に入っていく彼に続いて恐る恐る事務所内に足を踏み入れる。

 ドアの上部に設置された鈴が、からころと鳴いた。


「おや、いらっしゃい。随分早いね」


 書物が溢れ、コーヒーの香りで満たされた空間の中、脚立の一番上でおすわりをしているバディが出迎えてくれる。

 どうやら本棚をいじっていたらしい彼は両手に持っていた本を器用に本棚に戻すと、軽い足取りで床まで降りてきた。


「ちょっと待っていてくれ、いま飲み物を出すよ。コーヒーでいいかい?」

「旦那ァ、あっしはミルクで頼みますえ」

「はいはい。わかっているよ、少し待っていなさい」

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