Happiness is a warm gun

柏木祥子

Happiness is a warm gun

 夜の帳が下りていた。じわじわと這いよる熱が逃げ場をなくして彷徨っていた。車の中は、冷房が効いていたが、モザンビークは額に汗の粒を浮かせていた。しかしこれは、外から帰ってきたばかりだったからだ。バイウォーターの通りは、この時刻になると、みんな寝ているか、さもなければ夜勤に出かけたところで、眠りについた通り沿いに並ぶ車たちの中で、彼女のリンカーン・コンティネンタルだけが車内灯を灯らせている。モザンビークは外からは見えないようにして、手元に一丁の拳銃を持っている。コルト・キングコブラというたいそうな名前を付けられた拳銃だったが、道具の殺意に呼応して、もしくは、ありあまる外気の熱に毒されたかのように、彼女の精神は高揚していた。首を曲げ、猫背になって仄かな光に浮かび上がらせられた拳銃のシルエットを指で撫でた。モザンビークのいるすぐ外には、長いタイヤ殺しが敷かれていた。ざざざ、と声を立てて無線機が通達を始めた。『白のシビックがそっちに行った』モザンビークは洟をすすった。やはり拳銃を両手で包み込みこみ、シリンダーを外して弾が6発全部がはいっているかを確認した。モザンビークは送信器のスイッチに触れた。「ナンバーは?」向こうから連絡が来た。『CAD144』その車だ、とモザンビークは返した。そうしているうちにも、背後から中型のセダンがスピードを上げて近づいてきていた。サイドミラーに一対の光が反射していた。ここは制限速度16マイルの道だが、あの車はひいき目に見ても30マイルは出していた。駐車した車にいつぶつかるかもわからない。それでいい。ぶつかってくれてもモザンビークは構わない。それはそれで仕事が楽になる。けれどそうはならなかった。時速46?で走ってきた89年式の白のホンダ・シビックがタイヤ殺しに乗り上げ、鈍い破裂音を鳴らすと、高い悲鳴のようなタイヤ擦れの音が道路に跡を刻み、大きな音を立てて近くに停めてあったセダンの後ろに突っ込んだ。

 がちゃりとカー・ドアが開かれた。十五分ぶりのことだった。周辺の窓のあかりを見て、モザンビークは手早く終わらせなくてはと思った。



 けたたましいブザーが鼓膜を揺らしていた。泥棒除けのためだったが、今は拳銃が近くにあることを知らせているようだった。ホンダ・シビックの前はひしゃげていたが、なかは無事だった。エアバッグに鼻をへし折られた運転手がうめき声をあげていた。モザンビークは運転手の後頭部目掛けて三発の銃弾を見舞った。一発目は変に力が入ってガクリと手首が落ちて頸椎を突き破り、鎖骨の近くから飛び出た。構えなおした残りの二発は正確に頬の裏辺りを捉えた。

 冷房の効いた車内にいたせいか身のすくむような怖気を感じた。ぶるりと体が震え、モザンビークの目から涙が零れ、彼女は鼻をすすった。大きな痰を飲み込み、拳銃を服の中に隠した。踵を返して車に乗り込むと、車内灯を消した。

 リンカーンがニューオリンズの裏通りから姿を消すのに1分とかからなかった。この車は一か月前にソルトレイクシティで盗まれたものだったので、そのうちに縫製工場の裏で見つかった。

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 モザンビークは、以前から自分の名前が冗談だと知っていた。彼女は棚の奥のココア・パウダーとコーヒー・パックを入れ替えた。二杯分のパックを残して箱を捨て、ドラックストアの袋ごと新しいものを棚につめた。

 当然ながら彼女がそんな名前になったのは、仕事のせいであって、これには特別な理由もなかった。ただ席が空いていただけだ。彼女のほんとうの名前はエロイーズ・U・フロベールといって、どちらもフランス系の血を思わせる名前であり、じっさいにクレオールの家系だった。彼女の父親は祖父を継いで牧師をやっていたのだが、彼女が子供のころに(カソリックでもないのに)児童虐待で捕まり、オーリンズ刑務所で一生を終えた。エロイーズという名前は、アルジャントゥイユのエロイーズという奔放な恋愛で有名な修道女から取られたものだ。こちらは主に彼女の母親が名付けた。その母親は、父親が捕まりそうになったときに彼を逃がそうとして逃亡ほう助の罪で捕まった。釈放された後も少しおかしくなった。そういうこともあって、彼女の情熱的な生命に対して、エロイーズはちょっとも共感できなかった。エロイーズはルイジアナに10人いる殺し屋のうち一人で、唯一の女性だった。それだってこれといった意味があるでもないはずなのに、どういうわけか全然勝手が違うのも事実で、エロイーズはコーヒーに生クリームをたっぷり入れる。バイウォーターに間借りしたアパートのキッチンの冷蔵庫には、チューブの生クリームが買いだめしてある。アパートは明らかにウィンナーコーヒーの似合う部屋ではない。エロイーズは湿りけのある黴色のソファに座って、スプーンで生クリームを潰しながら、テレビで『ナイトライダー』の再放送を見る。



彼女の愛車は76年式のトランザムだ。薄いグリーンの塗装で、左のライトだけLEDになっている。しかし、これは『ナイトライダー』と関係しているわけではない。ただの偶然に過ぎない。あの車は彼女が知り合いから1000ドルで譲ってもらったもので、ナイトライダーのモデルがトランザムの後継だということを知ったのはかなりあとのことになる。

 西日が強く当たるせいで、室内は蒸し風呂とほとんど変わらない。エアコンなんて洒落たものはないし、カーテンを突き抜けてきた熱と光が、エロイーズの肌に汗の珠を浮かせていた。ほんとうはシャワーに入ってしまいたかった。連絡を待たなければならなかったので、それまではじっと、待っていなければならなかった。



エロイーズはマリファナたばこに火を点けた。海岸沿いにいたアフリカ系の売人から買ったもので、あまり質はよくないが、その分やすかった。エロイーズは煙を吸い込み、ソファに体を預けた。眠くはなかったが、心地よい気怠さが体をつつみ、目もとろんとしはじめた。あまり麻薬に強くないこの体を、エロイーズは手軽でいいと考えていた。そんな状態だったが、電話は10分後の四時二五分にやってきて、受け答えはしっかりできた。

「ダニー・クラヴィッツを知ってるか?」電話向こうの男が言う。「お前の家の近くで中古車の販売をやってる男だ。もじゃもじゃイタ公だよ」

 モザンビークはちょっとかんがえた。

「知らないと思う」とかのじょは軽く言った。「私はずっと前から車を変えてないし、仕事に使うのは誰かからもらうから」「ならよかった」

 それで、電話向こうの男は事情を説明した。ダニー・クラヴィッツはニューオリンズで最悪の男で、あのダニエル・ラッドぐらいのゴミなんだという話だった。「元々南カリフォルニアのバイカーだった男だ。ケチな悪党さ。ガキ相手にクラックを売るとか、ピストルをちらつかせてそこらへんの露天商から金を奪い取るとかそういう……」



「そいつがちょっと前に、ある仕事に関わった。というか、関わらせたわけだ。つまり、用心棒代わりにな。取引自体はうまくいったよ。いってなかったらとっくに殺されてるだろう。その場でな。ところがそいつの家から金が盗まれた。そいつっていうのは取引の相手だ。リチャード・バックマン。バックマンの家で取引をしたんだ。そしたら金がなくなった。1200ドルぐらいだ」

 それでダニー・クラヴィッツは死ぬことになったのだ。たった1200ドルぽっちで彼は殺されることに決まった。ネットで調べてみるとダニー・クラヴィッツは確かにモザンビークの家からたった何百mのところで車を売っていた。30?ぐらいの土地に、所狭しと車が並べられていて、自分の車以外はすべて埃をかぶっているように見えた。モザンビークは道を挟んだダイナーで、仲間のザンビアという男と向かい合って座っていた。

 テーブルの上には彼が頼んだケイジャン料理がのっかっていた。脂ぎって変なにおいを放っていた。ザンビアはヒッピー崩れのような恰好の五十男で、アフガニスタンに従軍した経験がある。本人もそれを誇っていた。体にも心にも取り返しのつかないような傷はなかったが、長らくの失職と周囲の不理解のせいで内向的で、かつ侮蔑的な人間になっていた。「向こうではな、銃で敵を撃つことができればそれでよかったんだ」ザンビアはランボーのふりをして言う。「だがこっちではどうだ? 敵は撃ち殺すもんじゃなく、乗り越えるものなのさ。俺は思うよ。意味が分かんねえ。なぜ敵を殺さないことが、敵に勝つことにつながるんだ?」



 ザンビアは詩人にでもなったふりをしてわざと変な言い回しをしているが、ようは人を殴れないんじゃ定職にはつけないということが言いたいのだった。その通りだった。この世に敵がいるんなら、銃で殺せないのは変な話だと彼女も考えたことがあった。

 だからといって彼女はザンビアに好感は持っていなかったし、むしろこの男があまり好きではない。迂闊で下品だし、境遇を理由に大きな態度をとろうとするのも、それを恥じているのも嫌だった。間違ってもシルベスタ・スタローンみたいなタフ・ガイにはなれないはずだ。「ここの食い物はひどいな」ザンビアが言った。モザンビークは曖昧な返事をして、レモネードに口を付けた。温くてべとべとしていた。ザンビアはいろいろなことを喋った。それはフィデル・カストロの話だったし、イラク侵攻の話でもあった。話をしたいのではなく、しなきゃいけないのだ。横のずっと向こうではダニー・クラヴィッツが意味もなく事務所を歩き回ったり、売り物の車を見て回ったりしている。モザンビークは今すぐ近寄って射殺したい気持ちを必死になって抑えた。これは仕事なのだ。そのためにはザンビアの虚勢と卑屈の塊を聞き流すことだって必要になる。

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 ホーム・テリトリーであるバイウォーターからほんの少し外れた、ニューオリンズの旧市街に立つ、真っ白の、窓際にピンク色のポインセチアが飾ってあるような通り沿いにエロイーズはトランザムを停めた。前に停まっていたのは奥行きのある緑色の塗装がされたジャガーで、一つ分のスペースをはさんで後ろにはコルベットが停めてあった。彼の車がグレーのベンツだと知っていたので、モザンビークは不思議に思った。彼女の友人は普段、外に出ない人物だったからだ。

 部屋の前まで来ると、やはり出かけていなかったことが分かった。玄関前に彼のお気に入りの杖が立てかけてあった。



 彼女はドア・ノッカーを二回鳴らした。ゆっくりと時間が流れ、背の高い、ガウンを着た老人が顔を出した。「エロイーズ」彼はいった。

「車がないね」言いながらエロイーズは彼のわきを通って部屋に入った。外壁と同じ、白を基調にした広い部屋で、清潔好きの彼らしいと言えるだろう。グレゴリー・キーナンという、このアフリカ系の男は、エロイーズと同じくフランス人の血を引いていて、彼女とよく仕事をしていた。グレゴリーはロウワー・ナインス・ワードのあたりで整備士を営む56、7の男で、何十年前に起こした交通事故のせいでギャングと関わるようになっていた。エロイーズが彼と出会ったのもそこが関わっていた。

 老人は戸惑いを顔に出した。若い世代の性急な態度にはいつも驚かされるのだ……彼の時代はみんなマリファナでおかしくなっているか、マリファナでおかしくなっているのを隠すために難しい専門用語を詰め込んでいた。額を引っ掻いた。「ああ……事故でね」「お気の毒様」エロイーズはジャケットに手を突っ込んだままクレオール言語で返した。

 老人はまたも驚いたが、悪い気はしていなかった。「そうだね」と彼もまたクレオール言語で言い、エロイーズは満足そうな顔を見せた。彼の友人はとうに彼のもとをさっていたので、こういう口の利き方をするのはエロイーズを除いて誰もいなかった。

「今日は仕事で来た」モザンビークはジャケットに手を突っ込んだまま、首だけ振り返った。吸血鬼を思わせる青白い頬が、無機質な天井のライトに当てられ、輝いていた。「なにが欲しい」「タイヤ殺しだ。車の事故を起こすんだ」「わかった。材料があればすぐできる」と老人が言った。モザンビークは意味もなく部屋の天井を見上げ、口を開いていた。「君は…あまり殺し屋らしくないよな」グレゴリーが言った。

「そうかな?」モザンビークが言った。

「ああ。ふつう殺し屋と言えば、軍人や警官崩れのことだ。だが君は、そのどっちでもない。ストリートギャングとも違う。君には教養がある」「そうかもしれない」「それに、今どき、殺しに時間をかける殺し屋は少ない。夜道で後ろから撃つのが、いちばん早いし、見つかりにくいからだ。それというと君は、仕事のたびにわたしのところに来て、道具の話をする」「それが仕事でしょう」「90年代までは、そうだ。今じゃわたしのような人間は用なしだ……たまに、拳銃の製造番号を削り取ったり、車の整備を手伝ったりする以外は、駆り出されることなどない」「あるんじゃない」「わたしである必要はないってことだ。そういうことはわたしでなくともできる。それも簡単にな。それでもわたしを使っているのは、わたしが組織の一員だからだ。仕事を与えなければならないからだ。有能だからじゃない」

「仕事を与えなければならない?」エロイーズは首を傾げた。言葉の意味が分からない、というよりは、それを理解する領域を持っていない、という風だった。



「ああ。組織というのはそういうものだ。必要のない歯車を削り取るのにも、ごく小さながら苦労がいって、君やわたしを使っている連中は、それを怠っているんだ。ほんとうはわたしなど必要ないのに“ああ車が壊れた。整備士はあいつだったな。あいつに頼みに行こう”

などと考えてしまう。思考力というものを使っていない。そういう考えで使ってるんだ」

「卑屈になってるんじゃない?」エロイーズはキーナンからコーヒーを受け取った。浮くぐらい砂糖を入れたものだった。「それに、そうだとしても、そのおかげでお金がもらえてるんだろ。普通の仕事以外のさ」

「やつらはいいんだ。言っただろ、組織とはそういうものだし、わたしは彼らのことが好きじゃない。勝手にしてればいいんだ。でも、君は違う。君がわたしを使うのは、単に使いたいだけ。それではダメだ。わたしは56年生きてきて何一つ成し遂げたことはなかったが、これだけはわかっている。感性だけでは生きていけない。前にも話したと思うが、わたしは10年前のハリケーン・カトリーナでいちどすべてのものを失った。わたしの整備工場は大方流され、残っていたのは一枚の壁だけだった。国からの補償は微々たるもので、それは自分たちの責任を果たすためのものだった。そのときわたしは直感的に“もう終わりだ”と思った。だがどうだ? わたしの整備工場は今もある。ギャングたちのおかげというだけではない。わたしはあきらめず考えたのだ。この工場を建て直すほうほうがないものかと四方走り回った。すると国や州を訴訟している集団がいることを知った。水路設備が不十分であったとか、防護策をもっと早くとれただとか、そういうのを理由にしてだ。彼らが多額の和解金を受け取っていることもわたしは知った。不思議なことにテレビはなにも言っていなかった。そしてわたしは、州の金で整備工場を建て直させ、加えて3万5000ドルの和解金を手に入れた。わたしがあのとき感傷に浸っているだけだったら、自分の頭を撃ち抜いていたかもしれない。そうならなかったのはわたしが理性でものを考えたからなのだ。決して感傷に流されることなく」

「つまり、会いに来て欲しくないということ?」

「別にそういうわけではないさ」グレゴリーはやや気まずそうに言った。「君のために言っているんだ。君がわたしに会いに来てくれるのは嬉しい。最近はもう、わたしのもとへ直接来てくれるひとはいないからな。ただ、仕事としてここに来る必要はまったくないということが言いたいんだ。そして必要のないことは往々にして、我々に実的な益をもたらさない」

 キーナンはたまにこういったことを話す。つまり、キーナンはエロイーズに向けて時折、このような説教を行うのである。エロイーズは彼の言うことが正しいかどうか、判断したことがなかった。彼が説教さえできればいいのだと思っていた。エロイーズはしかし、そんな身もふたもない冷たさを彼におしつける割に、キーナンがそうした利己的感情よりも、エロイーズへの信愛をこめて説教をしているのだという、確信を持っていた。キーナンには子供がおらず、それに代わるような存在も、彼自身の口から出たことはない。説教、その内容に対して自分は、さして影響を受けていないのだが、キーナンが自分に父性のようなものを抱いているに違いないと思い、そうなると素直に受け止めるよりも、かえって親子らしいのだろうかとさえ考えることもあった。



「わたしは、わたしの中にもう一人、何者かがいるような感じがすることがある。それはわたしへ常に訴えかけている。“それは違う”か“それでいい”か。どっちかを。それが多分、感覚というもので、わたしはそれなりに感覚がもたらすものを信用している。それというのも、これでもわたしは結構、苦労してきたのだけど、感覚によって生き残ってきた気がしているから。事実かどうかは知らない。でもそういう印象を持ってる。失敗もあったはずだけど、きっと感覚が原因で失敗しても、あまり引きずらないし、結果を受け入れやすいんだと思う。ちゃんと考えて、ちゃんと行動して失敗したんじゃ目も当てられないから」

 するとキーナンはまたエロイーズの言葉に反論し、エロイーズはそれに耳を傾けた。

「それで生きてこれたのは、君の運がよかったからだ。エロイーズ。わたしのいうことを訊きなさい。本当に、これだけはわかってるんだ。感性だけを褒め称えるのは、バカバカしいことだと。感性はなにも行わない。ただ君の直感を伝えるだけだ。わたしはそれがわかっているから、ある疑問に対して、さっと何か思い浮かんでも、続けて別の答えを探してみる。他になにもないときや、物事は明らかであるときだけ、感性と同じ発想で動くんだ。もちろんそれは、感性に任せているのではない。たまたま感性と理性が同じ考えを持っただけだ。わかってくれるだろう?」

 モザンビークは神妙に頷き、コーヒーを一口飲んだ。それで「いくらなんでも甘いね、これは」と言った。

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クラヴィッツはちょうど日が傾きだすころに動き出した。ニューオリンズの夏は日照時間の長い方ではないが、18時過ぎぐらいならもうしばらくは日が照ったままでいた。ダニー・クラヴィッツはちょうど18時15分になるとハイスクール帰りみたいな恰好の若者と交代して、自分の車に乗り込んだ。モザンビークとザンビアも会計を済まして外に停めてあったトランザムに乗り込んだ。彼はウィンカーをつけて道路に出るところだった。「元バイカーが日本車かよ」確かに目の前で信号待ちをする車は新しめのホンダ・シビックで、いわゆるアウトロー気取りの乗る車とは違って見えた。

 車はサイドスター通りを東に300m進んだあと、工場地帯の間を縫うようにして建てられた集合住宅地へ近づいて行った。モザンビークはザンビアに言ってクラヴィッツの住所を確認させた。ザンビアはしらけた風情で「あってる」と言った。「あってる」と言ってから「どう殺す?」と言った。

 あんまり同じ調子で返すのでモザンビークはすぐに答えを出せなかった。「わからない」モザンビークは言った。「なんにしてもまず車を探さないと。盗んだ車のストックはなにがあった」「向こうに行ってみないとわからんが、なにかはあるだろう」わからないけど、とモザンビークは曖昧に返し、ウインドウ越しにダニー・クラヴィッツを見た。

この男はもうすぐ死ぬのだ。それを知っているだろうか。モザンビークは汗でしめったハンドルを撫で、唇を舐めた。塩の味がした。信号が灯った。住宅地にはないから、この辺りでは最後の信号だ。停車したシビックの後を追ってブレーキを踏んだ。軽い揺れが収まった後に、モザンビークの頭には『CAD』という3語が浮かんでいた。

 CAD(キャッド)? キャッドだって? いったい何の略称だろう。そもそも略称なのだろうか。しかし、ぱっとCADだけで全部ではないと思った。それで次は、と前を向いて、これがクラヴィッツのナンバープレートだと悟った。『CAD114』特に琴線に触れたわけではない。しかし、なぜこの男はわざわざこのナンバープレートにしたのだろうかとわからなかった。信号灯が青になったので、シビックは動き出した。トランザムはしばらく停車していたが、後ろからクラクションを鳴らされて動き出した。「どうした?」ザンビアが言った。なんでもない、とモザンビークは言った。でも続けて「ちょっと気になって」と言った。クラヴィッツは自宅のある通りの直前でドラッグストアに寄った。車はバイク三台がやっと停まれるような駐車スペースに乱暴に停めてあった。

「ちょっと行ってくる」ザンビアが止めるのも構わず、モザンビークはシビックの隣にトランザムを停めた。車体が一回り違うトランザムとシビックを並べると、片方が片方を潰そうとしているように見えた。裏通りにタウンカーが停めてあった。モザンビークはドラッグストアを覗いた。クラヴィッツは誰かと話していた。くたびれた青いシャツを着ていたが、内側によく鍛えられたからだがあって、おかげで安っぽくは見えない。“誰だろう?”とは一瞬思ったが“まあいいか”と彼女は思い直した。

 なにを話しているかは聞こえなかった。モザンビークは彼が一人になるまで待った。そしてそれが、なるべく自然であるように体勢をとって、クラヴィッツのホンダ・シビックを観察した。背後をクラヴィッツと話していた男が通った。たぶんこっちを見ていただろう。かまわない。車を見る女なんていくらでもいる。

 ダニー・クラヴィッツがモザンビークのラインを見ていたことを、モザンビーク自身はもちろん気づいていた。「なにやってる?」とダニー・クラヴィッツは言った。下半身から染み出たような言葉だった。「なにも」とモザンビークが言い、続けて自分の知りたいことを尋ねた。

「ナンバープレートを見てたんだ。私はナンバープレートに人っていうのが出るんじゃないかと思ってて、そういうのを見るのが好きなんだ。例えば昔ヴァージニアで見たのは、ヴァージニアの?がナンバープレートの端っこに書いてあるんだが、運転手がナンバーの申請をするとき『agina』って言って出したやつだった。つなげて読むとヴァギナになる」モザンビークは空中に文字を書いた。「ほかにも聖書好きは一節の頭文字をとってつける――そういうタイプのほうが多いかな。TBA*(アメリカで一番のナニ)とか2CUTE4U(あなたはとてもかわいいね)とかそういう。あなたのもそういう類だと思ったんだけど、どうもわからなくて、考えてた」

 ダニー・クラヴィッツは品定めするようにモザンビークを上から下まで眺めたが、彼女が自分を殺すことになるなどとはこれっぽっちも思っていなかった。ただ、彼女がどれぐらいイカれているかとか、自分がどれぐらいそれを許容できるのかとか、そんなようなことを考え、ぜんぜん余裕だって答えをすぐに出していたのだ。それでダニー・クラヴィッツは、シビックのナンバープレートを見やった。ホンダ・シビック。くそったれの日本車。彼が思い出しているのは、昔ながらのチョッパー・バイクに間違いない。サンディエゴの海岸線やコロラドの砂漠地帯なんかを走った思い出を蘇らせているんだろう。彼のうちに、どんな感情が生まれたかはわからないが、それがモザンビークに対する態度に現れたのは確かだった。彼はたっぷり2、3秒は頷いて、それで、こんなことを言った。

「ああ、そうか。わかる。わかるともよ。俺は昔バイカーだったんだが、キンバーグってやつはまさしくそうだった。キンバーグはバイクのナンバーは“SFA97”だった。“97年はクソッタレだった”って意味だ。なにが言いたいかって、ようは97年がサイテーだったってことが言いたいんだが、やつはこの年に祖母と、甥っ子と親友のモデストをそれぞれ別の事件で失ってた。やつは慎重なやつだった。どれぐらい慎重かって、持ってみるだけで銃に弾が入ってるかわかったし、南カリフォルニアじゅうのガソリン・スタンドの場所を憶えてた。やつにとって97年は、思わぬことが起こる象徴だった。できるだけ自分の周りにあるものをコントロールしたかったんだ。俺にはよくわからないがね。そうだ、このナンバーの由来を知りたがってたな。こいつは“CLASH AND DEAD”(事故って死ぬ)の略だ。ほんとはナンバープレートじゃなくて、俺たちのなかでの共通単語みたいなものだった。今じゃそれも過去の話だけどな」

「今はなにをしてるの?」

「いろいろさ……いろいろ。だが今、ちょっとした計画を進めていてね。うまくいきゃ俺はビッグになれる。そしたらまたハーレーを乗り回すんだ。昔みたいにな」

 モザンビークはそれだけ訊くと、クラヴィッツから再三バーへの誘いを貰ったのだが、それを断って1ブロック南に歩いた。トランザムを運転してきたザンビアを助手席に移動させ、自分が運転席に座った。「いったいどういうつもりだ?」ザンビアが言った。モザンビークは弁解することなく、ライトのスイッチを引いて消した。「どう殺すか訊きたがってたな。決まったよ」

 モザンビークとザンビアはそのあとなにをするでもなく、ロイヤル・ストリートのアート・ギャラリーのまえで別れた。交わした会話は「連絡する」「ああ」だけだった。

 このあと何があったかはみんな知っての通りだ。モザンビークは無線を用意し、グレゴリー・キーナンに車殺しをつくるよう依頼し、三日後、ダニー・クラヴィッツを事故に遭わせたうえで射殺した。リンカーン・コンティネンタルをバイウォーターの一画を占める縫製工場の裏に乗り捨てて、すべてを終わらせた。

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 エロイーズはリンカーンを縫製工場に乗り捨てたあと、2ブロック先の駐車場に停めておいたトランザムへ歩いた。バイウォーターの倉庫街には誰もおらず、街灯の間隔も長かった。彼女はじりじりと汗をかき、目を伏せ、薄暗い道に転がった砂利を踏みつけて歩いていた。

 終わったと報告しないといけなかったが、その前にエロイーズはシーフードの店に寄り、向かいの100円ショップで接着剤とトゥインキーを買った。コーヒーは100円ショップにはないので、近くのコンビニエンスストアで温かいのをもらったあと、駐車場でのんびりと飲んでいた。電話がかかってきたのはそんなときだった。

『なんであんな派手にやった?』テレフォンの向こうで男が言った。『殺すだけならもっと簡単にいっただろう。お前はあんなふうに目を付けられるような殺しをするべきじゃなかった』

「誰が目をつけるっていうんだ?」モザンビークは反論した。それはほとんどのばあい正しかった。ニューオリンズの警察はよっぽど捕まえたい時ぐらいにしか、ダニー・クラヴィッツのような、あからさまにギャング絡みとわかる事件を相手にしたがらなかった。大抵の場合、おっちんだのは彼らにとって生きる価値のないカスだったし、また大方の通り、犯人は誰かに依頼された殺し屋で、追ったところでそこが行き止まりになることは経験上わかっていたからだ。彼らはそういうギャングたちの、ごく小さい争いごとよりも、制限速度を1マイルオーバーした車を追う方に注力したがった。簡単に捕まえることができるし、銃で撃たれる危険も少ない。ところがこの場合、彼女はあまり正しくなかった。『警察だ』電話向こうの男が決定的な言葉を言った。『警察だよ。クラヴィッツは警察に紐がついていた。くそったれのブタ野郎さ』モザンビークは黙った。『ブタ野郎をあんな風に殺すのは不味い。誰だってメンツをつぶされたって思うさ。俺だってそう思うぐらいだ。おかげでキーナンには死んでもらわないといけなくなる』モザンビークはテレフォンを胸に押さえつけた。息を吸い込み、電話口に戻った。「彼はこの件にほとんど関わっていない」『その通りだ。関わるはずじゃなかった。お前が関わらせたんだ。本当ならこんな処置しなくてもいいはずだった』モザンビークは口を噤んだ。何をどう言い返せば彼を説得できるかわからなかったし、自分でも道理が通ってると感じてしまったからだ。それにこれは依頼じゃなく、ただの宣言だった。もしモザンビークがやらなくても向こうはキーナンを殺すつもりで、これはただモザンビークにチャンスを与えているに過ぎない。

『そうだ』とモザンビークの心を読み取ったように男が言った。『キーナンを始末すればお前を殺すのはよしてやる。お前は悪くない腕をしてる』

「わかったよ」とエロイーズは言った。それだけ言って電話を切って、さっさとトランザムに乗った。

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 エロイーズ・U・フロベールは思案顔でトランザムを走らせた。あの場ではああいうほかない、とエロイーズは考えていた。キーナンをわたしは殺したいと思っていないが、殺してもかまわないと感じてもいた。

 こうした感覚が、自分のいかなる場所から出ているのか、エロイーズは気になることがあった。わたしはこういう考えをほんとうに持っているだろうか? キーナンと話した通り、エロイーズは意に反するかのような感覚が、自分以外の何者かなのではないかと思うことがあり、そうなれば反抗しなければならないと考えてもいた。しかし、そのようなときに限って感覚以外の選択肢はひどく現実的でなく、この場合にしてもそうだった。キーナンを殺さないとなれば、自分になにができるだろう? 彼とともに北部へ逃げ出すのか? むこうだってそういう危険があることはわかっているはずだ。何人かの殺し屋たちがわたしとキーナンを見張っているのだ。エロイーズは色々なことを考えたが、そのほとんどは否定的意見だった。彼女の中でそれは、ただの無為な時間つぶしと、責任を果たすことに使われた。エロイーズがなにを考えようと、彼女自身は今、自分がなにをすべきなのかわかっていた。なんにせよキーナンのもとにいかなければならない。一つの小さな目標が、大局から目をそらすのに使われるのは、これが初めてではない。エロイーズはトランザムでチャートリズ・ストリートからフレンチ・クォーターに入り、そこから右に曲がってアパートメントの建つ通りに着くと、キーナンの灰色のベンツがあったはずのところでトランザムを停車させた。後ろにはジャガーが、前にはコルベットが停められていた。

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 エロイーズはトランザムのエンジンをとめた。車内灯を消すと、消沈したエンジンの最後の音と息遣いだけが聞こえた。仄暗さがなにかを形象している気がした。ドアを開くと生ぬるい風が入り込んできた。念のためにエロイーズは、懐のキングコブラに触れた。取り出して見ると、弾は三発使われていた。彼女はそのままにして懐にしまいなおした。

 風がふいた。鼻に張り付いた髪を指ではがし、路上に並ぶ車影に目を走らせた。なにか人がいるかはわからなかった。

 彼の郵便受けからはなにも飛び出しておらず、管理人もこの時間にはもう帰っていた。夜更かしする住民のために明度の低いライトが灯っていて、彼女の薄い影が階段のほうに伸びていた。

 外の街灯のほうがまだ強いぐらいだった。月明かりめいた白熱灯が共用廊下まで伸びてきていた。階段を上ってきたエロイーズは唇にのった汗をぬぐった。

 ドアの前まで来て、体が弛緩した。どうしよう、と思った。ノックするのか? 鍵をあけるのか? エロイーズは静止していたが、ふと、このドアが開いているのではと感じ、ノブを回してみると、本当に開いていた。

 招き入れられている、とエロイーズは思った。奇妙な感覚だった。いったいなにがわたしを招き入れようとしているのだろう。彼の部屋もまた、静まり返り、耳を澄ますとかすかになにか鳥の声のようなものが聞こえた。グレゴリー・キーナンは部屋にはいなかった。

 エロイーズはそっと寝室のドアを開き、グレゴリー・キーナンはそこにいた。ただ、寝ていたのではなかった。彼はベッドに横たわっておらず、傍の椅子に引っかかるようにして座っていた。テーブルのライトが点けっぱなしになっていた。エロイーズは彼の顔を覗き込んだ。彼は死んでいた。たぶん自殺だ。床に空になった薬の容器があったし、テーブルには飲みかけの水が置いてある。

 エロイーズは彼から離れ、ちょうどライトが照らしあてた紙面に目を向けた。グレゴリー・キーナンの字だった。そこにはこんなことが書いてあった。

『かねてより、わたしは自分が理性の人間だと信じてきた。わたしは自分の衝動や、直感や、感覚的な理解をはねのけ、まっとうな理性をもって事物に臨み、判断し、そして立ち向かうことができる人間だと信じてきた。だが間違いだ。わたしはそのような人間ではない。エロイーズ。君はわたしをどう思っているだろうか。君がときおり、わたしに父性を期待していたことは、わかっている。申し訳ない。君の期待に応えることはできない。わたしの心が弱いせいだ。ここで起こったことはすべて、わたしの心が弱かったばかりに起こったことなのだ。わたしは君を娘のように思えなかった。わたしは君に性的な欲求を覚えていた。それだけならまだいい。わたしは君に性欲を覚えていたが、それを表に出す気はなかったし、出さなければおかしくなるというでもなかった。だが、君がわたしに父親を見出すとき、それに気づいたとき、わたしは君に不満を抱いてしまったのだ。なぜ君は、わたしに靡かないのか、靡かないのになぜ一人でこの部屋を訪れるのか、わたしは抵抗したが、勝てなかった。どれだけ抑えてもこの不満は内側に溜まり続けた。君のため、自分のため、わたしは死なないわけにはいかなかったのだ。

親愛なるエロイーズ。勝手な話だが、扉は君のために開けておいた。このような告白とともに先立つことを、どうか許してほしい。この死が君のせいではないというわたしの言葉を、どうか信じてほしい』

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 手紙にはまだまだ先があったが、エロイーズはそこまで読むと、手紙を折りたたみ、黙って懐に入れた。そうすべきだと思った。これは自分とグレゴリーの間で完結すべきことで、他の誰が読んでいいものでもない。エロイーズは洟をすすった。エロイーズは部屋を出た。もはやそれ以外にできることは残されていなかった。

 エロイーズは父親のことを思い出していた。ベーコンエッグをつくるのがうまかった父親。すきがあればエロイーズを持ち上げてきた父親。母親と仲睦まじく話す父親。シャルメットの教会で、善と悪について説教をする父親。バザーで近所のこどもを相手に笑顔の父親。その子供をぶん殴り、レイプし、警察から四日と十三時間にげた父親。テレビが報道する父親。ハリケーン・カトリーナで水没した刑務所に取り残され、溺死した父親。

 父親は、お菓子とイエスで子供を釣った。何十という子供が父に触られた。父はやがて、若い同僚の牧師から告発され、うちに警察が来た。父は逃げ出した。母は信じなかった。父は消え、母は逃亡を助けたかどで逮捕された。わたしは幼い妹とともに警察に預けられ、その後、不起訴処分になった母親が返ってくるまで、隣家のジェフォーズ婦人のもとへ預けられた。母親は翌日に帰ってきたが、すでにおかしくなったあとだった。わたしたち家族は、そのあとしばらくして離散してしまったので、父親のもとへ一度も行かなかったが、わたし一人だけで2003年の8月に訪問したことがある。父はわたしを見ると、他の家族のことを訊いた。わたしは知らないと答えた。事実だったからだ。父は押し黙り、泣くのかと思えば、そういうことはしなかった。わたしにもっと近づくように言い、わたしの耳元で“俺は神の声に従っただけだ”と言った。

 それに比べれば、なにも死ぬことはなかったんだ、とエロイーズ・U・フロベールは思い、そしてすぐ、でももし彼が、不満をぶちまける気になっていたら、自分は受け入れただろうか、と考えた。“どうだろうか”と自分の中のなにかが応えるのを、彼女は聞いた気がした。

 彼女はキーナンの部屋からカギを拝借し、丁重に扉を閉めた。先ほどと何一つ変わらない共用廊下を抜け、階段を下りた。外へ出ると、向かいの道路に男が二人見えて、次には撃たれていた。三発。幸いなことに致命傷ではなかった。

                 8

 エロイーズは、つまり、殺し屋であるモザンビークは、フレンチクォーターの通りに倒れこんだ。

 彼女にとって幸運だったのは、どの傷も致命傷とまではいかないということだった。鎖骨が割れたせいで左腕を動かすのにはずいぶんの苦労がいったし、おなかに穴が空いたせいで、腹筋に力を込めることができなかったが、何十秒で死ぬ、というほどの傷は負っていなかった。

 なによりよかったのは、コルト・キングコブラを抜くことができていたということだ。エロイーズは近づいてきた殺し屋の一人の胸に三発の弾を喰らわせた。殺し屋はよろめき、ミニ・クーパーのライトにしがみついて地面に腰を下ろした。それを見届けることなく、右から来たもう一人の殺し屋に向けてリボルヴァを構えようとしたが、間に合わなかった。彼の持つ拳銃がミニ・タイヤが破裂するような姑息な音を立て、地面を穿ち、モザンビークはミニの陰に隠れようと体を跳ねさせたが、その直前に腰と右のふくらはぎに槍で貫かれるような熱が襲った。背中を弾丸がかすったあと、モザンビークはミニのフェンダーをつかみ、今度こそ車体の陰に隠れた。

 殺し屋は深追いしなかった。見逃したわけではない。それいじょう歩を進めるのを躊躇ったのだ。

「クソッたれめ……」とミニに寄り掛かった殺し屋が言うのを聞いて、モザンビークは彼が知り合いであることに気づいた。「お前もバカだよな……」男が言った。「こんな罠に引っかかるなんてよ……」男の胸は血でびっしょりになっていた。「どんなバカにだってわかったはずだぜ……そういう意味では、お前、バカじゃないのかもなあ」男が耳障りな笑い声をあげた。モザンビークは向こうの殺し屋に威嚇射撃のために引き金を引いた。しかし弾は出なかった。カチリ、とシリンダーが非常にいやな音を立てただけだった。男が異常に驚いた顔をした。モザンビークはほとんど反応を見せなかったが、考えたことは同じだった。モザンビークは男の拳銃に飛びつき、男は拳銃を彼女に渡すまいと最後の力を振り絞った。モザンビークは男の拳銃を奪い取り、喉元を打ち抜いた。男は驚いた顔で喉に手をやろうとしたが、力尽き、うなだれるように倒れた。モザンビークは至近距離で銃を撃ったせいで頭の中が耳鳴りに支配されていたが、頭の横に穴が空いたことで我に返り、あわてて隣のコルベットの陰に飛び込んだ。飛び込むとき、背中に銃弾を受けた。モザンビークは殺し屋から奪った拳銃を構え、痛む右手で体を支え、自分の車まで移動しようとしていた。

 殺し屋がミニ・クーパーの側面から男の死体を乗り越え、コルベットの側面を覗き込み、モザンビークに向けて発砲した。互いに四発ずつ撃った。撃たれることを覚悟で狙う時間をつくり、その一発が殺し屋の手から銃を弾き飛ばした。続けて撃ったが当たらず、殺し屋はミニとコルベットの間に身を隠した。

 モザンビークはコルベットのドアノブをつかんで立ち上がった。ムリに殺すつもりはない。早くここから離れなければ。

 モザンビークは激痛と失血に耐えながら、車ににじり寄った。ようやくトランクに手をかけたところで、男が雄叫びをあげながらモザンビークの体に突っ込んだ。拳銃が車の下に落ち、男は馬乗りになってモザンビークの頬を殴りつけた。彼女は手探りで拳銃を探し当てたが、殺し屋に気づかれ、腕を抑え込まれた。なおも殴りつけようとしてくる拳をなんとか防いでいたが、一度、モザンビークの手を振り払おうと体を上げたすきをつき、身をよじって銃を持ち替えた。銃声が鳴り、少しして、モザンビークは死体から這い出た。「クソッタレめ…」とクレオール言語で呟いたが、もう返してくれる者はいなかった。

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 彼女はアパートに戻った。家探しされた形跡はなく、他の殺し屋もいないようだった。エロイーズはキッチンを通るとき、血まみれになったキーナンの手紙を置いた。彼女自身はソファに深く腰掛け、マリファナたばこに火を点けた。吸うと脳にもやがかかり、痛みがほんの少し遠のいた。

 もはや意味があるのかわからなかったが、エロイーズはこれからの身の振り方を考えた。もはや自分はギャングたちに追われる身だ。殺し屋ではなくなってしまっただろう。エロイーズは殺し屋以外の仕事をやっている自分というものが想像つかなかった。もう長いことそれだけで生計を立てていたからだ。エロイーズはマリファナたばこから立ち上る煙を見つめた。そこに自分の展望を見出したかのようだった。これからどう生きていこう。エロイーズは思った。「まず、車で行けるところまで行って、偽造IDをつくって、住居を確保する。仕事はなにか、日雇いの仕事でもして」エロイーズは知らぬ間に涙を流していた。エロイーズは洟をすすった。洟をすすり、拳銃に手を触れた。しゃくりあげ、静かに、しかし激しくしゃくりあげた。整えるように息を吸い、失敗しては席をした。エロイーズは鼻をかんだ。目と鼻を真っ赤にしたまま黙り込み、おもむろに自分の頭をぶち抜いた。顎から脳天まで、奇麗な穴が空いた。脳漿が天井にまで飛び散った。足ががくがくと痙攣し、ダンスを踊っているように見えた。

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 その後、彼女の部屋に訪れたのは、ザンビアだった。ザンビアは拳銃を片手に、モザンビークの部屋に入った。誰一人としておらず、残っていたのは血痕だけだった。ザンビアは拍子抜けしたような、がっかりしたような、安どしたような気分になって、ソファの手すりに座った。

 ザンビアはモザンビークとグレゴリー・キーナンが死ぬかわりに命を助けられたのだった。彼自身は、モザンビークの考えにほとんど賛成も反対もしなかったし、その点は責められて然るべきなのだが、ほんとうに注意だけで終わった。彼の直属であるビリー・マクブライドは彼に「自分で考えて動かなきゃいけないぜ」と言った。それは彼にとって最も苦手なことだった。

 モザンビークとはそれなりに長い付き合いだったが、彼女のことはほとんどわからなかった。若いから、というだけではあるまい。仲がいいわけでもなかったし、そういう相手に自分のことをあまり話したがらなかった。

 彼女とは、考え事なんかで頭を悩ませたくない、という点だけ似ていた。でもそれだけでザンビアは、自分と彼女が同じ人間なんじゃないかと考えていた。

 もちろんそれは違う。

 けっきょく、彼以外の人間がエロイーズの部屋に現れることはなかった。エロイーズ・U・フロベールは死体も、生きている姿も見つからなかったが、出血が多かったし、しばらくするともっと別の問題が浮き上がったので、誰も気にしなくなった。彼女の部屋は二か月、血痕がほっとかれ、半年後に空き室となり、一年たつと、バイウォーターの通りでヤクを売ってるケチな黒人の住処になった。

 エロイーズはその頃、ミネソタ州のファーゴにいた。北に来すぎたと思った。モーテルの駐車場で座席に腰かけ、普通の煙草を吸っていた。吸いながら彼女は、「さて、どうしようかな」と考えた。あの日ザンビアが食べていたケイジャンが恋しいように思えて、仕方がなかった。

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Happiness is a warm gun 柏木祥子 @shoko_kashiwagi_penname

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