ダム湖

 サンルダムは北海道上川郡下川町の北に位置しており、その奥には当然ながらダム湖が広がる。

 そのダム湖には決まった名称はないようだが、調べてみるとしもかわ珊瑠さんる湖と呼ばれる場合もあるようだった。

 サンルダムが建設される以前は、下川町の地区の一つとして珊瑠という名の場所があり、それなりに住民もいたそうだが、サンルダムの建設によって水没予定地となり、平成11年には全戸が移転し無住地となったため行政区は廃止された。

 その後、20年近くが経過してから試験湛水たんすいが完了し、珊瑠はダム湖の底に沈んだ。

 しかし、ダム湖内に湛水するからといって人々の営みの痕跡が全て消え去るのかといえばそうではなく、道路などは今でも使われているのかと思うほど白線がはっきりと残っている。

 ダム湖の西側から北に向かって雄武おうむ町に繋がる道路が通っているが、その途中途中からははダム湖の様子を見ることができ、時には道路脇に車を停めて写真を撮っている人もいるくらいである。

 サンルダムの管理棟に至る道とは反対側の山の上には象の鼻展望台というその辺りでは最も高い位置にある建造物があり、周辺の山々やダム湖を360度一望できる。

 8月の良く晴れた日。

 近くまで寄ったからと、私は象の鼻展望台に登った。

 ダム湖の奥の方までよく見え、普段は水に浸かっている立枯れの林は根元まで露わになっていた。

 私は持ってきていた双眼鏡を覗き込んで暫くの間、景色を堪能していたが、ダム湖のまだ水が残る奥の方に、その景色には不釣り合いなものを見つけた。

 水の上にぽつんと白い棒が立っているように見えた。

 一見しただけでは妙なところに白樺が生えていると思うだけだったかもしれないが、他の白樺とは離れた位置にあるため、妙に引っかかった。

 双眼鏡の倍率が足りず、その姿をはっきりと捉えることができずにいると、双眼鏡の視界の外に見失ってしまった。

 一度、双眼鏡から目を離して肉眼で見ようとするが当然何も見えず、もう一度双眼鏡を覗く。

 白樺らしきものがあったであろう方向を何度も見るが、ついに見つけられなかった。

 諦めて今度は立枯れの林を双眼鏡で観察しながら視界を左右に動かしていると、一瞬、何か動くものが見えた気がした。

 この展望台の対岸にある、ダム湖内に下っていくための道路の近くにそれはいた。

 おそらく、さっき遠くに見た白樺だと思っていたものだった。

 それは真っ白い服を着た髪の長い女だった。

 一般の人でも渇水期であればダム湖の中に入って行けるんだろうかなどと考えもしたが、私の思考はすぐに止まった。

 どう考えてもその女は水の上に立っているのだ。

 いくら渇水期であっても、水の残る場所はそれなりの水深があるはずなので、あの位置にいて水面から足首より下が出ているということはあり得ない。

 ああそうか、人間じゃないんだな。

 明らかに普通の事態ではないが、何故だか今見えている光景を冷静に分析しようとしていた。

 それは、私とその女の間には数百mの距離があることによる安心感のためだったのだろうか。

 しかし、残念なことにその安心感は脆くも打ち砕かれた。

 いつの間にかその女は体を私の方に向けていた。

 長い髪に隠されて顔までがこちらを向いているのかは分からなかったが、きっと私を見ていた。

 途端にその女はすすすっ、と私の方に向けて動き出した。

 その女の動く様子がまた異様であった。

 手足を一切動かさず、滑るようにしてこちらに近づいて来る。

 近くの道路を走る車と比べてみると、恐らくは時速30㎞くらいの速さかと思った。

 あとどのくらいの猶予があるのかは瞬時には計算できなかったが、きっと、もたもたしていればすぐにでもあの女はこの展望台の下にまで来てしまう。

 私は大慌てで階段を駆け降りた。

 展望台から降りてしまえばダム湖の様子は見えなくなってしまうため、あの女がどこまで迫って来ているのかも分からない。

 すぐ後ろにあの女がいるような気がして、急いで車に乗り込んだ。

 幸い、エンジンがかからなくなるなどということはなく、シートベルトもしないままに私は車を急発進させた。

 展望台の駐車場を出る瞬間、バックミラーに一瞬、白い影が映ったような気がして、息が詰まる。

 3分ほど車を走らせるとすぐに下川町の街中を通る国道に戻ることができ、車の往来を目にした途端に思い出したかのように全身から汗が噴き出てきた。

 バックミラーを確認してもあの女らしき影は見当たらず、やっと正常な呼吸ができるようになった。

 それから今に至るまで再びあの女を見ることはなかったが、サンルダムに近づこうとは思わなくなった。

 珊瑠には20数年前までは普通に人が暮らしており、当然ながらそこで亡くなった人もいただろう。

 ただ、あの女が珊瑠で亡くなった誰かなのかと言われれば、それは分からない。

 なんとなくだが、あの女は元々あの地にいた存在というわけではなく、もっと上流から流れ着いたものか、もしくは悲しくもこのダム湖に打ち捨てられた何かなのではないかという気がしている。

 あの女に追いつかれてしまっていれば、私はどうなっていたのだろう。

 寂しさか恨めしさで私をダム湖の底に引き摺り込んで仲間にでもしようとしていたのだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る