鹿の角

 私の車の三列目のシートには一本の鹿の角が転がっている。

 車に乗り降りする時に二列目のシートの隙間からそれの一部がちらと見え、その度にああ、とその存在を思い出す。

 別段、珍品奇品といったものではなく、見た目はごく普通の鹿の角で、職場の人に見てもらった時には、3歳くらいのものだろうと言われた。

 ただ、もしかするとその鹿の角は、少しだけ曰くが付いているかもしれないと思うことがある。

 その角を拾ったのは仕事で山奥の林道に入った時だった。

 何人かで山に入ってはいるものの、作業はそれぞれ離れて行うため、結局はほとんど一人でいるようなものだった。

 暫く作業をしていると、藪の中からがさがさと草葉を掻き分ける音が聞こえた。

 山の中にいて最も気をつけなければならないのは、やはりヒグマだろう。

 物音を立てていればまず近づいてくることはないはずなのだが、私はその時はそれほど音を立てずに作業をしていた。

 私は思わず身を屈めて息を潜め、様子を窺った。

 林道のガードレールを挟んだ向こう側。

 恐らく10mくらいは離れていると思うが、何者かが藪を漕いで歩いている。

 私がいた場所はちょうどカーブの手前で、どうやらその何者かはカーブを曲がった先の道路へ向かっているようだった。

 がさがさという音が遠ざかっていくのが分かる。

 息を潜めるのが苦しく、抑えていた呼吸はすぐには元通りにはならず、ただじっとしていただけにも関わらずふうふうと肩を上下させる。

 呼吸が整っても尚、頻脈気味になった心臓は治らない。

 それほど、人の気がない場所で、その場にそぐわない予想外のものが気配を現すというのは驚くものなのだ。

 残念ながら、私が乗ってきた車はカーブの先に停めてあり、身の安全を確保するために車に乗り込もうにも、一旦はその何者かと鉢合わせなければならない。

 私より後ろに同僚はいないし、相当山の中に入ったところにいるため、歩いて山を下ることもまた危険である。

 諦めて足音を立てないようカーブを進んで行くと、程なくして車のテールランプが見えた。

 しかしその位置からではテールランプ以外のものは見えず、もしかするとそのすぐ先に音の正体がいるかもしれないと思うと気は抜けなかった。

 車が見え始めた位置から5mほどさらに進んだところでそれは見えた。

 エゾシカだった。

 ひとまずヒグマではないことに安心でき、体の強張りも徐々に和らいだ。

 しかし、そのエゾシカをよく見てみるとどうにも違和感がある。

 エゾシカは道路のさらに先を向いているので、分かりにくいが、頭の形が変であった。

 普通、牡鹿であれば立派な角が対になって生えているものだが、そのエゾシカの角は一本しか見当たらない。

 ちょうど角が生え変わる時期が来ていて、片方の角はもうどこかで抜け落ちたのだろうかとも思ったが、それでもそのエゾシカに対する違和感は拭いきれなかった。

 片角である以外にも、全身の筋肉の付き方もアンバランスである。

 暫く観察しているとそのエゾシカは不意にこちらへ向き直った。

 エゾシカの顔がこちらに向いた時、私は呼吸が止まった。

 片角かと思っていたそれは、対になっているのではなく、額の中央から生えていた。

 それだけではなく、目や耳といった他の部位も左側にしかなく、顔の右側はのっぺりと何もなかった。

 4本の足も自由が利かないのか、がくがくと体をゆするように歩く姿を見て私は叫びそうになったが、息を吐ききったところで呼吸が止まっていたせいで、ひゅう、と息が洩れる音がするだけだった。

 目の前のそれは、山に潜む何かがバラバラにしたエゾシカを寄せ集めて、それに成り代わったつもりでいるのではないかと思うほどだった。

 やっと、私は息が止まっているのを思い出して大きく息を吸った。

 私の息を吸う音が聞こえたのか、エゾシカのような何かは顔だけを右に向けて、片方しかない目の正面になるように私を見た。

 距離は離れていたが、その目は野生動物の生命力の溢れる目ではなく、暗く淀んでいる目であるのがよく見えた。

 恐らく、今まではまだ私の存在に気がついていなかったのか、今になってそのエゾシカのようなものはがくがくと慌てた様子で藪の中へ姿を消していった。

 藪をかき分ける音が聞こえなくなってから、あのエゾシカのようなものが飛び込んでいったガードレールを見に行くと、一本の鹿の角が落ちていた。

 角の付け根にはまだ血がついているため、あのエゾシカのようなものが藪に飛び込む時にすぐ近くの木に角をぶつけて取れてしまったのだろうと思った。

 今しがた、気味の悪いものを見たばかりだったが、喉元過ぎれば熱さ忘れると言うように、目の前からいなくなってしまえば、意外にもすぐに落ち着きを取り戻すことができた。

 私は落ちている鹿の角を見て、キャンプで使うランタンハンガーにちょうどいいのではないかと思い、その鹿の角を持ち帰ったのだった。

 以来、自分の車にその鹿の角を積みっぱなしにして、その存在を忘れたり思い出したりしていた。

 ただ、その鹿の角の存在を思い出した時に同時に思うことがある。

 なんとなく、自分の車が重たい感じがするのだ。

 その鹿の角を拾ってから、大人2人くらいを後部座席に乗せたような、走り出しの足取りの重たさを感じるようになった。

 雄のエゾシカの体重は最大で150kgほどに達すると言われているが、車で感じる重たさもちょうどそのくらいなのだろうか。

 別に、バックミラーにあの片側しかない顔が映るといったことはない。

 ないのだが、なんとなくあの鹿の角と一緒に何かを乗せて走っているような、そんな気がしてならない。

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