はなちゃん

 去年の初冬頃、家族4人で温泉旅館に泊まりに行った。

 まだ幼い娘2人はどこか遠いところに来て、いつもとは違う食事をして、知らない布団で寝た、と、そんな程度の思い出しか残らなかっただろうが、大きな和室が大変に面白かったらしく、はしゃぎ回っていた。

 娘達が寝てから私と妻は順番に温泉に入りに行き、部屋に戻ってからは売店で買っておいた日本酒飲みながら妻と他愛の無い話をしていたと思う。

 私たちの話し声で長女が目を覚まして、私の方に寄ってきたと思うと、私が止める暇もなく日本酒の入ったコップを掴み、躊躇なく口へ運んだ。

 強烈なアルコールに驚いたのか、見たことのない顔をしていたが、幸い舌先に少し日本酒が触れる程度で済んだようだった。

 しかし、その後は心なしか赤らんだ顔をしていたようにも思う。

 妻と日本酒は気をつけなければね、と話をして、その日は床についた。

 次の日、朝食を済ませてからチェックアウトまでの間は特に館内を彷徨くこともせず、部屋で過ごしていた。

 相変わらず娘達は広い部屋が面白いのか追いかけっこばかりしていた。

 はしゃぎ回って疲れたのか、2人とも帰りの車の中では家に着くまでずっと眠りこけていた。

 その次の日からだろうか。

 次女が昼寝をしていると、決まって長女ははなちゃん、はなちゃん、と誰かの名前を呼びながら一人遊びをするようになった。

 長女が通う子供園の同級生にははなちゃんという名前の子はいないし、私の親類にもはなちゃんはいない。

 長女は、見えない誰かと一緒に遊んでいるという様子ではないし、人形にそのような名前を付けて遊んでいるふうでもなく、時折、はなちゃんが、はなちゃんの、と私たちの知らない名前を呼んでいた。

 その後はいつの間にか長女ははなちゃんの名前を呼ぶことはなくなっていたが、私たちが長女にはなちゃんって誰?と聞いても、幼い長女からは要領の得ない返答しか返ってこない。

 妻は、もしかして旅館から誰かを連れて帰ってきたのかも、などと冗談を言っていた。

 大人と違い子供には先入観がない。

 だから、見えるものと見えないものの区別がつかないことだってあるだろう。

 もしかすると長女は、あの旅館で誰かと友達になって、つい我が家に迎え入れてしまったのかもしれない。

 それ以降は、我が家には特に変わったことは起きていないが、私は見えないもののことについて考えることは多くなったと思う。

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