地の底
満天の星空を見上げて遥か遠くの星々に思いを馳せることはあれど、自分の足下に思いを馳せることはあるだろうか。
家の中にいればフローリングか畳、その下のコンクリートの基礎、さらにその下には恐らくは土か砂利かが埋まっているのだろう。
一方で外であればアスファルトかコンクリートが足下にあり、その下にはすぐ土や砂利が広がっているか、もしくは地下街や地下鉄の線路などが存在するかもしれない。
しかし、それらの更に下には何があるだろう。
ほとんどの場合は土塊以外は何もない。
時には古代の遺跡や恐竜の化石などが見つかることもあるが、それらはまだ人間の手の届く範疇にあるといえる。
人類が最も深くまで掘った人工的な穴は、深さ約12kmだそうだが、バウムクーヘンに例えれば表面の薄皮の厚さにも満たない。
主にトンネル工事を手掛ける会社に勤める技術者のNさんは、地の底には文字通り地獄があるのだと話す。
地獄と聞けば、生前に悪事を働きその償いのために永遠にも思えるような時間の中、鬼から責め苦を受ける、などという場所を想像するかもしれないし、人によっては、今自分達が生きるこの世界こそが地獄だなどと言うかもしれない。
しかしNさんは地獄をこの目で見たと言って聞かない。
別段、トンネル工事中に崩落事故が起き、それがまさに地獄絵図であったという話ではない。
それはまだNさんが30代だった頃。
Nさんの勤める会社は主に北海道内のトンネル工事を請け負っており、一度トンネル工事が着工すればしばらくはその現場近くに設置されたプレハブに泊まり込むことになるそうだった。
作業員は皆そんな生活に慣れており、家族や住み良い自宅から離れたところで男ばかりの缶詰生活を送っていても文句を言う者はいなかった。
しかし、それでも自分の気づかぬうちにストレスは溜め込むもので、酒やタバコ程度ではどうしても間に合わなくなってくるものである。
その時Nさんが作業を行なっていた現場は近くに町などもなく、持ってきたタバコを切らしてしまい大いに暇を持て余していたという。
プレハブにいて他の作業員と話をしていてもどうにも上の空になってしまうし、貧乏ゆすりも止まらない。
気晴らしに散歩でもしてこようと思い立ち、ヘルメットにつけるヘッドライトを持ち出した。
トンネルを通す必要がある場所といえば普通は山の中である。
例に漏れず今回の現場も人里離れた山中にあり、プレハブの明かり以外に周囲を照らすものはない。
ヘッドライトの光量は十分にあるし、何よりNさんは暗闇が怖いとは思わなかった。
普段から閉塞的な空間にいるわけだし、トンネル内だって作業灯があるにしても明かりの届かない場所は暗い。
ぷらぷらと道路沿いを歩いていれば少しの気晴らしにはなったが、それも飽きてくると次に訪れるのは口元の寂しさだった。
プレハブに戻って他の作業員からタバコを分けてもらおうか、と思っていると建設中のトンネルの入り口が見えた。
いつもなら入り口から奥の作業灯が見えているが、その日から3日ほど休工日となっていたため、トンネルの中は真っ暗であった。
本来であれば休工中は何か特別な理由や現場監督の許可などなく1人でトンネル内に立ち入るのは禁止されていたが、現場監督とほとんどの作業員は自宅へ帰っており、人の目がないのをいいことにNさんは暗いトンネルの中を見て回ることにした。
トンネルの中はひんやりとしているが、空気はじめじめと湿気っている。
普段はけたたましく唸る機械たちも鳴りを潜め、Nさんの足音だけがよく響く。
トンネルはまだ工事中といっても、もうかなりの距離を掘り進んでおり、奥まで行って折り返してくる気などはなかった。
しかし、Nさんはトンネルの奥の方に赤く光る何かを見つけ、歩みを止めた。
休工日なのでもちろんトンネルの中には誰もいない。
そしてトンネルの中に設置された作業灯も全て消灯しているはずである。
Nさんは少し考えて、誰かが機械の電源を切り忘れたのだろうと思った。
しかし、機械が待機中に発するランプの光はもっと小さい。
Nさんが見た赤い光は点というよりは、どこかの影から隙間に投射されて、縦に細長く伸びた光だった。
見たことのある光り方だなとは思ったが、それが何だったかは思い出せない。
その光の正体がなんであれ、機械の電源の切り忘れは問題である。
なにより、後で誰かにトンネルに入っていたことがばれても、機械の電源の切り忘れがあったからと言えば、正当な理由になると思った。
Nさんは再びさっまでと同じ調子で歩きだした。
ざっ、ざっ、ざっ、と自分の足音だけが足下と、周りの壁から反響して聞こえてくる。
遠くから見えた光源にある程度近づいてからNさんはやっと自分が置かれている状況が如何に異様なのかということに気がついた。
まず、現場で使う機械にこれほど強く赤い光を放つようなものはない。
そして音がしない。
普通であれば電源の入ったままの機械であれば多少の振動音やノイズを鳴らすはずである。
しかしトンネル内にはNさんの足音と息遣いしか響かない。
ついにヘッドライトの明かりが赤い光の正体を照らせるほどに近づいた時、Nさんは「ええ?」と素っ頓狂な声を出してしまったという。
そこには扉があった。
古びた木製の扉が僅かに開いており、その隙間から光がトンネル内に差し込んでいる。
赤い光かと思っていたものは、扉の奥から差し込む光が赤色のパイロンに反射していたものだった。
トンネル内には非常口や非常電話のための扉が設けられるが、その木製の扉は明らかに異質で、Nさんたちがトンネル工事の際に設置した扉ではないことは一目瞭然であった。
異常な事態であることは十分に分かっていたが、恐怖心よりも好奇心が勝った。
木製の扉を開け放つと、中は階段室のようで下に向かって階段が続いている。
扉の中に入るのは何とも思わなかったが、そのままの気持ちで階段を下って行こうとはそう簡単には思えなかった。
ただ、この先には進まないという選択肢もNさんにはなかった。
意を決して階段を下って行くと、5回ほど折り返した所でもう下に続く階段はなくなっていた。
高さにして3回建てのビルくらいだろうか。
踊り場にはまた扉があったが、上の木製の扉とは違い、今度は防火用の鉄扉のようであった。
階段を下り切ってからのNさんはもう戻りたいという気持ちでいっぱいだったという。
扉の奥からはくぐもった何かの音がずっと聞こえている。
例えるならば、ライブ会場の扉の前のような、騒がしい音が扉や壁を通り抜けてくるような、そんな感覚だったという。
ただ一つライブとは違ったのは、聞こえてくるのは小気味のいいリズムを刻む音などではなく、恐らくは叫び声であったことだ。
Nさんはすっかり恐怖してしまっていたが、Nさんの心とは裏腹に体はその扉を開けようとしていた。
Nさんは後悔した。
休工日になる前に仕事が終わった時点で自宅に帰っていればよかったと。
こんな夜遅くにタバコ代わりの散歩などするんじゃなかったと。
禁止されている決まり事を守って、トンネルの中になど入って来なければと。
得体の知れない扉を開けて階段を降りて来なければよかったと。
そして、好奇心に負けて鉄扉を開けるんじゃなかったと。
眼前に広がったのは真っ赤に燃え盛る炎の海だったという。
扉を開けた先には地面はなく、扉自体が相当な高さに浮いているように思え、周囲からはごうごうと火柱が立ち昇る音と、何百、何千とも思えるような怨嗟の叫び声が聞こえてくる。
扉の先から突然吹き込んできた熱気に思わず身を引くと、鉄扉は勢いよく閉じられた。
熱気が感じられなくなり、叫び声がまたくぐもった音に戻ってからNさんはやっと、なぜ自分はこんな恐ろしい所にいるのかと思うようになった。
腰が抜けかけて震える足で必死に階段を登り、ついに木製の扉を開けてトンネルの中に転がり出た。
振り向くとそこにはコンクリートの壁があるだけで、木製の扉はどこにもなかったという。
それ以来、Nさんは死後の世界、特に地獄を信じるようになったそうだ。
あの炎と怨嗟の叫び声に包まれた世界は足下のさらに下、地の奥底に存在していて、人としての道を外せばそこに引きずり込まれていく。
今まで色々な人にこの話をしてきたが、皆夢だとか幻覚を見ただけなどと言い信じはしなかった。
しかしNさんはあの時の熱気は決して夢や幻覚などではなく、実際に感じたものだと言い頑なだった。
地獄にだけは絶対に落ちたくない。
あの光景を見ればそう思わない者など一人としていないだろうと。
私もそんな突飛な話があるものだろうかと思いもしたが、この話をしてくれたNさんの怯えたような目と微かに震える声までは演技のように思うことはできなかった。
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