流れ着いたもの
人間は水さえあれば1週間以上、長ければ1ヶ月も生き永らえることができるらしい。
それほど、水とは生命と切っても切れない繋がりがある。
しかし、水は生命だけでなく、生命ではなくなったものにも大きく影響を与える。
よく、悪い気は水場に集まるなどと言う。
また、土地に付いた呪いのようなものを流し薄めるのに、その土地を通る、もしくは囲うように水路を作ることもあるそうだ。
砂糖や塩が溶け込むように、水には溶媒としての性質があるが、それは物質的なものに限った話ではないと思い知った体験がある。
私は以前、短期間だが下水処理場で働いていたことがある。
小さな町の処理場であるため、下水道が繋がっている限りは、その町のほとんど全ての下水がその処理場一ヶ所に流れ込んでくることになる。
下水とはトイレなどから流れてくる汚水と、流しや風呂などから流れてくる雑生活排水を合わせたもので、場合によっては雨水も合わせることがあるが、その処理場に雨水は流入しないため、人々の生活によって生じた下水だけを処理することになる。
私は下水処理の専門家ではなく、その処理場の人員が足りなくなったために一時的にそこで仕事をすることになった。
下水処理場の仕事は思っていたよりも忙しく、そして思っていた通りに臭いと汚れに悩まされた。
下水の水質検査と各装置の保全、管理が主な業務となるが、この水質検査のための検水を採取するのが本当に嫌で仕方がなかった。
採取する検水は純粋な下水である流入水、ディッチと呼ばれる下水を微生物と反応させる槽の水、沈殿槽と呼ばれる巨大な水槽の上澄み水、塩素と混合消毒させた放流水の4つで、流入水を採取する時が最も臭気が強く、毎回うんざりする思いで採取を行っていた。
ゴム手袋は付けているが、それでも下水というだけで触るのも躊躇ってしまう。
そんなことをしているある日。
いつものように検水の採取を行うため、まずは流入水を採取しに行った。
下水と微生物を反応させた際に生じる
その部屋に流入水を採取するための採水口があるのだが、流入水は採水口から7メートルほど下にあり、室内の電灯程度では中を照らすことはできず、暗闇の中、ロープを括り付けたバケツで採水するしかなかった。
どの採水口もそうなのだが、体格の大きな人でも容易に通ることができる程大きいため、誤って転落でもすれば下水まみれになることは必至である。
特に、この流入水の採水口は高さもあるため下水まみれになるだけでなく、落下によって死ぬことになるかもしれないため、水を汲むというだけでも細心の注意を払う必要がある。
普通、検水の採取を行う際は二人ペアで行うことになっているのだが、人員不足のため、この日はどうしても一人で作業を行う必要があった。
私は採水口の蓋を開け、ロープ付きのバケツを流入水に向かって下ろし、手先の感覚だけでバケツに水が入ったかを確認しながら作業を行っていた。
下の様子は見えないものの、途中でバケツが引っかかったりしていないかを確認するため採水口を覗き込みながら作業をすることになるが、その時、僅かだが白い何かが光を反射させたように見えた。
室内の電灯の明かりが下まで届かないため、水面が光る様子すら見えないというのに、何が光ったのだろうと思った。
人というのは無責任なもので、自分の家の敷地から外に出て行ってしまえば見えなくなったも同然と思ってしまう所があるようで、下水も同じである。
トイレからのパイプを通りさえすればどんなものでも一応は下水処理場に流れ着くことになっているため、本来下水に流すべきでないものも流れてくるし、時折、思いもよらないものがごみとして浮いていることがある。
おそらくは先ほどの光も、小型の光る子供のおもちゃか何かなのだろうと思っていた。
すると、ばしゃばしゃ、という音とともに手に持ったロープにくくっ、と軽く引っ張られるような振動が伝わった。
私は釣りをする趣味はないのだが、きっと釣り針に魚がかかった瞬間というのはあんな感覚だろうと思った。
ちょうど、ばしゃばしゃ、という音もなんとなく水面で魚が暴れるような音に聞こえなくもなかった。
しかし、よくよく考えてみればそれはおかしいことである。
下水道は、魚が生息するような水域には決して繋がってはいない。
そして何より、流入水が流れるざーっ、という音に紛れてこんなにはっきりとばしゃばしゃという音が聞こえたことに違和感を覚えた。
私はこの街の下水道の全貌は知らないが、もしかするともう少し上流の方に大きな空間でもあり、マンホールか汚水
この日は流れている下水の質が良くないのか特に臭気が強く、部屋に充満する汚泥の臭気も相まって呼吸をする度に吐き気を催すので、早々に検水の採取を切り上げ、次の場所に向かった。
流入水以外の検水は全て一つの部屋で採取できるため、後はそれほど時間はかからないはずだった。
沈殿槽のある部屋へ向かうには、地下のコンクリート打ちの薄暗く長い廊下を通っていかなければならず、いつも不気味だなと思いながら通っていた。
私が下水処理場で働いていたのは1月という冬真っ盛りの季節だったため、施設内はどこも乾燥していて寒い所ばかりだったが、この日はなんとなくじめっとした空気を感じており、地下の廊下は一層不気味に感じた。
沈殿槽のある部屋にたどり着くと私はすぐに検水の採取に取り掛かった。
ディッチ、沈殿槽、放流水の順で検水の採取を行うのだが、下水はディッチになった時点で流入水のような臭気は薄れ、室内もほとんど臭気を感じないほどになっている。
何日かきつい臭いの中で作業をしていると、そのうち鼻が慣れてくるのか、それともただ麻痺してしまうのか、ちょっとした臭いであれば気にならなくなってくるのだが、この日はどうにもまだどぶのような臭気が室内に漂っている気がした。
やはり何かのタイミングで下水の質が悪くなることがあるのだろうと思いながらディッチの採水を終え、次に沈殿槽の採水を行おうと採水口の蓋を開けようとした時だった。
ばしゃばしゃ。
はっきりと聞こえた。
ディッチが流れる音が離れた所で小さく聞こえてくるが、それ以外は自分の息遣いと作業着がこすれる音が聞こえるだけである。
沈殿槽も中の装置がごんごんと音を立てながら回転していることがあるが、この時間は動いていない。
流入水であればもしかしたら生きたねずみが流れ着いてしまうことはあるかもしれないと先ほど検水を採取した時に思った。
しかし、この沈殿槽に下水がたどり着くまでに二度もスクリーンという浮遊物を取り除く装置を通って尚、あれほどの音を立てるものが水の中に紛れているはずがない。
足元の厚さ僅か5ミリ程度の鉄板の下、暗い水中に何か得体の知れないものが潜んでいるのではないかと想像してしまう。
恐怖心か、それともただの寒さのせいか、私はぶるっと肩を震わせた後、再び採水口の蓋に手をかける。
見た目の割にそれほど重たくはない蓋は、がこん、と音を立てて外れた。
先ほどの部屋と違い、電灯の他に採光が多いこの部屋は、水面の様子がはっきりと見える。
しかし、微生物との反応を終えた上澄み水であっても、完全に透明なわけではないため数メートルもある水の底までを見通すことはできない。
ほとんど黒色に近い水面には採水口を覗き込む私の影が映るばかりで、ばしゃばしゃと音が聞こえた割には水面に波紋は立っていない。
やはり、窓の上にできたつららが落ちる音がそう聞こえただけなんだろう、そう無理矢理納得し、ロープ付きのバケツを沈殿槽に投げ入れた。
バケツが水面に着き、水しぶきを上げた瞬間だった。
ばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃ。
池に餌を投げ入れて、そこに魚が群がった時のような、子供がプールでばた足の練習をする時のような、激しく水を掻くような音が室内に響き渡った。
私は思いもよらぬ事態にただただ硬直していた。
投げ入れたバケツの周りが泡立つ。
よく見れば、数多の血の気のない手がバケツやロープを掴もうと藻掻いている。
私が叫び声も上げることができずにその様子を見ていると、ぐん、と腕を引かれる感覚があった。
血の気のない手がロープを掴み、引っ張っている。
それで我に返った私は必死にバケツとロープを持っていかれないように引っ張り返した。
下水道検定の講習を受けた際に、沈殿槽に異物を落下させると、最悪の場合、一旦全ての水と汚泥を引き抜くことになる、と聞かされていた私は、目の前の異常な事態よりも機械を故障させることに危機を感じていた。
血の気のない手はかなりの数があるように思えたが、意外にも引く力は弱く、私が渾身の力でロープを引くと簡単にバケツとロープを引き上げることができた。
急に引っ張られる力がなくなり私は尻もちをつくように後ろへ倒れた。
バケツがなくなっても少しの間は沈殿槽の中からばしゃばしゃと音が聞こえていたが、次第に音は聞こえなくなった。
私は何が起こったのか理解できずにいた。
音が聞こえなくなってから1分以上はそこに座り込んでいたかもしれない。
しかし、今度はその静寂がかえって恐ろしく、わなわなと恐怖心があふれてきた。
叫びはしなかったと思うが、声にならない呻き声を発しながら全速力で他の職員がいる場所へ戻った。
途中、地下の廊下に走る太いパイプの中からごんごんごんと叩くような音が聞こえてきて腰を抜かしそうになったが、もつれる足でなんとか階段を駆け上がった。
ただならぬ様子で戻ってきた私を見て、他の職員たちは私に一体どうしたのかと声をかけてきたが、私は何も喋ることができなかった。
結局、このような体験をした職員は他にはおらず、上司からは連日忙しく働いていたせいで疲れが溜まっているのだろうと言われた。
手の空いた職員に連れ添われて沈殿槽のある部屋に再び向かったが、私が置き去りにしたバケツと採取済みの検水、開けっ放しになった採水口があるだけで、他に異常なものは何も見当たらなかった。
その後、一週間程度で私の勤める会社がその下水処理場を管理することはなくなってしまったため、あの血の気のない手の正体は分からず仕舞いとなった。
一体あれは何だったのかと今でも考えることがある。
下水処理場には様々なものが混ざり込んで流れ着く。
もしかすると、この町全体の何か良くないものですらあの場所に垂れ流され続けていて、あれはその流れ着いたものの集合体のようなものだったのかもしれない。
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