視界の端に
昔に比べて目が悪くなった。
高校生の頃は両目とも視力は2.0はあったはずだし、道路を挟んだ向かい側に貼ってあるポスターの小さな字で書かれた文章もすらすらと読めた。
目が良いことは私の自慢だったが、高校を卒業して一人暮らしをするようになってから明らかに目が悪くなった。
ちょうど私が高校を卒業する時期から、いわゆるガラケーからスマホに乗り換える人が増え、私もその一人となった。
私は普段、夜更かしをする方ではなかったが、親の目がなくなってからは夜遅くまでゲームをしたりスマホでインターネットをすることが多くなった。
結果として専門学校を卒業する頃には両目とも視力は1.0ほどまで落ちていた。
普段、生活する分には全く支障はないが、寝起きは小さな文字が読めないことが多くなり、車を運転する際は信号や街灯の光がぼやけたり、二重に見えたりもするようになった。
高校を卒業してから10年以上が経つが、スマホは生活からは切り離せない存在になっており、視力はさらに落ちて、今は両目とも0.5くらいになってしまった。
「若い頃に目が良いと、老眼になるのが早いよ」
どういう根拠があるのかは知らないが、よく周りの人に言われた。
まさかそんなことはないだろうと思っていたが、果たしてその通りになった。
実際、視力が0.5になってもメガネは必要ない。
まだ小説くらいの文字であれば普通に読めるし、運転免許証にも眼鏡等の文字はない。
ただ、人の顔が見えづらくなったと思う。
道路を挟んだ向かい側に立つ人の顔だと、歩きながらではよく見えない。
立ち止まって目を凝らす必要がある。
車に乗って信号待ちをしていても、対向車を運転する人の顔はよく見えない。
通り過ぎる時にだけ、やっと顔がわかる。
それらを含めても、基本的に目が悪いことで不便していることはない。一つのことを除いては。
目が悪くなったことが原因か分からないが、最近、よく空目をするようになった。
パソコンに向かっている時、外を歩いている時、買い物をしている時、実に様々な状況でそれは起こる。
視界の端に誰かが立っているような気がする。
大抵の場合、そこには人はいない。
外で空目をすれば、それはただの電柱だったり、パソコンで作業をしている時に空目をすれば、パーテーションとそれに反射して映り込んだ景色だったり。
確かに、電柱の根元が交通整理をするおじさんに似たような濡れ方をしているし、パーテーションに映り込む景色もよく見れば色の濃淡がジーンズを履いた人に見えなくもない。
空目は生活に支障、とまではいかないが、影響はある。
歩いていて、視界の端に人が見えたと思ったから避けて歩いたが、何もいなかったなんてことはよくある。
友人にそのことを話すと、側からみれば、見えないものが見えてしまっている人と思われかねないね、と言われた。
その時は変なことを言うなよと笑って済ませたが、事実、そうだった。
視界の端に見える人影を幽霊だとかそういうものだとは思ったことはなかったが、数回、本物を見たことがある。
本物というのは、実物の人間という意味ではなく、普通、見えないはずのもの、ということだ。
何度も視界の端に人影を見ていると、次第に何とも思わなくなり、避けようともしなくなっていた。
どうせ横目にちらりと見れば消えてしまうじゃないか、と、そう思っていた。
ある日の夕方。
仕事を終えて帰宅している途中、また視界の端に人影を見た。
いつもは通らない閑静な住宅街の外れにある押しボタン式の横断歩道で、信号が青に変わるのを待っていた。
いつの間にか、視界の端に白いワイシャツに濃いグレーのスラックス。
あくまで、視界の端に捉えているだけなのでそう見えた気がする、というだけなのだが。
その人影はどうやら道路を挟んだ向かい側に立っている、ように見える。
顔をそちらに向けたり、横目に見たりすると消えてしまうので、顔と目はしっかりと前に向けて、周辺視野でその人影を捉え続けた。
普通、周辺視野で捉えていても、意識してしまった時点で人影と思っていたものは姿を消してしまうのだが、その日はずっと視界の端に人影は立ち続けていた。
どうして、その日に限ってそんなことをしようと思ったのか自分でも分からない。
ただ何となく、ちょっとした興味本位で観察してみようと思ったのだと思う。
信号待ちをするふりをして人影の様子を伺う。
よく見てみると、人影はワイシャツとスラックスに見えるどころではなく、確実にワイシャツを着てスラックスを履いた男性だと分かった。
視界の端に捉え続けている状況をよく見てみると、と表現するのは正しくないとは思うが、それほどはっきり見えていた。
普通の人間を見るよりよほど鮮明に。
「あの人はこの世のものじゃないな」
そう直感した。
今までにそういう類のものを見たことがあるわけでもないが、別段、否定もしていなかった。
興味が向いていない、という方が正しいかもしれない。
横断歩道の信号が青に変わり私が歩き出すと、人影は完全に視界の端から見切れてしまった。
横断歩道を渡り切ってから、人影が立っていたであろう場所に目を向ける。
「ああ、そうか」と妙に納得してしまった。
向こう側からは草に隠れて見えなかったが、歩道に小さな花束と缶コーヒーが置いてあった。
こんな見通しの良くて、車通りの少ない道路なのに、と思った。
私の知る人ではなかったが、今日に限ってこの道を通り、見えないはずのものが見えてしまったことに、何か縁のある人だったのだろうかと思いを巡らせる。
その花束と缶コーヒーには近づくことはしなかったが、その場で小さく手を合わせた。
その日から毎日その道を通るようなった。
花束も缶コーヒーもとうの昔に置かれなくなったが、まだあのワイシャツとスラックスの人影は立っている。
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