「あ」

 私は仕事中、よくイヤホンをつけて音楽を聴いている。

 音楽を聴いているからといって、仕事に支障を来すことはない。

 人気のない山の中で草刈り作業をするため、他人の目を気にする必要もないし、イヤホンと防音用のヘッドホンでも使わなければ作業後の耳鳴りが酷いということも理由の一つにある。

 作業中、音楽を聴いていると、ぷつっと音楽が止まることがある。

 イヤホンがスマホから抜けたのかと思い確認するが、接続は問題ない。

 私の使っているイヤホンは、イヤホンに着いたボタンで音量の調整や音楽の停止、再生、といった操作ができるもので、接続に問題がないのであれば、作業中にそのボタンがどこかに触れて音楽が止まったのかと思った。

 しかし、イヤホンのボタンを操作しても音楽が再生されず、仕方なくまた作業着の胸ポケットからスマホを取り出しアプリを操作する。

 そんなことが作業をしていると一日に一度はある。

 胸ポケットの内側が汗で濡れて画面に触れ、勝手に操作されないように画面を外側に向かせるよう気をつけているし、イヤホンも引っかかって抜けないようにたわみを持たせている。

 それでも何かの原因でぷつっと音楽が止まる。

 もしかするとアプリ側に問題があるのかもしれないと思い、スマホの再起動やアプリの再インストールを行ってみたが、効果はなかった。

 ある時から気がついたことなのだが、ぷつっと音楽が止まり、仕方なく音楽アプリを操作するためにポケットからスマホを取り出し、ついでにイヤホンも耳から外すと、変な声が聞こえる。

 初めは周りの音かと思ったが、違う。草刈機のエンジンが回りっぱなしなため、まず環境音は聞こえてこない。

 空耳だと思うようにしていたが、音楽が止まりイヤホンを取ると毎回、「あ」という男性とも女性ともつかない声が聞こえる。

 何かの物音ではなく明らかに人の声で「あ」と言っている。

 もちろん作業中は周りに人はいない。同僚と一緒に現場に向かっても各々50メートルは離れた所にいるため、そんなはっきりとした声など聞こえるはずもない。

 不気味な声だなとは思いつつも、それ以外に何かが起きるわけでもなく、作業を中断するわけにもいかないので気にしないようにしていた。

 ただ、毎日その「あ」を聴いているうちにあることに気がついた。

 この「あ」は、ただ一文字「あ」と言っているわけではなく、どうやら何かしらの文言の最後の一文字である「あ」が聞こえているような気がするのだ。

 もちろん、イヤホンをつけている状態では「あ」以前の声は聞こえてこないが、なんとなくその声色というか調子が「〇〇あ」と言っているように聞こえる。

 別に、どうしても確認する必要があるわけではなかったが、なんとなく気になってしまったので、次に音楽がぷつっと止まってしまった時はすぐにイヤホンを外して、「あ」の前に何を言っているのか確認してやろうと思った。

 「あ」の正体を確かめようと思った次の日。

 朝、現場についてから草刈り機の準備をする前に、音楽がぷつっと切れたらすぐにイヤホンを外せるよう、仕事の準備そっちのけでイヤホンの付け方を確認した。

 作業を開始してから一時間くらいが経った頃、いつものように突然ぷつっと音楽が止まった。

 一瞬、反応が遅れたが急いで防音用ヘッドホンをかなぐり捨ててイヤホンを乱暴に外す。

 いつもは音楽が停まってからイヤホンを外すまでに10秒くらいはかかっていたと思うが、今日はそれよりも遥かに素早くイヤホンを外した。

 すると、聞こえた。

 いつもより少し大きい声で「あー」と。

 その直後にいつものように「あ」が聞こえた。

 「あ」一文字ではなく、その前に「あー」と入るだけで明らかに物音や空耳ではないことが分かり、人間の喋る声だと確信した。

 そう思った途端に心臓の鼓動が早まるのが分かった。

 今までは「あ」が人の声に聞こえるとは思いつつも、どうせイヤホンを外した直後に聞こえた草刈り機のエンジンの音が「あ」に似ているんだろうとか、そんなふうに思っていた。

 しかし、それは今日で覆ってしまった。

 「あー、あ」は、人の声だ。

 恐る恐る辺りを見渡す。

 一般の車両は絶対に通ることがない道路だし、同僚は50メートルほど先に見えるカーブの向こう。

 自分の前後50メートル以内には人間がいないことは明らかだ。

 日差しに照らされ体は大粒の汗をかくほど熱いが、背中にはぞわぞわと寒気が走る。

 結局、その後は何も変なことは起きなかったが、上の空になってしまい作業に身が入らず草刈り機の刃を何度も縁石やガードレールの支柱にぶつけてぼろぼろにしてしまった。

 あの声はなんだったのか。

 現場から会社に帰るまで軽トラの助手席でずっとそればかり考えていた。

 あの時聞こえた声は、あーあ、とがっかりするような調子ではなかった。

 合成音声のような棒読みではあったが、しっかりと人間らしい声で「あー、あ」と言った。

 ひどく不気味な体験だったが、かといって誰か同僚に話すこともなく、一人で考えてもらちが明かないことを考え続けていた。

 次の日からは作業中にイヤホンを付けて音楽を聴くのが少し躊躇われたが、イヤホンを外さなければ変な声は聞こえないはずだと自分に言い聞かせて、結局音楽を聴きながら作業をしていた。

 しかし、その日からどういうわけか作業中に突然音楽が止まることはなくなった。

 音楽が突然止まることがなくなったので変な声を聴くこともなくなった。

 あの「あ」が何だったのかは今でも分からない。

 もしかすると山に潜む怪異のようなものでも傍にいたのか。

 私は今までに霊的な体験はしてこなかったしUFOだって見たことがない。

 目に見えない存在を信じていないわけではないが、自分の身の回りでそんなことが起きると思って生きてはこなかった。

 ただ、山は人が住む場所ではない。

 だから人が知る法則に当てはまらないことが起こる。

 そんなふうに思うようになった出来事だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る