安息の甘露【5】

 朝食を終えて時計を見ると、八時を回ったばかりだった。

 空腹だけでなく、心も満たされる食事のおかげか、相棒イリムも晴れ晴れとした笑顔を浮かべている。


「これからどうしようか? 手術が終わるまでまだかなり時間があるよね?」


 こてん、と小首を傾げてキラキラした瞳を向けてくるイリム。久しぶりの休暇に浮き浮きしているのがよく分かる。


「ああ。とは言え、マーケットが開くのも、もう少し先だな。それまで他の店を回るか」


 今日は久しぶりの休暇だ。

 最近はまた政府やリリャールの攻撃が激しくなっている。次に二人きりで羽を伸ばせるのはいつになるか分からない。

 たった半日とはいえ、この貴重な休日を存分に楽しまなければ。


お菓子屋さんパティスリーに行くのは最後にしたいよね」


「ああ。ハチミツの香りを漂わせて武器を選ぶのは勘弁してほしい」


「他のお客さんに迷惑だもんね……あ、そうだ」


 真剣な顔でしばらく考えこんでから、何かを思いついたように顔を上げた相棒。顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。


「この間、ハディード兄さんが公衆浴場ハマームが営業再開したって言ってたんだ。せっかくだから行ってみない?」


 公衆浴場ハマームはこの砂漠地帯特有の入浴施設で、マッサージを受けることもできる。

 入浴後はティータイムも楽しめるし、たまの休暇にリラックスするにはちょうど良さそうだ。


「それはいいな。戦闘後にそのまま来てしまったから、俺たちも薄汚れているし」


「ね、汗を流してさっぱりしてからお店を回ろうよ。ランドリーもあるから、お風呂に入ってる間に洗濯できるはずだよ」


 雪中行軍用の白いフード付きのジャケットとパンツは車の中で脱いで来たものの、雪山で動き回るために重ね着していた服が汗や雪でドロドロだ。こんな格好であちこちの店を見て回ったら、街の人に迷惑がかかることは間違いない。

 着替えるついでに、街はずれの川沿いにある公衆浴場ハマームでひと汗流してさっぱりして来よう。

 まだ一日は始まったばかり。市場や店を回るのは、その後からでも十分だ。


 橋のたもとの駐車場に戻ってトラックに乗り込むと、河岸を渓谷沿いにのんびり進む。

 岸辺では、すっかり葉を落とした雲竜杉と錦糸柳が、ゆらゆらとたおやかな枝を揺らしていた。朝陽を浴びてキラキラと輝く川面とそよ風に揺れる樹々の影のコントラストが美しい。

 とても紛争地と思えぬのどかな光景に、あの明け方の戦闘がまるで悪夢だったかのように思える。


 こんな景色を2人で見られるのも、無事に生きて還ってこられたからだ。


――何とか間に合って良かった。


 俺は心の中でそっと感謝の祈りを捧げた。


「綺麗な並木だね」


 嬉しそうに外を見回す相棒イリムのために、少しだけスピードを落とす。


「秋に来られたら雲竜杉の紅葉もさぞ見事だっただろうな」


 雲竜杉は杉の仲間に見えるが、実は落葉樹だ。小さなウロコ状の葉は保水力が高く、根も真っすぐに地中深くまで伸びるため、驚くほど乾燥に強い。

 小さな葉をびっしりと茂らせた細い枝のふわふわとした風情が愛らしく、春先と初秋に咲く桃色の花と、晩秋の鮮やかな紅葉は実に美しい。


「うん、来年は見られるといいね。春の花も……あ、あそこでカゴ編んでる!」


「錦糸柳の枝はしなやかで丈夫だからな。籠や敷物を編むのに最適だ。雲竜杉も肌理が細かく芯が強いから良い木材になるんだ」


「それで、このあたりには工房がたくさんあるんだね」


 言われてみれば、河岸にはこの街の特産品である柳細工や木工家具の工房が並び、人々が忙しそうに立ち働いている。


「ああ。ちょうどいい、後で何か買っていくか?」


「うん。着替えとか整理する為のカゴが欲しかったんだ」


 窓から身を乗り出さんばかりの彼に水を向けると、嬉しそうな声が返ってきた。


「よし、帰りに寄っていくか」


「ほんと!?」


「ああ。だからその頭を引っ込めろ。そろそろどこかにぶつけるぞ」


「ごめんごめん」


 悪びれない態度で謝りながら、ようやく助手席に落ち着く相棒イリム

 その屈託のない笑顔に苦笑を返すと、軽くアクセルを踏んでスピードを戻した。


「あ、綺麗!!」


 相棒イリムの歓声に目を上げる。立ち並ぶ工房の向こう側に見えてきたのは、真っ白な漆喰の壁に青や黒のタイルで美しくモザイク装飾が施されたドーム天井の建物だ。


「再建されたって聞いてたけど、ここまで立派だと思わなかったよ!」


「ああ。停戦後の1年あまりでここまで復興したとは……」


 以前ここに来た時は3年前の空爆の被害に遭った直後で、灰色の瓦礫がただ転がっているだけだったのに。

 冬の柔らかな陽射しに照らされて輝く白壁と、抜けるような青空のコントラストが鮮やかだ。その美しさは、いたましい破壊の爪痕などまったく感じさせない。


「僕たちが戦い続けることで、こうやってみんなの暮らしが戻って来てるんだね」


 うっとりと見上げる相棒イリムは感慨深げにほぅっと息をついた。


「そうだな。今すぐ戦争を終わらせることは出来なくても、まだ被害に遭っていないところを守ることは出来るし、被害の拡大を防ぐことも出来る」


 こうして着実に人々が当たり前の暮らしを取り戻していく様を見ると、自分たちが戦っている意味が分かったような気がする。


「うん。そのためにも、命を粗末にする戦い方はしちゃダメだね。死んでしまったら、もう戦えなくなるんだから」

 

 「ああ、どんな戦場からも必ず生きて帰ろう。この先も、何かを守り続けることができるように」


 俺の言葉にしっかりうなずき返した相棒イリムの瞳には、力強い輝きが宿っていた。

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