安息の甘露(3)

「わあ、美味しそう!」


 青果店の店先に山積みになった果物を見て、イリムが目を輝かせた。

 市場スークではひっきりなしに人が行きかい、せわしなく商いの声が飛び交っている。

 長引く戦災のせいで品物が溢れる状態には程遠いが、それでも飢餓が蔓延していた頃とは違って店に充分な売り物が出回るようになったようだ。


「このオレンジは採れたてだよ! 一つどうだい?」


「あれ? まだ季節にはちょっと早いよね?」


「こいつは早生だからね。他の品種よりだいぶ早く採れるんだよ。ちょいと味見してごらん」


 わくわくした様子で品物を見ているイリムに、八百屋のおばさんが小さめの実を一つ渡してくれた。

 つやつやした皮をむくと甘く爽やかな香りが辺りに漂う。


「わぁ、美味しい!」


 一口かぶりついたイリムが歓声を上げた。

 星をまき散らすような笑顔は、見ている俺まで幸せな気分になる。


「それ、一山下さい」


 迷わず財布を出すと、紫紺の瞳が真ん丸になった。


「そんなに美味いなら隊長父さん先輩兄さんたちにも土産にしよう」


「いいの!? みんな喜んでくれるかな?」


 イリムは三日月の形に目を細め、店主から紙袋を受け取っている。


「はい、ちょっとおまけしといたよ」


「わあ、ありがとうございます!」


 ずっしりとした果物の袋を受け取ってはしゃぐ姿に、あらためて彼の無事を実感してこっそり息をついた。

 間に合って本当に良かった。もしあと一分……いや、数十秒遅れていたら、彼を永遠に失っていたかもしれない。


 暗闇の中、彼の無事な姿を見るまで……いや、この腕に抱きしめるまで、生きた心地がしなかった。

 もうあんな思いをするのはごめんだ。二度とこいつを一人にはしない。


 そんな俺の内心も知らず、イリムは上機嫌でオレンジをかじっている。

 その能天気な笑顔に少しだけ腹が立って、頭に軽くこつりと拳を当てた。


「痛た、何するんだよ」


「こら、歩きながら食べると行儀が悪いぞ」


「ごめん、あんまり美味しかったから。ちょっとお腹すいたし」


「そう言えば朝食がまだだったな。噴水の周りの休憩所にベンチがあるから、そこで食べよう」


 こうした回廊市場スークでは、建物の中に多数の店が並んでいて、その中心に噴水広場があるのが一般的だ。

 ここアルファーダの回廊市場スークでも、3階建ての建物の中心部に大きな噴水広場がもうけてあって、周囲はモザイク細工の美しい休憩所が用意されている。


「あ、もう屋台が出てる!」


「ああ、出勤前に朝食を食べる人もいるからな」


 戦時下であっても人々の日常生活がなくなるわけじゃない。

 当たり前のように機械や生活用品を作っている会社もあれば、それを売る商店もあり、そこで働く人々もいる。

 そうした普通の人々が市場で軽く食事してから出勤するのだ。


「あ、ファラフェルヒヨコ豆コロッケの屋台が出てる!」


シャワルマ串焼き肉の薄切りのロールサンドもあるぞ」


 一口サイズのファラフェルは、上に何かのソースがかかっていて、レタスの葉でくるまれている。

 こんがり焼いたシャワルマ串焼肉は、薄切りにしたトマトやタマネギと一緒に平たいパンでくるくると巻かれている。ソース代わりに添えられているのはコクのあるムタッバルナスの胡麻入りペーストフムスヒヨコ豆のペースト


 どちらも彼の大好物だ。


「う……どっちにしよう……」


 屋台の前でうんうん唸りながら真剣に悩み始めるイリム。大真面目に悩みすぎて、しまいには頭を抱えてしまった。


「両方食べるか?」


「え? いいの?」


 見かねて声をかけると、弾かれたように顔を上げて表情が明るくなる。


「ああ、夕べから何も食べてないだろう? 帰投するまでにしっかり腹ごしらえしておけとの隊長父さんからの伝言だ」


「ほんと? それじゃ遠慮なく!」


 浮き浮きした様子で屋台に駆け寄ると、さっそく2つずつ注文している。

 目をキラキラさせながら待っている無邪気な姿はまるで少年のようだ。

 屋台のおやじさんも苦笑しながら手早く2人前を大きな木の葉に包んで手渡してくれた。


「はい、お待たせ。どちらも熱々だから慌てて食べてやけどするなよ」


「おじさん、ありがとう。あれ、これは?」


 食事の包みとは別に手渡された数枚のクッキーに、イリムが目を丸くする。


「そいつはおまけだよ。お兄さんたち、解放同盟の外人部隊エトランジェだろう?」


「えっと、それは……」


 笑顔を引きつらせて固まってしまったイリム。

 俺たち外国人義勇兵に対しては、好意的な人と敵意をむき出しにする人の両極端。つい昨日だって、理不尽な戦禍がもたらす不幸をわれわれ外国人のせいにする民間人に激しく詰め寄られたばかり。


 イリムは屋台のおやじさんがどちらなのかとっさに判断がつかず、反応に困っているようだ。


「はい、それが何か?」


 途方に暮れているイリムを背後に押しやるようにして俺が前に出ると、おやじさんが慌てて両手を振った。


「ああ、すまんすまん。警戒させるつもりはなかったんだ。いつも命がけで守ってくれてるからな、その礼をしたかったんだ」


 不器用にウインクするおやじさんに、背後のイリムがほっと息をつく。

 彼は俺の隣に並ぶとはにかんだような笑みを浮かべた。


「僕たちは当たり前のことをしてるだけです。わざわざお礼なんて」


「いいんだよ、俺の気持ちなんだから。いろいろ言う奴もいるし、たまに信仰の押し付けが鬱陶しいと思うことがあるのも事実だが、あんたたちのおかげで少しは普通の生活ができるようになったのも事実だ」


「もしお役に立ててるなら嬉しいです。信仰については……押しつけがましくなっちゃってるならごめんなさい。不信心者の独裁者たちを見ているとつい苛立ってしまって」


 両手に食べ物を抱えて上目遣いに言い訳するイリムに、おやじさんはからからと豪快に笑った。


「ああ、二人とも真面目そうだもんな。罰当たりなヤクザものを見たら、そりゃぁ腹が立つだろうよ」


「はい。面目ありません」


 しょんぼりとうなだれている姿はとても一人前の戦士には見えない。

 そんなあどけなさの残る姿に、屋台のおやじさんも息子を見るような温かな眼差しを向けてくれている。


「お兄さんたち、まだ若いから仕方ないさ。ただ、この国の連中も長引く内戦でいろいろ思う所はあるんだ。だから、どーんと心を広く構えて、多少の無作法や戒律違反は見逃してくれよ」


「はい、気をつけます!」


 おどけた調子で笑いかけるおやじさんに、イリムもようやく顔になった。


「さあ、冷めないうちに食べといで。こいつも持っていくといい」


 そう言って俺に渡してくれたのは、よく冷えたアイランヨーグルトドリンクの入ったコップが2つ。


「ありがとう、ごちそうになります」


 軽く頭を下げてから、先にベンチに陣取っているイリムの隣に腰かけると、視界の隅でおやじさんが軽く手を振ってくれたのが見えた。

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