安息の甘露(2)

 アルファーダの街のそば、河のほとりに住む獣医さんが怪我をした犬を診てくれることになった。

 本当は手術の間に付き添ってあげたかったんだけど、邪魔になってしまうと断られ……


 仕方がないので、街の市場で時間をつぶしてくることにした。

 犬についていてあげられないのはちょっと残念だけど、こうして相棒グジムと街でゆっくり過ごせるのは久しぶり。せっかくの機会なんだから、楽しんでこなくっちゃ。


 気持ちを切り替えながら診察室を出たところで、ハキムおじさんに呼び止められた。


「街に出るなら、ついでに何か菓子でも買ってきてくれないか?」


 ウィンクと共に投げ渡された財布。

 ちょっと気障な仕草も、この人がすると全然嫌味じゃない。

 やっぱり何をやってもかっこいいなぁ……


「あんなことがあったばかりだ。子供たちの気持ちが少しでも晴れるようなものが欲しい」


 いつだって、おじさんは人の心をよくわかってる。

 昨日も大切なものを奪われた村人たちのやるせない怒りを受け止めていた。

 今は辛い思いをした子供たちの心を少しでも癒そうと気を配っている。

 ……そして、僕に役割を与えることで、余計なことを考えないようにしてくれてるんだ。

 おじさんの優しさと懐の深さに、この人にはとてもかなわないと痛感する。

 せめてこの思いやりに応えて、村の子供たちに喜んでもらえるものを探してこなくっちゃ。


「お任せください! 思いっきり美味しくて可愛いのを選んできますね!」


「よろしく頼んだよ」


 おじさんは笑みを深くして頷くと、軽く手を振りながら診療所に戻って行った。

 念のため相棒グジムが隊長に電話を入れると、今日は昼過ぎまで休暇にして良いと言われたらしい。


「昼飯はこっちで食べてから帰ってこい、だそうだ」


「ほんと!? 何を食べようか……ちょっと時間があるから、あちこちお店も見られるよね?」


 二人きりで街で過ごすオフなんて久しぶりだ。今日はどこで何をしよう?

 この街には美味しいものもいっぱいあるし、珍しいものも楽しい場所もたくさんあるし……どこから回ろうか迷っちゃう。


「まずは菓子店だな」


「うん! 何にしようかな? バクラヴァ蜂蜜付けナッツパイ……それともアッシュルバルバル巣ごもりナッツ……アショーラ大麦入りミルクプリンもいいね!」


「甘いものばかりだな。少しは塩気のある菓子も買った方がよくないか? ナーブリスィーエチーズのカリカリ焼きみたいに」


「ふふ、それもいいね。君の好物だし」


 何を買っていこうか迷っちゃう。

 やっぱり美味しいだけじゃなくて、見た目も可愛い方が喜んでもらえるよね?


「菓子を買ったら、せっかくだからマーケットで中古の装備でも冷やかさないか?」


「それはいいね! 何か掘り出し物があるといいけど」


 本音を言えば、何も目新しいものがなくても、グジムと二人でいられるだけで僕は幸せなんだけどね。

 一緒にいられる時間を少しでも楽しんで、一つでも多く思い出を増やしたいな。


 こうして二人で話していると、明け方の戦場で死を覚悟したのが嘘みたい。

 あの時は、もう二度と彼とは会えないかもしれないと思った。


 ちゃんと生き残れて、こうしてまた笑い合うことができて本当に良かった。助けに来てくれた二人には、どれほど感謝しても足りることはない。

 もう、あんな風に早まっちゃいけないな。ちゃんと反省しなくっちゃ。


 会話が弾むと街につくまではあっという間。さほど時が過ぎた気もしないのに、目の前には大きな橋が見えてきた。

 橋の傍らには巨大な水車が回り、まき散らされた水しぶきが朝陽にキラキラと輝いている。


「わぁ、綺麗! 虹がかかってるよ!!」


「ああ、これを見るとアルファーダに来たという気になるな」


 思わず見とれている僕のために、グジムはトラックをいったん路肩に停めてくれた。

 助手席の窓から身を乗り出すと、水車の周りを舞う細かな水滴がまるで霧のよう。ちょっとひんやりするけれど、作戦で火照った頭を冷やすにはちょうどいいかも。


「ここで汲み上げた水って街のみんなの生活用水になってるんでしょ? 最初に作られたのは500年以上前なんだっけ?」


「ああ、ヤリク河は流れが速すぎるからな。そのままだと農業用水には使えないし、すぐに氾濫を起こしてそこらじゅう泥だらけになるしで大変だったようだ」


「水車で水を汲み上げるようになったおかげで洪水も減って、砂漠にも水が引けるようになったんだよね」


「ああ、おかげでこのアパマ平原全体に農地ができたんだ。今はこの国でも有数の穀倉地帯になっている」


 それまでは点在するオアシスくらいしか人が住んでいなかったのに、今では農村だけじゃなくて、大きな街もたくさんできたんだよね。

 こうしてみんなの暮らしを支えてくれる水車ができたのも、きっと女神様のお導きに違いない。


「いと気高き創世女神チャックチェルにみ栄えあれ! こんなに大きな水車が水の力だけで何年も何十年も……何百年もちゃんと動き続けてるんだから、すごいよね!」


「さすがに最初にできた水車がそのまま残ってるわけじゃないけどな」


「それでもすごいよ。他に何の動力も使ってないんだから」


「それはそうだが……いつまでも見入ってると菓子を買う時間がなくなるぞ。さっさと中に入ろう」


 苦笑したグジムが車を出すと、石造りの立派な橋を渡る。

 街を象徴するアルファーダ大橋、通称「天空橋」を渡るともう市街地だ。

 橋のたもとにある大きな公園を通り抜け、市場スークに向かう。


「まだ朝早いのに、もう人がこんなにいっぱい」


「すごい賑わいだな」


 朝の競りが終わったばかりなのだろう。公園に隣接した市場スークの駐車場は、沢山の荷物を抱えた人たちでごった返していた。


「僕たちがこの国に来たばかりの頃は、この辺も廃墟みたいになってたのにね」

 

「ああ、協定がうまく機能しているおかげだな」


 去年の秋、北側の隣国フェタブリドが仲裁して、僕たちが参加している解放同盟を含む反政府勢力と、シェミッシュ政府やリリャール、アリアナといった政府側勢力の間で停戦協定が結ばれた。

 もちろん、お互いに隙あらば少しでも勢力圏を増やそうと必死だから、ちょっとした小競り合いならばしょっちゅう起きている。

 それでも、民間人が多数住んでいる大都市へは、大規模な攻撃は行わないように心がけているんだ。


「ちゃんと守られてるのは大都市の中心街くらいみたいだけど……昨日もバシールの街はずれにある市場と農場がやられたんでしょ?」


「それでも成立前に比べたらかなりマシだ。アルファーダが一年でここまで復興したのもそのおかげだろう」


 他にもサラフット、クヌズなどの大都市は急ピッチで復興が進んでいるみたい。


「そうだね。こうして普通の人たちが安心して買い物したり、農作物を売りに来ることができるようになったんだもの」


 改めて、自分が守っているものの意味を噛み締める。たとえそれが「膠着状態」という名のかりそめの平和であっても、この穏やかな時間を守っていきたい。


「さあ、ぼうっとしていると休暇が終わってしまうぞ。さっさと市場スークに向かおう」


「うん!」


 停車した愛車からキーを抜いた相棒に促され、助手席から飛び降りる。

 そのままぐるっと荷台を回って彼に並ぶと、人々の笑顔が溢れる街へと足を踏み出した。

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