安息の甘露(1)

 昇りかけた朝陽が広い雪原をやわらかな珊瑚色に染める。

 徐々に東の空に青みが混じり始めた頃、俺たちは友軍の陣地を抜けた。

 この先の峡谷の街がアルファーダだ。


「二人とも、よくやってくれたね。負傷者も無事に手術を受けられたそうだ」


 あちこちに報告を終えて無線機を置いたハキム師がねぎらうように言う。


「良かった……みんな、助かったんですね」


「ああ、無事だ。これも君たちのお陰だよ」


 頼もしい笑顔を向けられ、相棒イリムはぱっと表情を明るくしたものの、すぐにまた眉を曇らせてしまった。


「あとはこの子が助かるといいんだけど……」


 傍らで浅い呼吸を繰り返す犬を気遣わしげに見やる。

 優しく背を撫でてやる手つきは、とてもついさっきまで生命を狙われていた相手にするものとは思えない。犬の苦し気な様子に本気で胸を痛めているのだろう。


「この辺りは牧場も多いはず。羊を診る獣医がいるかもしれない」


「そうだね、誰かいい人がいないか聞いてみよう」


 俺の言葉に頷いて再び無線機を手にしたハキム師は、耳慣れない言葉で誰かと話し込み始めた。

 シェミッシュ語でも、世界共通語として使われているフィグル語でもない。

 強いて言えばリリャール語にイントネーションが似ているが、発音が明らかに違う……これは、ティルティスの高地の言葉か?


『うん……うん、そうなんだ。だから……』


 断片的には聞き取れるが、話の内容は今一つわからない。

 声の調子はいつも通り朗らかだが、時おり瞳に鋭さが宿る。

 ただ獣医の手配をしているだけではないのかもしれない。


『わかった。よろしく頼むよ』


 通話が終わって振り返ったハキム師は、いつも通りの笑顔を浮かべていた。


「街の外れに羊や牧羊犬を診る産業獣医がいる。今日は手がすいてるからすぐ診てくれるそうだよ」


「本当ですか? ありがとうございます!」


 相棒イリムの顔が再びぱっと明るくなる。


「私も近くに行くついでがあるから一緒に行こう」


 そうして車を走らせて、たどり着いたのは河のほとりの大きな農場。

 この滔々と水をたたえたヤリク河はこの国の西部を南北に流れる貴重な水源だ。

 南の国境の山中からここアパマ平原をずっと北に向かって流れてきたこの河は、アルファーダから渓谷沿いにフェタブリドとの国境まで北上し、フェタブリド国内で大きく西に曲がって海に注いでいる。

 砂漠の多いこの国だが、ヤリク河の流域は肥沃な土地が広がり、豊かな牧草地や穀倉地帯が連なっているのだ。

 ところどころで見られる水車は、流れの激しい川から水をくみ上げるためのもの。そこから水路に引かれた水は、広々とした畑や牧草地を潤し、多くの生命をはぐくんでいる。


 農場の外れの畜舎の脇の小さな家が、産業獣医の診療所だった。

 入ってすぐは簡素だが清潔感のある診察室。奥にガラス戸で仕切られた大きな処置台がおかれた部屋があり、右手の部屋からは動物の声。おそらく患畜の入院室だろう。


 対応してくれた獣医は若い女性だった。

 シェミッシュ人にしては長身で細身の体格。すっきりと通った高い鼻筋に強い意思を湛えた鋭い琥珀の瞳。肌の色も抜けるように白い。

 どこかハキム師に似た面差しだ。もしかして、彼女もティルティス人なのだろうか?


「見た目はひどいけど、傷は深くないわ。しっかり止血もできてるし、縫合すればきっと助かる」


 彼女は血まみれの犬にもひるむことなく、手際よく診察する。てきぱきとした態度が小気味良い。

 きびきびとした口調に、聡明さと芯の強さが感じられる。


「軍用犬だから暴れられると面倒ね。ちょっとお高いけど、麻酔を使っても構わないかしら?」


「もちろんです!」


 彼女の提案に間髪入れずに頷く相棒イリムに肝を冷やした。

 国全体で医薬品が不足している現状で、貴重な麻酔薬が「ちょっとお高い」だけで果たして済むのやら。

 金額も聞かずに快諾してしまったが、俺たちの給料で払いきれるのだろうか。


 そんな俺の内心を察したのだろうか。


「だったら、治療費は半分私が出すよ。うちの村を救ってくれたお礼にね」


 軽くウインクしてハキム師が言った。

 ここで「全部」と言い出さないのが彼らしい。俺たちが遠慮しないで済むよう、気を遣ってくれているのだ。


「それではお言葉に甘えて」


 相棒イリムが余計なことを言いだす前に、承諾してしまおう。

 せっかくのご好意を無にするのは申し訳ないし、何より俺たちの財布も心もとない。

 変に意地を張って治療に支障をきたすよりは、素直に受け取れるものは受け取ってしまった方が良いはずだ。


「よし、決まりね。それじゃ、手術をするからあなたたちは診療所から出て下さる?」


「え、付き添うことはできませんか? お手伝いできることがあれば何でもします」


「そう言われてもね……あなたたち、医療の知識はあるの?」


 涙目で詰め寄られ、獣医師の女性は困惑しきりだ。


「簡単な応急処置くらいなら」


「それだけじゃ困るの。今は器具もなかなか手に入らないから、素人が変にいじって壊されると困るわ」


 きっぱりと言い切った女性獣医師は、きっと仕事に誇りと責任感を持っているのだろう。

 俺たち戦士と同じように。


「治療はしっかりするから、悪いけれども3時間くらい外でお待ち下さい」


 ここまで言われて否やはない。


「治療はこの人の使命マジュフードだ。敵と戦うのが俺たちの使命マジュフードであるのと同じように」


「でも……」


 まだ納得できない顔の相棒イリムにも言い聞かせる。


「俺たちが自分の使命マジュフードを部外者に妨げられたら困るだろう?」


「それはもちろん!」


「だったら、この人の使命マジュフードを部外者に妨げられることがあってはならない。ここはお任せして外に出よう」


「そっか……それじゃお邪魔をしてはいけないね」


 彼も少し残念そうではあるが納得はしたようだ。


「ちょっと街に出て時間をつぶしてきます。先生、この子をお願いします」


 二人並んで診察室を出た。

 この国の人々は朝が早い。今の時間ならもう市場があいているはずだ。

 3時間も待つのならば、行きつけの店を冷やかして来ても良いだろう。

 夕べは大立ち回りだったのだ。奮闘したイリムに何か美味いものでも食べさせてやりたい。


 さて、今日の市場スークには何があるだろう?

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