樫杖の蛇(9)
助手席の窓から身を乗り出し、周囲を警戒する。
この辺りは急な斜面にへばりつくようにして生えた林の中を、細い未舗装の道がうねうねと曲がりくねりながら通っているだけだ。
警戒すべきは左手にそびえる斜面のはるか上方からの砲撃と……それから右手からやってくるヘリやドローン。
ぐるりと辺りを見回すと、後方……すなわち南の中天にまん丸い月が皓々と輝いているのが見える。
冴え冴えとした白い光が雪に照り映え、いっそ眩しいくらいだと思ったところで、ハキム師と話し込んでいた相棒の声のトーンが急に上がった。
「あいつらが正義のヒーロー!? ありえないよ、そんなの!!」
「ちょっと落ち着け」
憤懣やるかたないといった風情の相棒。
窓から顔を引っ込めてなだめてみるが、すぐには興奮が収まらなそうだ。
なぜリリャールに不利な情報は、いくらでも誤魔化しがきくのか。
それは、武力で当事者の口を封じてから、せっせと偽情報の拡散に努めているからなのだ。それらを拡散するのは多くがごく普通の民間人であり、彼らは心の底からリリャールを正義の味方だと信じている。
捏造された正義。世間知らずの
「だってあいつら、世界中でやりたい放題してるじゃないか。ハキムおじさんの故郷のティルティスだって、中立を保っていたのにいきなり攻め込まれて、いくつもの街を焼き払われて……あげくの果てに、政府とは名ばかりの
全くもってその通り。少なくとも、俺たちの立場から見れば、イリムの言っていることは紛れもない事実だ。
リリャール。覇権主義を掲げる軍事大国。
俺の……いや、俺たちの
彼らは豊富な資源を擁する広大な領土と強大な軍事力を背景に、世界中あちこちに軍を送って好き勝手に振舞っている。
奴らは目的のためには犠牲をいとわない。ここでいう犠牲、とは敵に対してだけではなく、自軍の兵士だって例外ではない。
たとえ兵器が古かろうが練度が低かろうが、圧倒的な物量を目標に送り込み、押しつぶす。狂気のドクトリンがリリャールに勝利をもたらしてきた。
兵士など、まるで畑に生える雑草のように放っておけば次から次へと生えてくると思っているに違いない。
それが、この世界においてリリャール軍に対する共通の認識だ。
目をつけられた国は死に物狂いで抵抗しながらも、じわじわと国民と国土を食い荒らされて疲弊していくのだ。
俺たちの先祖が暮らしていたシュチパリアも、リリャールが起こした侵略戦争の際に起きた事故のせいで、500年が経過した今でも国土の大半が人の住めない状態だ。
詳しい原因は不明だが、リリャール軍が使った大規模攻撃魔法が暴走したのではないかと言われている。この世界から魔法が失われるきっかけの一つと言われている事件だ。
リリャールは昔からこういった兵器などの実験を繰り返して、世界のあちこちを汚染したり、破壊したり、人命や資源を掠め取っている。
――こんな国を正義のヒーローだと思い込めるなんて、いったいどんな思考回路をしているんだ?
そう言いたくなるのも当然だろう。
「あいつらの軍事力と無茶苦茶な戦い方が怖いから、どこの国も強く文句を言えなくて……ライバル国のヴェスパがたまに揚げ足とるくらいでしょ? それだって自分たちが損をしない限りは知らんぷりだし……」
憤る相棒に、ハキム師が困ったように微笑んだが、それは口元だけだ。車外に広がる深い闇に向けられた眼は、恐ろしく険しい。
「うむ、リリャールの蛮行は決して許されることではない。やられた側は絶対に忘れない。忘れようとしたって、忘れられるものじゃない……」
穏やかな声で語るハキム師の、握りしめた拳が白い。
無理もない。彼の故郷のティルティスは、もう百年以上にわたってリリャールに
故郷を失った敗者の記憶は、勝者のそれよりもはるかに深い。
それは、この車列に乗り込んでる全員が、痛いほどに知っている。
「でもね、自分には関係ないって思っている人たちには、見えないんだよ。」
「見えない?」
「そう、自分たちの親が殺されたり、住んでいる家や村が燃やされない限り、そんなものは見えないし、見ようともしない。最初から存在しないのと同じなんだ。ティルティスにせよマテリークにせよ、紛争が起きていること自体知らない人の方が多いかもしれない」
前方を進む救急車の赤いテールランプが闇の中で飛び跳ねるように揺れた。
速度を落とし、ライトに照らされた土と岩だらけの道路を注意深く見つめると、路面に大きな穴があった。
浅く、楕円状に抉れた穴……間違いない。
これは、榴弾砲弾を転用した
「この抉れ方は152mm砲弾だな……」
ハキム師がつぶやく。恐らくその通りだろう。
砲弾はしばしば待ち伏せ攻撃や、地雷として使用される。そしてこの地域で最も多く流入している砲弾は、リリャールが生産する152mm砲弾なのだ。
「こんなところにも爆発の痕がある。大勢の人がずっと苦しんでいて、犠牲者だってたくさんいるのに……」
繊細なハンドルさばきで破孔をするりと避けながらも、相棒の口は止まらない。
よほど頭に来ているんだろう。
「ああ、紛争は間違いなく存在する。今ここに、俺たちの目の前に実在している」
俺たちは闇の中で無言で頷いた。
えぐられた路面。幹の半ばで折れた巨木。
そこかしこに残る爆撃や砲撃の爪痕が、この地域が紛争地帯のただ中にあることを示している。
「それなのに、見たくない人には見えないんだ。紛争も、戦災で苦しむ人々も……」
バックミラーを睨み据えるようにしてつぶやくハキム師の声は、苦い響きを残して闇の中に消えていった。
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