【閑話】天涯の杉(1)
あの高原の街から逃げるようにしてやってきた。砂漠を渡って山脈を越えて、はるか東の異国の地。故郷の山は寒かったが、ここは更に寒い気がする。
長年
幸い、
そんな生活を送っていたある日のこと。小さな小さな荷物が届いた。ごく普通のクッション封筒に入った、角砂糖が数個入っている程度の重さの荷物。郵便ではなく、わざわざ高い送料をかけて小包として送ってきたのは腑に落ちない。わざわざここに手紙や荷物を送ってくるような知己などないはずだが……差出人は書かれていない。
不思議に思ったが、とりあえず包みを開けてみた。中からコロコロと何かがまろび出て、軽い金属音と共に床に転がり落ちる。
「……っ」
カラカラと軽快な音を立てて転がったのは弾頭が一つ。
忘れようにも忘れられない。やせた土地の、食料に乏しい故郷で俺たちに日々の糧を与えてくれた。使い慣れた猟銃のもの。
俺たちの
封筒に残ったメッセージカードには「就職おめでとう。落ち着ける街が見つかって何よりだ」と几帳面な字で書かれている。他には写真が数枚。どれもつい最近、職場の友人と撮ったものばかり。
ピコン
スマホの通知音が鳴った。
よく使うSNSにダイレクトメッセージが届いたらしい。余りのタイミングの良さに背筋が凍る。
本能が俺に語りかける。見てはいけない。絶対に、見てはいけないと。
ピコン
また通知音。まるで俺の怯えを見透かしたように。
ピコンピコンピコン
今度は立て続けに三回。震える脚が立っていることを拒絶した。力を失って崩れた膝のせいで尻を思い切り床へと打ち付ける。その拍子に奴らとやりあった時に痛めたアバラがずくりとうずいた。
「……っ……がは……っ」
慌てて息を吸おうとするが、アバラが痛んでうまく空気が入ってこない。
ピコンピコンピコンピコンピコン
胸ポケットのスマートフォンが、まるで狂ったように……いや、明らかに狂った誰かの意志に憑かれて鳴り続けた。まぶたがひくりひくりと痙攣する。眼球が勝手に胸のポケットに向こうとするのを必死で止めようとしているのだ。
シュルシュルシュルッ
恐怖に曝され過敏になった神経を逆撫でするような耳障りな音。思わず目をやると、部屋の隅と家具間に生まれた暗い闇の中に、鎌首をもたげた一匹の蛇。
「……っ!……ひぃっ!!」
人ならざる瞳に凝視され、呼吸のしかたを忘れてしまったようだ。俺の肺はまともに機能せず、喉もひゅうひゅうとおかしな音を立てるだけ。
奴の、あの瞳と同じ色だ。冷たく冴えた、緑とも青ともつかない瞳。感情を映さず、こちらの心を全て見透かすような、透徹した瞳。まるで底知れぬ湖の底を見るような……
ピコンピコンピコンピコンピコン
涙ににじんだ視界に、ポケット越しにもかすかに光るスマホの画面が映った。映ってしまった。
震える手が勝手に動いて薄っぺらい板を取り出してしまう。
持ち主の顔を認識したその小さな機械は自動的にロックを解除し、恐ろしい量の通知がずらりと並んだ画面をあらわにする。
指があたった通知から勝手にアプリが起動して、見たくもないメッセージを俺に見せつけてきた。
――次に現れたら容赦しない――
添えられたのは折れた山刀と古い猟銃の画像。あの時あいつらに奪われた武器。
……あいつだ。いつも寡黙で何を考えているかさっぱりわからなかった。
子供のころから何をやらせても器用にこなして、いつだってみんなの注目の的。それなのにいつもつまらなそうな顔をしていて、なぜかのんびり屋で危なっかしい落ちこぼれの世話ばかり焼いていた。
奴も掟にしばられ、身内の仇を討ったり討たれたりするうちに、いつの間にか村から姿を消していて……まさか、二人とも紛争地で戦闘員になっていたとは。
ピコン
またスマホの音が鳴る。今度は別のSNSからの通知。
――先に
ピコン
――お前たちが掟を破るなら、俺ももう遠慮はしない――
「……ひぃっ」
思わずスマホを取り落とした。
ピコン……ピコン……ピコン……
俺のアカウントがあるあらゆるSNSに一言ずつメッセージが届く。全てのアカウントにメッセージが届くと、次は最初のSNSに……
「もう決して手出しはしない。誓う。絶対にだ」
震える手で最初のSNSに返信すると、鳴り続けていた通知がぴたりとやんだ。
ほっと胸をなでおろしているともう一度、通知が。
――その言葉、忘れるなよ――
「わかった。絶対に忘れない」
返信して、奴からのメッセージにスタンプを連打する。しばらく狂ったようにスタンプボタンを連打していたが、全く反応がなくなったことに気が付いた。いつの間にかあの蛇もいなくなっている。
「は……はは……っ」
我知らず、乾いた笑いが口をつく。いったいどうやって探し当てたんだろう。SNSだけならともかく、正確な住所まで。
一瞬引っ越すことも考えたが、すぐに無駄なことだと首を振った。逃げたところですぐ特定されるだろう。
――あいつらにはもう関わるな――
高原の街で雇った何でも屋の言葉が頭をよぎる。
――踏んでる場数も覚悟も違う。あんたみたいな意気がってるだけの、まだ誰も殺したことのない一般人とは住んでる世界が違うんだよ――
あの時は腹が立ったが、今になってあの言葉が真実だったのだと思い知った。
見逃してくれたのだ。俺を殺さなかったのではなく、俺を人殺しにしなかった。自分たちと同じ人殺しに。「
兄貴が殺された夜のことを思い出す。自分が殺した遺体の横で、落ちこぼれはぺたりとへたり込んでひたすら泣きじゃくっていた。まるで自分の身内が殺されたかのように。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、うわごとのように「ごめんなさい」とくり返していた声が今でも耳に残っている。
そのせいで俺は泣くことも罵ることもできなかった。
奴はそのかたわらにしゃがんでずっと背中をさすってやっていた。滅多に表情を変えない奴が、痛みをこらえるような顔で。俺に気づくと、何とも言えない顔で一瞬だけこちらを見て、すぐに目を伏せた。
だから俺はそこをどけとも言えなかった。
思えばそれがあいつらを故郷で見た最後だった。
高原で再会した時の奴らはまるで別人だった。
落ちこぼれは別人のように堂々としていた。全く何の迷いもなく、とても人殺しとは思えない、澄んだ眼差しをまっすぐに俺に向けたまま。
毅然として揺るぎない態度、驚異的な戦闘技術……にもかかわらず、どこか透明で危うい空気を漂わせていた落ちこぼれ。今にして思えば、あれは死を前に覚悟を決めた人間の強さとはかなさだったのだろう。
そして、奴は研ぎ澄まされたナイフのようにぴりぴりと殺気を放って、くびり殺しそうな目で俺を睨み据えていた。
殺すことにも殺されそうになることにも慣れたあいつらは、俺たちとはもう人の生死にまつわる感覚が全く違う世界にいる。俺はそこへの一歩を踏み外さずに済んだ。
このままかけられた情けに従って平凡な人生を享受しようではないか。
いつの間にかへたりこんでいた俺は、誰もいない部屋で力なく笑い続けるしかなかった。
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