第6話 私だけがいない絵

「孝一さんはいつから、こういうお仕事をしていらっしゃるの」


「こういう仕事とは」


「この看病人と言うお仕事」


「ああ、これは本当に最近です」


「それでは最近まで音楽を続けていたということ」


「ええ、当然食べてゆくのもぎりぎりでした。

バンド仲間を集めてはいつも音楽とは、なんて青臭いことを言ってね。

そしてそんな私たちを祥子は嬉しそうに見つめて、傍らで絵を描いていました」


「孝一さんはミュージシャンなんですものね」


「そう面と向かって言われるこそばゆいですね。

でもそのせいで祥子に苦労をさせることも多かった。

今言ったように。

食べてゆくのがやっと、きっと子供がいたら育てることも出来なかったかもしれない。

まあそれを子供を作らないという言い訳にしていたというところもあります。

夫婦というのは不思議なものです、長く一緒にいると、いろいろなことが綺麗におさまって行くんです。

それが辛いことでも。

楽しいことでも。

嫌なことでも。

我慢が出来ないことでも。

人間は慣れてくるんです。

長い人生です、あの絵に縛られていたとして、祥子が私と同じように、子供はいらないと諦めていたとしても、祥子は子供が欲しいと思う瞬間があったとしても、それに応じようとしない私。

そして、そんな思いがあったとしても、私には言えない。

そのことについて私への不満があったはずです。

でもそんな気持ちも生活の中に納まってしまう。

そうして私たちは何十年も普通の夫婦を続けてきた。

そしてそれは祥子自身も分からないうちに心の奥底に蓄積してゆくんです。

そして誰も気づかないうちに祥子の心を蝕んで行った。

そんなことに私は一つも気付かずにいた」


「そして、祥子さんは?」


「祥子の心は何年も前から壊れかけていたのに、私もきっと祥子自身も気付かず。

そして、膨らみ過ぎた風船が破裂するように、砕け散ってしまった」


「そんな」


「祥子の心を、壊したのは私なんです。

祥子のことは子供のころから知っていたのに。

祥子は天真爛漫なんかじゃなかった。

何も知らない子供だっただけだ。

本当はあまりに心が細かった。

そんなことにも私は気付いてあげられなかった」


「孝一さん、孝一さん、落ち着いて、ご自分を責めてはだめ。

後悔は何も生まない」


「すみません、少し取り乱しました」


「その納まってしまった生活は、楽しいものだったんでしょ」


「さあ、どうだったんでしょう。

本当に普通の夫婦だったと自負しています。

でも祥子を病気にさせてしまったということは、祥子にとっては全然楽しくなかったのかもしれませんね」


「そうなのかしら」


「そうは言っても、楽しい思い出だって、たくさんありますよ。

初めて旅行をしたのは、結婚して半年くらいでした。

なんて事のない温泉旅館でしたが、

楽しかった。

非日常というんですか、普段と違うところで、いつもより豪華な食事をとり、温泉に入る、家族風呂なんかもあってね、一緒に風呂に入るなんて、めくるめく経験でした。

私と祥子は子供がいないから、良く二人で出かけました。

そんなにお金があるわけではないから、近くの公園で日がな一日ぼんやりと過ごす。

私が即興で歌を作り、祥子はその歌のイメージで絵を描く、そんなことが私は楽しくてしかたがなかった。

そして祥子も楽しいいと思い込んでいた」


「楽しかったんじゃないかしら」


「さあ、どうでしょう、そうなら病気になんてならなかったかもしれない」


「そんなことはないと思うわ、私なら、そういうことは楽しくて仕方がないもの」


「あなたにそう言ってもらえるのが、一番うれしい」


「あら嫌だわ。

なんだか、あたくしが祥子さんの代弁者のようになっている」


「いいんです。

祥子がどう思っていたのか、私にははかり知ることが出来ない。

ならば、あなたから聞きたい」


「そんな。

でもその後は平和だったということですわよね」


「さっきも言ったように感情というのは時と共に型にはまってゆくんです。

それは慣れるとか。

諦めるとか。

許せるとか。

そういう感情です。

祥子がどの感情だったのかはわかりません。

でも二十年くらい私たちは本当に平穏でした。

相変わらず、私たちは貧乏でしたが、そんな中で祥子とは同志でした。

この貧乏という状況をどう生き抜くか、そんな感情の中で子供のこと、私の所業などもその中に埋没していったのかもしれませんでした。

祥子に変化が訪れたのは、あの頃からでした」


「あのころ?」


「ええ、私の音楽が認められ始めた頃です。

相変わらず私はミュージシャンとしては鳴かず飛ばずでしたが、偶然私の作った曲が割と有名な人に使われたんです。

するとその関係で私の仕事が広がり始めました。

様々なアーティストに楽曲を提供するようになったんです。

するとプロデュースのようなことも始め、さらにその方面で認められるようになりました。 だんだん忙しくなり、家にいない日も多くなって来ました。

収入もそれまでとは比較にならないくらいになりました。

その時の私には分からなかったんですが、そのころから私と祥子は、同士では無くなっていたのです。

でも私には十分な収入があり、生活にも余裕が出来て、いや余裕なんてものではない。

むしろ金持ちと言われるくらいになりました。

当然私の立ち位置も変わる。

私のまわりには取り巻きのような者達が増えて行きました。

いい気になったつもりはありませんでしたが、祥子から見れば、私は明らかに変わったと映ったと思います。

でも祥子は満足していると思い込んでいました。

だって今まで出来なかったことの全てが出来るのですから」


「祥子さんはさびしかったのかしら。

いつもそばにいた孝一さんがどこか別のところに行ってしましたような、そんな感じになってた」


「あなたがそう感じるなら、そうだったんですね。

あるいは同志として抑え込まれていた、過去のことが思い起こされたのかもしれません」


「お子さんのこと?」


「ええ。

きっと祥子はあのころのことを忘れてはいない、そして許してもいないと思いました」


「そう、祥子さんに言われたの」


「いえ、それを言ってくれたら、私も少しは考えたかもしれないし、何らかのことが出来たかも知れない。

でも祥子は何も言わない、ただ不機嫌になって行くだけでした。

だから、そのころまでの私は、そんな祥子の反応にむしろ、怒りさえ覚えていた。

こんなに生活が変わって何が不満なんだとね。

でもそういうことではなかった。

祥子との会話は段々無くなって行きました。

一緒に居ても、ただ重苦しい空気が流れるだけ。

そんな時、新しい子供の絵を見つけました。

それは最近書かれたようでした。

そこには家族の集合写真が描かれていました。

祥子、そしてもうずいぶん歳をとってしまった、子供とその妻、その外側にその子供たちとその夫、と妻、さらにその子供たち。

そこにはひ孫まで描かれていた。

でもそこに私はいない。

その時、ショックとも、怒りとも分からない感情が私を襲いました。

当然のことながら、段々私は家に寄り付かなくなる。

そんなことが何年も続き、私はそれが当たり前のようになっていきました。

でも離婚という言葉だけは私の脳裏に出ては来ませんでした。

今にして思えば、あの小学校の時に出会ったころ、ランドセルをつかまれてから、なにも変わらず私たちは深い、深い根底のところでつながっていたのかもしれない。

そして。

そんな生活がつづいたあの日。

祥子が倒れた。

脳溢血でした。

奇跡的に後遺症はありませんでした。

ただ一つのことを除いて。

祥子は記憶が戻らない。

その時になって私はすべてのことに気付きました。

祥子の悲しみ、孤独、そして押し殺していた、想い。

私は祥子と離婚しなくて良かったと心底思った。

でも同時にもし離婚をしていたら、祥子をこんな目に合わせなくて良かったのではとも思った。

でも祥子とは離れられない。

私は祥子のことを愛していたんだと強く思いました。

そして、あの出会った時から、ずっと祥子とすごした日々の記憶が波のように押し寄せ、 私を苛む。

こんなにも愛していたのに、そのことをすっかり忘れていたことを、そして思い出すことはあの二人で肩を寄せて貧乏に耐えていたころ。

まだ私と祥子が同志だったころのこと、そしてその象徴だった子供の絵をやぶいてしまったこと」


「泣かないで、孝一さん。泣かないで」


「すみません、ちょっと取り乱しました」




「孝一さん」


「はい」


「あたくしが。

あたくしが、祥子なのね」



「そうだよ。

祥子。

思い出したかい」


「なんとなくよ」


「いいんだ。

少しづつで」


「なぜかしら。

涙が流れるの。

まだ完全に思い出したわけでは無いのに」


「いいんだよ祥子、いいんだ」


「ありがとう」


「そろそろお昼だ。

ご飯を食べたら、一緒に庭を散歩しよう」


「ええ。

何だかとても気分がいいわ」


「僕もだよ祥子」

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