第3話  祥子と絵

「子供も大きくなると、自分の置かれている状況が理解できるようになる。

それはある意味ひどく残酷なことでもあります。

それまで自分の状況は他の友達と同じと思っていた。

だから対等に付き合っていた。

でもあるとき、気付くんです。

うちはお金があまりない家庭なんだと」


「祥子さんのお家はお金がないお家だったの」


「そうですね、母子家庭ですからね、余裕はあまりなかったかもしれません」


「お父様は?」


「いましたよ、別に死に別れた、ということではありませんでした。

完全な離婚です。

だから養育費なども、もらっていました。

でもそれでも親子二人が暮らすことが精いっぱいという感じでした。

だから祥子を大学に行かせるほどのお金はなかった」


「まあ、可哀そうに」


「祥子は絵を描くことが大好きでした。

そしてとても上手でもあった。

暇さえあれば祥子は絵を描いていた。

それは小学生の女の子がノートの隅に描いてゆく、漫画のような絵から始まって、段々本格的になってゆきました。

本来はそういう漫画のような絵からそれ以上の絵に発展してゆくことは少ないんですが、高校生になると、本屋で、デッサンの基本みたいな本を見て、独学で勉強をしてゆきました。

するとやはり才能があったでしょう。

祥子の絵は本当に上手になってゆきました。

たとえば、細かな遠近法が必要な建物や部屋の中のようなところも、本当に上手に描けるんです。

そして、その延長線上に、祥子は絵を本気でやりたいと思い始めていました。

だから祥子は美大に行きたかった。

でもそれを母親に言いだすことが出来ずにいた」


「なぜ?」


「だって美大はお金がかかることを知っていたから。

そして家にはそんなお金がないことも分かっていた。

でも高校三年になるころ、その思いは抑えることが出来なくなっていた。

そして祥子は意を決して、母親と対峙しました」


「で、どうでしたの」


「結果は分かり切っていました。

現状を確認したにすぎません。

そして祥子はそのことを、ひどく後悔しました」


「現実を思い知らされて、ショックを受けたから?」


「いえ、そのことを言ったことで母親が泣き崩れてしまったから」


「泣き崩れた?」


「ええ、母親は祥子が絵の勉強をしたがっていることに薄々感づいてはいたけれど、それをさせてあげられるだけの余裕が無かった。

だから、どこかそのことに触れないようにしていた。

でもその時、面と向かって、はっきり言われた。

美大に行きたいと。

そのことを母親は思い知らされた。

娘の夢をかなえてあげられないことに泣き崩れたんです。

祥子はそんな母の姿に後悔をした。

そんなこと聞かなくても結果は分かり切っている。

あるいは自分の夢は自分の心の中にしまっておけば、ここまでお母さんを苦しめなかったのではと」


「かわいそうに」


「ええ、可哀そうです。

祥子はその母親の姿に、ショックと後悔で、

(お母さん、大丈夫よ絵なんか学校に行かなくたって描けるもん)

というせっかく用意していた、強がりさえ言えなくなってしまった」


「祥子さんはお辛かったでしょうね」


「ええ、本当に。

可哀そうに、そんなことがあってから、祥子は母親にほんの些細な我儘も言えなくなってしまいました。

大学は無理をすれば行くことはできたんです。

奨学金とかもありましたから。

でもあのころは、返さなくていい奨学金はハードルが高かった。

美大のことがあって祥子はもう母親に我儘を言うことが出来なくなっていました。

それでも普通の大学に行こうか、行くまいか。

祥子は随分悩んだそうです」


「祥子さんは大学に行ったの?」


「結局、祥子は大学には行きませんでした。

小さな食品卸の事務員として就職しました。

でも幸運なことに正社員としてです。

その時点で養育費はなくなりました。

あるいは祥子の母が分かれた祥子の父親に大学の費用を出してほしいと言えば、祥子は大学に行けたかもしれない。

でも祥子の母親はそれをしなかった」


「なぜ、だって可愛い娘なんでしょ」


「それ以上に祥子の母親の意地だったのかもしれない。

祥子もそこまで、すがってでも大学に行こうとは考えなかった。

でも祥子の母親は最後までそのことを気に病んでいました。

自分のささやかな意地で、娘の将来を棒に振ってしまったのかもしれないとね」


「その時、祥子さんはどう想っていたのかしら。

自分のポリシーを曲げてでも、本当は大学に行かせて欲しかったのかしら。

もしそうならお母様を恨んでいたのかしら」


「恨んではいなかったと思います。

ただ。

自分の意地で娘を大学に行かせてあげられなかった。

そのことを祥子の母親は死ぬまで気に病んでいて、その姿を間近で見ていた祥子が、その姿に、決して母親を恨むことはありませんでしたが、どこか思うところもあったのかもしれません。

とうとう最後まで

(大丈夫よママ、別に気にしないよ)

という言葉を言うことが出来なかった」


「どこか思うところというのは、心のどこかにお母様を恨む気持ちがあったということなのかしら」


「さあそれは分かりませんね」


「聞いてみるとか」


「とんでもない、そんな怖いこと聞けるもんですか」


「あなたは、お母様を恨む祥子さんを受け入れたくないのね」


「そうかもしれない。

祥子にはそんなことで実の母親を恨むような人間にはなってほしくない」


「近くで見ていた孝一さんが、たとえ希望的観測が混じっていたとしても。

そう感じるなら。

きっと祥子さんはお母様を恨んでいないのでしょうね。

でもそれってどうなのかしら。

素直に恨んでいた方が、心の平穏が保てたとか」


「そうですね。

それはあるかもしれない、でもそこまでして祥子は大学に行きたかったわけでもない。

だから私から見てもそんなに辛い目にあっているという感じはしませんでした。

経済的理由で大学にいけなくたって。

それが即不幸ということはない。

それに幸せか、不幸かというのはその状況によって変わりますから」


「そうね」


「まあそのころの私は祥子と付き合うという感じではありませんでした。

幼馴染の知り会いというくらいです。

祥子の近況は把握してはいましたが。

積極的に介入するということは基本的にありませんでした。

だから働き出して、四年後に母親が亡くなったときも、少し後になって聞いたくらいでした」


「まあお母様、亡くなられたの」


「ええ、安心したんでしょうね。

急に力が抜けた感じで。

でも祥子の母親は安心したかもしれませんが、祥子はそうはいきませんでした。

だってたった一人の肉親を亡くしたんですから。

それも物心ついたときから、二人きりで生きてきた存在でしたから」


「お父様はそのころまだご存命だったでしょう、祥子さんはお父様を頼らなかったのかしら」


「それはあのころの祥子には出来ない相談です」


「そうなの」


「ええ、そのころの祥子は父親をないものとして、意識の外にあったんです。

これは後でわかったことなんですが、離婚した子供と別れた配偶者の間というのは微妙な関係です。

所詮夫婦なんて、他人同士が家族を構成するわけですから、一度心が離れればそこは他人に戻ればいいだけです。

でも子供は違う。

血の繋がりがある、母親は父親のことが嫌いになり、その存在の全てが憎悪の対象となり、顔を見るのも嫌、同じ場所の空気を吸うことすら、忌々しいと思っても娘は違う。

それは父親なんです。

会いたいという思いは絶対にあるはずなんです。

でも会いたいとは思わなくなる」


「なぜ?」


「なぜだと思いますか」


「母親の影響かしら」


「そのとおりです。

母親から、あなたのパパはとんでもない人、と刷り込まれる場合もありますが。

そうでなくても、ママが会いたいと思わない人なんだから、あたしも会いたいとは思わない。

祥子もずっとそう思っていた。

でも母親が亡くなってその束縛が解けた」


「それはそれで良かった、と言った方がいいことなのかしら」


「さあ、それはどうでしたかね。

祥子はそのころになって父親に会いたいという思いが湧いてきた。

それは全く不可解な感情でした。

だってそうでしょう、今まで少しも会いたいと思わなかった父親に突然会いたくなる、そしてその思いは日ごとに強くなる。

そしてその思いは抑えがたいものになる。

でもどうしょうもない」


「連絡は取らなかったかしら」


「取れなかったというのが本当のところでしょう。

祥子にとっては逢ったことのない父親でしたから。

それに怖くもあった。

接触をしたことのない父親に会う、それは何らかの助けを求めることになるかも知れない。 でもその勇気が祥子にはなかった。

もしも冷たくされたらどうしょうとかね」


「そんなものかしら」


「ええ、祥子の中には優しくない父親と、優しい父親の二人が共存していた。

どういう経緯があったにせよ、自分と母を捨てった父親、でもそのわだかまりは祥子の母親との関係においてだけで、自分が行けば、優しく接してくれる父親。

祥子の中にはこの二人が共存していて、それを見極める勇気がそのころの祥子にはなかった」


「わかる気がするわ」


「わかりますか」


「ええ」


「それはよかった」

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