第19話
「そうじゃない!」
放課後の教室に工藤さんの声が響く。一週間に及ぶ工藤さんの緻密な演技指導によりどうにか5つ目のセリフにたどり着いた俺は、またもそこでつまずいた。一日1セリフをナチュラルにするのでやっとだった。このままでは何日かかることやら。途方もなく感じた。
「なんで!なんでこんな気持ち悪い言い方になるの!」
工藤さんはもはやオブラートに包まない。だが俺も自分で聞いて実際気持ち悪いから、文句も言えない。
「うーん、なんでだ……」
自分でも分からなかった。色々と考えてやってはいるものの、絶望的に上手くならない。日常会話の方がまだ感情がこもっている気がする、と言われ日常通りを意識してもおかしくなるし、かといって演技を意識すると気持ち悪くなる。何が原因かと言われたら、もう何か全部、としか言えないような酷さだった。
「とりあえずちょっと休憩。皆の練習見に行こうか」
工藤さんに促され別教室で練習しているクラスメイト達の元を訪れる。みんな既に演技らしい演技ができていて、声も初日に比べると大きく、よく通るようになっていた。そしてその中でも一人、冷泉は頭一つ抜けていた。彼女のセリフを、演劇部の安田さんはうっとりした表情で聞いていた。プロに指導を受けたことがあって、しかも普段からずっと演技しているようなやつだ。当然と言えば当然だった。
これが十分に発揮されれば、我がクラスの演劇は素晴らしいものになるに違いない。……足を引っ張られず発揮されれば、だ。
「……やるよ。二ツ橋君」
工藤さんも同じことを考えたようで、焦るように早足で教室に戻った。
放課後、そして土日も練習をするようになった。工藤さんの紹介で演劇部に出向き、俺の演技のどこが悪いか話し合ってもらったりもした。
「発声からじゃない?」
「いや、感情の表現が」
「身振り手振りも」
議論は2時間続き、遂に結論は出なかった。強いて言えば、全てが悪い、と言うのが結論だった。俺という人間が、絶望的に役者は向いていないらしい。
「難航しているみたいですね」
「ああ。まだ2ページ目」
最近は冷泉と帰っている間も演技のことで頭がいっぱいになっていた。なぜここまで上手くできないのか、誰にも分からなかった。もう10月。練習を始めてから2週間だ。皆は既に物語の終盤近くまで練習しているというのに。俺が追いつかないことには俺と共演する場面の練習もできない。そう考え、焦りが心に積もっていく。
「でも最初よりは上手くなっていますよね。たしか三日で1セリフから二日で1セリフくらいに増えたって工藤さんが喜んでいましたよ」
「ああ。どうにかな。コツを掴んだ、というよりは多分ようやく、十数個あるうちの弱点が一個なくなったくらいのことだけど」
「うーん……」
冷泉は考え込み、一つの提案をした。
「家でも練習しましょうか。私が教えます」
「冷泉が?」
「はい。もちろん坊ちゃま次第ですが」
思わぬ提案に驚く。以前なら冷泉と仲良くなるチャンスだ、と思って張り切っただろうが、今はそんなことを考えている余裕もない。藁にも縋る思いで、そんな心理は一切なしに冷泉にお願いすることにした。
翌日、学校での練習が終わり一人で帰宅する。今日冷泉は学校を休んだ。それが俺の演技のためだという。そして今日は盗聴器をつけて一日過ごすことを命じられた。日常生活の会話、そして演技の時の会話を比較し分析するためだという。自分から付けるのは気が進まなかったが、背に腹は代えられない。朝一番に紙に「今日は盗聴されている。余計なことは言わないように」と書いて智也に見せ、他愛ない会話ばかりをしてトイレにも籠らず過ごした。家の玄関を開けると、他の侍女と一緒に冷泉が出迎えた。胸元に分厚い資料を抱えている。
「今日は一日お疲れ様でした。これが、坊ちゃまの日常と演技を分析してできた、改善のための教科書です」
「ありがとう」
冷泉の手から渡されたそれはズシリと腰まで響くくらいには重く、本番まで1か月もないこの状況ではすぐにでも取り掛からなければ間に合わないとすぐに判断した。冷泉もそのつもりだったらしく、すぐに練習は始まった。発声練習から始まり、基本の演技論の学習と実際の演技の指導、作品の背景や解釈などを知る講義も行い、それらをばらばらに行うことで集中力を限界まで引き延ばしていた。
「違います」
「そうじゃないです」
「何でその言い方をしたんですか?」
冷泉の指導は厳しかった。しかしその分成果はついてきた。練習時間を増やしたこともあるだろう。工藤さんとの練習も相まって、今までの数倍の速度で上達していた。
「すごいじゃない!二ツ橋君!」
「ま、まあね。家でも沢山練習してるから」
工藤さんは目を光らせながら俺の演技の上達ぶりに感動していた。
「このペースで上達するなら、演劇部にスカウトしてもよろしくってよ」
「いや、遠慮しておくよ……」
こんな生活続けるなんて絶対無理だ。睡眠時間も削ったドーピング的な努力は冷泉や侍女たちのおかげで最低限の負担で済んでいるが、疲れは確実に蓄積していっているのが分かった。
冷泉の指導が始まって2週間。いよいよ本番まで一週間を切るというところで、異変が起き始めた。
「あ、ごめん。私か」
「カット!麗ちゃん大丈夫?疲れてるなら無理しないでいいよ!」
「いや、大丈夫!ごめんね、ちょっとセリフ飛んじゃっただけ!」
冷泉は舞台のみんなに手を合わせて謝った。
俺より先に、冷泉が限界を迎えつつあったのだ。
「大丈夫か?」
「何のことですか?」
「演劇だよ。根詰めすぎだ。少し休め」
「大丈夫です。疲れていないです」
冷泉は夜の闇の中、むすっとした顔でそっぽを向いた。目の下にはわずかにクマができているように見えた。冷泉は普段の学校に放課後のクラス練習、そしてその後は家で俺の演技指導もして、侍女としての職務もこなしている。俺より数倍の速度で疲労がたまっていくのだろう。
家に帰って演技指導をしてもらう。冷泉はいつも通り俺に容赦なく檄を飛ばす。しかし、えっと、と言葉に詰まったり、質問してもぼーっとしていて聞き直すことも増えてきていた。
「なあ、ここは……」
セリフの解釈について冷泉に聞こうと振り向くと、後ろで監視していたはずの冷泉はすーすーと寝息を立てていた。ついに限界が来たのだろう。ため息をついて毛布をかぶせた。
……元はと言えば俺の演技の面倒まで見ることになっているから、冷泉の負担が増えているんだよな。この前は休めなんて偉そうなことを言ってしまったけれど、休めない状況を作っているのは俺だ。このままのペースなら、俺の演技はぎりぎり間に合う。けれど、その時冷泉はどうなっているだろう。あと5日。やるしかない。俺は机に向き直り、辞書のように分厚いそれを読み続け、解釈を深めた。
「おはようございます」
「……おはよう」
冷泉の声で目が覚める。どうやら勉強しながら俺も眠ってしまっていたようだ。窓からは朝日が差し込み、スズメが騒がしく鳴いていた。んーと伸びをすると、腰がぱきぱきと音を立てた。首も肩も凝っていて、とてもではないがいい目覚めとは言えなかった。
「その、すみません。眠ってしまったみたいで」
「ああ、別にいいよ。一人でもできたし」
サッと資料を閉じる。
「そうですか。それと、ありがとうございます。毛布」
「ああ、それもいいよ。ゆっくり休め」
「……はい。でももう出ないいと遅刻しますよ」
時計はいつも出る時間の10分前を指していた。
「やばいっ!」
急いで支度をして家を出た。
「あ、ごめん……」
「いいよ!大丈夫大丈夫!」
冷泉のミスは少なくなったもののやはりなくなりはしない。普段はそもそも一つのミスもしないようなやつだ。昨日少し眠っただけでは解決するほどの回復には繋がっていないみたいだった。
「二ツ橋君はどんどん良くなってるけど、麗ちゃん大丈夫かな?」
工藤さんが不安げに言った。
冷泉の表情は疲れ切っていた。
「では今日はこれで」
冷泉がホールを出て行く。その後ろ姿はいつもより小さく見えた。俺は自室に戻り、資料を読み続けた。せめて一日だけでも、冷泉を休ませなければ。
「じゃあ最初から最後まで通していくよ!」
「おお!」
本番2日前、最後の調整も終えてついに衣装、大道具小道具などのすべてが完成した。学生の文化祭にしてはかなりクオリティが高いと思う。それだけ演劇部だけでなく、クラス全体の士気が高かったのだろう。通しでの練習も滞りなくできるようになり、このまま臨むことができれば舞台は成功するだろう。だがまだただの成功だ。大成功させるには、冷泉が最高のパフォーマンスをしなければ。
「なあ、ちょっといいか」
「うん?」
帰り道、冷泉に言った。
「お前、明日学校休め」
簡潔にそう言った。冷泉は何を言っているんだと表情で主張する。
「なぜですか。本番は明後日ですよ」
「だからだよ。お前は休んだ方がいい」
「ですけど……」
「何が不安なんだ」
俺は鞄から冷泉に貰った資料を取り出した。
「もう全部覚えたし、明日の全体練習も演技論に沿ってやる。これじゃダメか」
「……でも、私がいないとジュリエットが」
「工藤さんには話しておいた。明日だけは工藤さんがジュリエット役だ」
「いつの間にそんな話を……」
「ほらな。前は俺の全部の会話、関係ないことまで聞いて覚えていたのに、今じゃ自分に関する会話すら聞けていない。限界なんだよ」
「そんなことは……。そうです、休んだら監視だってできないですし」
自覚のないミスに狼狽しながらも冷泉は食い下がる。こいつの責任感は危ういほどだ。自分のことをもう少し顧みてほしい。
「じゃあこれでいいか」
俺はポケットから盗聴器を取り出し、スイッチを押して学ランの胸ポケットに付けた。
「これでいいか?どうしても監視が必要なら智也に頼んでおくよ」
冷泉は驚いて、そして俯いた。ようやく折れてくれたようで、力のない、けれども安心した表情になった。
「……いえ、大丈夫です。すみません、ご迷惑をおかけします」
冷泉は頭を下げた。その声が、いつもの平坦な声が微かに震えていた。
「……いいよ。俺の方がなん十倍も迷惑かけてるから」
本当ですよ、と言って冷泉は目元を指で拭った。
翌日、冷泉を欠いた状態での全体練習だったが、代役の工藤さんはさすがの演技で、初めてやるのにさらりと高クオリティのジュリエットになりきってみせた。それに負けないようにと、俺たち他の役も演技のクオリティを上げていった。俺の演技は最後の最後でようやく完成し、冷泉や工藤さんたちには及ばないものの、他のクラスメイトには負けない、くらいの仕上がりになった。最初の頃から見たら大進歩だ。
「あ、もしもし、麗ちゃん?体調はどう?……それなら良かった。今から明日に向けてみんなで円陣組むから、麗ちゃんもどうかと思って。……うん、じゃあいくね」
工藤さんが冷泉に電話を繋ぎ、皆が円になって肩を組む。
「1A!絶対成功させるぞー!!!」
「おお!!!!」
『おお!』
一瞬遅れて冷泉の声も聞こえる。いよいよ本番だ。
文化祭当日、冷泉は朝一番に俺の部屋を訪ねてきた。顔色は見違えるほどよくなり、目の下のクマもなくなっていた。さすがに回復速度も早い。
「もう大丈夫そうだな」
「はい、坊ちゃまのおかげです。ありがとうございました」
「こちらこそ。お前のおかげで少しはマシな演技ができるようになったよ」
かしこまって二人で頭を下げ合う。頭を上げるタイミングが思いがけず一緒で、ふっと破顔した。
「成功させよう」
「はい」
俺たちはそれぞれ学校へ向かった。
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